風船 おじさん 現在。 風船おじさん鈴木嘉和行方不明事件その後は生きてる?死んだ? 妻や娘の現在

考察!消息不明となった風船おじさんのその後

風船 おじさん 現在

プロフィール ・名前: 鈴木 嘉和(すずき よしかず) ・本名: 石塚 嘉和(いしづか よしかず) ・愛称: 風船おじさん ・生年: 1940年 ・出身地: 東京都 ・失踪: 1992年11月 ・出身校: 国立音楽大学附属高等学校 ・職業: ピアノ調律師、経営者(自称冒険家) 風船おじさん(鈴木嘉和)の経歴 国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員となった風船おじさん(鈴木嘉和)は、東京都小金井市でピアノ調律業を営んでいました。 風船おじさん(鈴木嘉和)はその当時、借金苦に陥っていた… 1986年には銀座で音楽サロン「あんさんぶる」を開店、さらにコーヒーサロンや雀荘、パブレストランなどを経営するものの、いずれも上手くいかず、 1990年には遂に「ミュージック・アンサンブル」が約5億円もの負債を抱えて倒産してしまうことに…。 風船おじさん(鈴木嘉和)が起こした風船にまつわる2つの事件 風船おじさん(鈴木嘉和)と言えば、1992年11月、檜の風呂桶に大小の26個の風船をくくりつけた自作のゴンドラ「ファンタジー号」に乗って、遠くアメリカ大陸を目指すも、2日後には消息を絶ってしまった行方不明事件で一躍その名が知られる存在となりました。 無断で風船をつけた椅子で飛び立ち、民家の屋根に不時着する 風船おじさん(鈴木嘉和)は、1992年4月17日、東京都府中市の多摩川河川敷から、府中署の制止を無視して、自分が座った椅子に5mと2. 5mのヘリウム風船2個を直接くくりつけ、千葉県の九十九里浜を目指して飛び立ちました。 youtube. 約1時間飛行したところで、 民家の屋根に不時着した風船おじさん(鈴木嘉和)は、左手に怪我をした程度で済んだのですが、民家は瓦が壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けたものの、 風船おじさんからの弁償はおろか挨拶すらなかったと言います。 そして、その約7ヶ月後、風船おじさん(鈴木嘉和)は無謀にも、ハワイではなくアメリカ本土を目指して太平洋横断に挑戦するんですよね。 風船おじさん(鈴木嘉和)行方不明事件の詳しい経緯と真相 風船おじさん(鈴木嘉和)の冒険の目的とは? そもそも風船おじさん(鈴木嘉和)が「ファンタジー号」でアメリカを目指す目的は、破滅の危機に瀕している米ネバダ州の鳴き砂保護を訴えるためだったそうで、元々は、日本でも鳴き砂現象が見られる島根県邇摩郡仁摩町から出発する予定でした。 そこで風船おじさん(鈴木嘉和)は、1992年11月23日、大小26個のヘリウム風船を付けたゴンドラ「ファンタジー号」の 試験飛行を琵琶湖畔で行うことにしたのです。 風船おじさん(鈴木嘉和)は周囲の制止を振り切ってアメリカへ旅立った… 当日、現地には鳴き砂保護の第一人者である同志社大学の三輪茂雄教授と、同大学の学生7名、さらに支援者数名と密着取材をしていたフジテレビ「おはよう! ナイスデイ」のテレビクルー、朝新聞近江八幡支局の記者らが集まっていました。 鳴き砂の父 三輪茂雄先生之碑 ただ、この日の目的はあくまで、 ファンタジー号の300m上昇実験という名目だったんですよね。 が、しかし!120mまで上昇したファンタジー号は一旦地上に着陸すると、16時20分頃、風船おじさん(鈴木嘉和)は 「行ってきます」と言うなり、周囲の制止を振り切って、係留していたロープを外したのです。 驚いた三輪教授が発した 「どこへ行くんだ」との質問に、風船おじさん(鈴木嘉和)は 「アメリカですよ」と当然のことのように返しました。 みるみる空に舞い上がるファンタジー号に対して、三輪教授は次のように言い放ったと言います。 「バカモン。 上昇しないといったじゃないか。 ウソツキ」 「成功すれば冒険家だが、失敗すればバカモンだ。 wikipedia. 風船おじさん(鈴木嘉和)の計画は当初から無謀だった… 風船おじさん(鈴木嘉和)の「ファンタジー号」の飛行計画は次の通りです。 「ヘリウムガスを詰めた風船で高度1万メートルにまで上昇すれば、ジェット気流に乗って約40時間でサンフランシスコに行けるはず」 しかし、風船おじさん(鈴木嘉和)の自作のゴンドラには、そんな機能も耐久性もなく、また彼がゴンドラに積み込んでいた装備も、およそ過酷な飛行に耐えうるものでは無かったと言います。 実際、出発直後の「ファンタジー号」の様子を見ていた地元のタクシー運転手は、次のように証言しています。 「風船は重りを積み過ぎていたのか、あまり高く上がらなかったね。 荷物を少し落下させて高度を上げたけど、ずっと低空飛行のまま猪子山の方に飛んでいった。 風船もパンパンではなく、ちょっとたるんだ感じになっていたから、アメリカはちょっとなあ……って。 あの山を越えたらもう落ちてると思ってましたよ」 引用:北緯53度・東経160度に到達か!? infoseek. それは、アメリカへ行くには最低でも高度6,000m以上上空を流れるジェット気流に乗らなければならないにもかかわらず、 「ファンタジー号」には5,000mすら上昇する能力も耐久性もなかったからです。 実際、ホテルにいる家族には、その日の夜10時頃から携帯電話で連絡があり、その後も1時間ごとに電話がかかってきたそうですが、その際、風船の様子がおかしいこと、思ったより高度があがらないことなどを家族に語っていたと言います。 風船おじさん(鈴木嘉和)の消息が途絶える そして、翌朝6時に「素晴らしい朝焼けだ!綺麗だよ」と妻に伝えると、その次の電話で「行けるところまで行くから心配しないでね」が最後の言葉となり、以降、携帯電話は不通になりました。 しかし、風船おじさん(鈴木嘉和)は 救助の要請をせず、飛行継続の意思を示したそうです。 しかし鈴木は捜索機に向かって手を振ったり座りこんだりして、SOS信号をやめた。 ファンタジー号の高度は2,500メートルで、高いときには4,000メートルに達した。 約3時間の監視したが、手を振っていたこと、ゴンドラの中のものを落下させて高度を上げたこと、遭難信号も消えたために 飛行継続の意思があると判断して11時半に捜索機は追跡を打ち切った。 wikipedia. 風船おじさん(鈴木嘉和)のその後と現在について 風船おじさん(鈴木嘉和)は現在も行方不明のまま しかし、その後の風船おじさん(鈴木嘉和)の消息はようとして知れず、現在までその行方はわかっていません。 また、かつて風船おじさんの遺体がアラスカで発見されたとのニュースがネットを賑わせたこともありましたが、結局、事実無根のデマであることが判明しています。 フジテレビの責任を追及する声も 1992年12月17日号の「週刊文春」が、当時密着取材をしており、出発時の様子も撮影していたフジテレビの姿勢を 「風船おじさん(鈴木嘉和)を煽ったのでは?」との疑惑を報じています。 さらに、当時のマスコミ報道によれば、風船おじさん(鈴木嘉和)が試験飛行の最中に、その場にいた皆を欺くようにいきなり飛んでいったと報じていましたが、それはまっ赤なウソで、 その場にいた多くの人が風船おじさんがアメリカへ旅立とうとしていることを知っていたとの証言も… かなり前から取材を進めていた朝日新聞やフジTVが、「彼をあおったのではないか」という誤解をされないために、彼一人の無謀にすがったのだ。 当時の現場は明らかに彼がアメリカに行くという雰囲気が漂っており、穴の開いた風船をガムテープでふさぐという大らかさに、誰もが「あんなんでホンマに行けるんかい」と心配したほどだったという。 引用:北緯53度・東経160度に到達か!? infoseek. 風船おじさん行方不明事件は、 冒険と呼ぶにはあまりに無謀な行為であり、見方によっては多額の借金を苦にして、自ら命を絶っただけ…といった見方もあるようですが、実は、どこかでちゃっかり生きていた!なんてことになれば、それはそれでファンタジーですよね!.

次の

鈴木嘉和

風船 おじさん 現在

行方不明の風船おじさん・鈴木嘉和の年齢、プロフィールを紹介 鈴木 嘉和 生誕 1940年(79歳) 出身地 東京都 失踪 1992年11月 出身校 国立音楽大学附属高等学校 職業 ピアノ調律師 戸籍名は、石塚 嘉和となっています。 行方不明の風船おじさん・鈴木嘉和の経歴を紹介 東京都でピアノ調律師の一家に生まれる[2]。 国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市でピアノ調律業を営む。 1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノ向けのマイナスワンテープ(オーケストラから特定の楽器を外して録音した、練習用のカラオケ音楽テープ)の販売を開始[3]。 1985年7月に日比谷公会堂で音楽会を主催し、最後に風船を飛ばす演出を行った。 その後も音楽イベントを開催するとフィナーレには風船を飛ばした[4]。 1986年には銀座では音楽サロンのあんさんぶるを開店[3]。 さらに麻雀荘やコーヒーサロンやパブレストランなどを経営していたが[5]、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。 借金苦に陥る。 ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという[6][7]。 1989年3月25日から横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店をしたが、会場内における立地が悪いことや、博覧会自体の集客が順調でないことから経営は不振だった。 そこで客集めとして、手塚治虫がデザインした横浜博のマスコット「ブルアちゃん」の着ぐるみを自作し、中に自分が入って撮影会、サイン会を実施していた[8]。 しかし10月の閉幕が迫っているにもかかわらず横浜博覧会協会が対策を取らないとして、これに抗議して同年7月30日、早朝の4時から高さ30メートルの鉄塔コロネードにブルアちゃんの着ぐるみを持って足場伝いによじ登り7時間ほど籠城する騒ぎを起こした。 塔からは「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕を垂らそうとしたが、風にあおられてうまくいかず、午前10時頃に博覧会関係者が異変を発見して119番通報した。 横浜市消防局のレスキュー隊員がハシゴ車で頂上まで行き説得するが、ブルアちゃんの着ぐるみに入った鈴木はイヤイヤポーズをするなど拒否。 20分後の11時45分頃に説得に応じてハシゴ車で地上に引き降ろされるまで1時間近く鉄塔上を歩き回った。 出店にあたって博覧会協会側から1日10万人の入場者があると説明されていたのに実際は3万から4万人、1日100万円の売上げ見込みが3分の1、ときには10万円未満の日もある一方で、権利金や店の内装で出店には3,000万円を要していた。 博覧会そのものの集客の少なさに加えて、鈴木が出店した店は22店舗あるブルアちゃんモールの一角で高島町ゲート前だったが、直近の駐車場が業務用の団体バス駐車場だったため、マイカー利用者からの集客が期待できず、夏休みになると団体バスの利用数が半減していたことも「ガラ空きの業務用駐車場を開放して」と鈴木が訴える原因となった。 事件後に協会事務局長は鈴木に厳重注意した[9][10][11][12][13]。 鈴木が出店した店は、『読売新聞』は郷土料理店、『朝日新聞』は飲食店、『毎日新聞』は土産もの店と報じている。 この抗議の後、協会と交渉の末に許可を取り、独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力でロープで係留されたゴンドラが高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置。 9月1日から閉幕する10月1日までこれを実施し、約2500人がゴンドラに乗って空中散歩を楽しんだ[14]。 最終日となった10月1日、鈴木はブルアちゃんの着ぐるみの中に入ったままゴンドラに乗り、ロープを外して場外まで飛んで行くと言い出したが、「皆に迷惑をかけてしまうから」と最終的には断念した[15]。 経営する銀座のパブに出資してもらったことから[6]、1991年7月から歌手のグラシェラ・スサーナのマネージャー業をしていたが、1992年になって、契約を解消[16][17]。 1992年4月17日には、風船で飛び立ち、民家の屋根に不時着する事故を起こした。 府中署防犯課の警察官の制止を聞かずに東京都府中市の多摩川河川敷から千葉県の九十九里浜を目指して午後12時45分にヘリウム風船で飛び立った。 自分が座った椅子に5メートルと2. 5メートルの風船各2個を直接くくりつけて飛行していたが、おもりの15kgの砂袋2個がはずれて急上昇し、予定の高度400メートルが5600メートルの高度に到達したため、当日購入していた百円ライターの火であぶって5メートルの風船を切り離した。 この後、高度が下がり、午後1時40分頃に出発地点から24キロメートル離れた東京都大田区大森西七丁目の民家の屋根に不時着した。 しかし左手に怪我をした程度で済み、駆けつけた蒲田署員に謝罪しつつも、成功すれば次はハワイをめざす予定だったと語り、改めて再挑戦することを誓っていた[17][18][19][20][21][22]。 一方、民家は瓦が壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けたが、鈴木からの弁償も挨拶もなかったという[16]。 この初飛行の後、NHKのラジオ番組にゲスト出演し、その際、風船による太平洋横断計画について語っている。 しかし、4月の実験飛行の大失敗によって、マスコミ各社は鈴木と距離を置くようになり[16]、また風船のヘリウムガスを売ってもらえなくなった[23]。 同年11月23日に「ファンタジー号」に乗り、琵琶湖湖畔から太平洋横断を目指し出発したが、2日後の25日を最後に消息はとだえた。 Wikipediaより抜粋 行方不明の風船おじさん・鈴木嘉和の現在を紹介 2017年に死去した妻は2016年に再婚しています。 この事実は、その後失踪宣告を申し立てたことにより鈴木が死亡したものとみなされた、あるいは3年間の生死不明を原因とした離婚手続きを妻がしたことを示しています。 遺体がアラスカで発見されたというニュースがネット上に存在しているが、事実無根のデマです。 行方不明の風船おじさん・鈴木嘉和の経歴、現在を紹介まとめ 皆の反応• だから通常国会開会直前に爆報THEフライデーで枝野夫妻が取り上げられたのも胡散臭さしか感じませんでした勿論どんなに親が政治家として無能でも子供達には罪は無いですが・・・・・・・・・・ 続く• ゲストに宇垣美里が出るということでテレ東の日曜ビッグの町中華特番を録画したけど、爆笑問題のコンビでのレギュラーって今TBSとテレ朝でしかないんだよな(もっと言えばプライム~23時台の全国ネットかそれに準じる番組は爆報THEフライデーのみ)。 「目撃にっぽん 野村克也84歳 ひとりを生きる」(2020年2月2日本放送)沙知代さんが亡くなってTBS「爆報THEフライデー」によく出演していたノムさん、当時「妻ロス」を眉村卓「僕と妻の1778の物語」を読んで乗り越えたと話していた。 小5、ザワつくが稼いでるのと坂上どうぶつ王国が上がってきたのが、要因かね?• THE フライデー• この寿司店は爆報THEフライデーにも出たな• あーなるほど。 しかしTBSの爆報THEフライデーとか消えた天才みたいな「転落者」の番組はあまり観たいと僕は思わないんですよね。 でも爆報THEフライデーは割と人気みたいで。 やはり他人の不幸は蜜の味か…• 以前爆報THEフライデーで春一番氏の死の真相を特集してたが、春一番って猪木の真似で有名だったし。 まだわかる。 だが、春一番氏って若手の頃から酒好きだったし爆問太田も短かったが満喫した人生だったのではとラジオで言ったしアル中患者として取り上げたのは違和感。 例えば同じ地下アイドルで、脱毛症のアイドルが爆報THEフライデーで取り上げられたが、彼女って地下アイドルだからただでさえ認知度低いのに、ゴールデンタイムのバラエティで取り上げても誰も興味抱かないだろ。 と思ったんだよな僕。 仮面女子の怪我したメンバーの話ならばあいつ今何してるでやる必要ないし、スタジオの芸能人も反応薄いし、爆報THEフライデーとかでやれよ。

次の

風船おじさん行方不明事件のその後!テレビ出演から現在の行方は? | 毎日が新しい日

風船 おじさん 現在

東京都でピアノ調律師の一家に生まれる。 国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市でピアノ調律業を営む。 1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノカラオケの「マイナスワンテープ」というオーケストラからピアノの音を抜いた録音テープの販売を開始。 1986年には銀座では音楽サロンのあんさんぶるを開店。 さらに麻雀荘やコーヒーサロンやパブレストランなどを経営していたが、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。 借金苦に陥る。 ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという。 1989年に横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店をしたが、会場内における立地が悪いこと及び、博覧会自体の集客が順調でないことから経営は不振だった。 これに対し博覧会運営当局が対策を取らないことに抗議して、同年7月30日に高さ30メートルの塔に博覧会のマスコット「ブルアちゃん」のぬいぐるみを着てよじ登り、塔からは「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕を垂らした。 7時間立てこもり、119番通報されたハシゴ車と警察が出動する騒ぎになった。 警察によって引き降ろされたが、抗議の際には出店に3,000万円を要したとしていた。 この抗議の後、独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力で高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置した。 経営する銀座のパブに出資してもらったことから、1991年7月から歌手のグラシェラ・スサーナのマネージャー業をしていたが、1992年になって、契約を解消。 1992年5月に国立音楽大学のピアノ科講師で高校時代に1学年上だったピアニストの石塚由紀子とは音楽教材の仕事をともにするようになり、やがて3度目の結婚。 石塚は2000年に著作『風船おじさんの調律』(未來社・ISBN 4624501292)を出版した。 2003年6月に、継子の石塚富美子がバイオリン奏者「fumiko」としてデビューした。 2004年にはNHKのドラマ『火消し屋小町』で女優としてもデビューした。 石塚にはfumikoの他に娘2人がおり、1994年に母娘4人でファミローザ・ハーモニーというクラシック音楽を中心にした音楽グループを結成し、ディナーショーを開催したり、日本国外でも活動した。 なお、娘3人は石塚の前夫との間の娘であり、鈴木との血縁関係はない。 先妻との間には実子をもうけている。 1992年4月17日。 最初に行われた風船飛行は、府中の多摩川から千葉の九十九里浜を目指すという大冒険計画から始まった。 風船おじさんは、警察の制止を振り切って飛行を断行。 5メートルと3メートルの風船を各2個を括りつけた椅子に乗って大空へと舞い上がった。 ここまでは風船おじさんの計画通りだったが、なんと椅子に付けていた重石の紐が切れるというアクシデントが発生! 重石を失ったことで、風船おじさんは予定の高度を大きく越えて上昇してしまう。 焦った風船おじさんは飛び降り…なんてことはせず、5メートルの風船の紐をライターで切り、高度を落としていく作戦に出た。 この思惑はなんとか上手くいき、風船おじさんは約24キロ離れた大田区の民家の屋根に不時着した。 不時着後、おじさん自体の被害は左手に軽傷を負う程度で済んだ。 その後警察の人にはこってり絞られていたが、成功してれば次はハワイに行くつもりだったと宣言し、周囲を呆れ果てさせた。 ちなみに不時着された家は、屋根の瓦が何枚か割れて、アンテナも折れ曲がってしまったが、細かいことは気にしない風船おじさんはその被害者宅に謝罪及び弁償は一切なかったという。 1992年11月23日、当時52歳の鈴木嘉和が、ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」で試験飛行を行うことになった。 鈴木に電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー『おはよう! ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが琵琶湖湖畔に集まった。 この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだったが、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃「行ってきます」と言って、鈴木はファンタジー号を係留していたロープを外した。 「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とした鈴木は周囲の制止を振り切って、琵琶湖湖畔からアメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。 翌日は携帯電話で「朝焼けがきれいだよ」と連絡が取れたものの、2日後にSOS信号が発信され海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800m海上で飛行中のファンタジー号を確認したが、鈴木は、捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりして、SOS信号を止めた。 ファンタジー号の高度は2,500メートルで高いときには、4,000メートルに達した。 約3時間の監視をして、ファンタジー号は雲の間に消えたため、捜索機は追跡を打ち切った。 そしてそのまま行方不明である。 直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個装備。 ゴンドラの外形寸法は約2m四方・深さ約1mで、海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高い檜を使用していた。 ゴンドラ製作を依頼したのは桶職人で、桶造りでは東京江戸川区の名人と言われる人物ではあるが、飛行船のゴンドラは専門でない。 風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り(バラスト)を用意していた。 重りの中身は、厳寒でも凍らない焼酎を使用していた。 ただし焼酎は浮力不足のため、琵琶湖畔からの出発の際に200本全てが下ろされた。 積載物は、酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐える為の防寒服、ヘルメットに紫外線防止サングラス等であった。 出発時の防寒具は、スキーウェアと毛布で、無線免許は持っていなかったため、無線機は積まれていなかった。 搭載していた高度計についても、使い方を理解していなかったという。 食糧については、鈴木は絶食の訓練をしていたと称しており、スナック菓子のみだった。 さらにテレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた。 ファンタジー号のビニール風船については、もともと人を乗せるものではないし、零下何十度にも達する高空に耐える保証もないことを制作したアド・ニッポー社は取材に答えている。 日本気球連盟の今村純夫も、上空で気圧が下がると、球形の風船では膨らんで弾ける可能性を指摘。 さらに破れてヘリウムガスが抜ける風船があったものの、鈴木は出発の前に粘着テープで応急修理して使ったという。 4月の不時着事故でこれまでの会社がヘリウムガスを売ってくれなくなったため、別の会社から調達。 計280万円分のヘリウムボンベはトラック3台で運搬された。 ファンタジー号での冒険にあたっては、鈴木は金を募ったが、寄付された金額は不明。 ゴンドラの制作のために多額の借金を負い、支援者の1人が1,300万円を肩代わりした。 ファンタジー号の出発直後から、民放テレビ局のワイドショー番組では、貴乃花と宮沢りえの婚約報道とともにトップニュース扱いで毎日のように報道。 「風船おじさん」のニックネームが定着するきっかけを作った。 新聞のテレビ欄では、11月26日にフジテレビ『タイム3』が「無謀な冒険 風船で米国へ」、TBSの『モーニングEye』が「無謀・風船男太平洋横断決行」、『スーパーワイド』が「風船おじさんを大追跡」と取り上げているのが確認できる。 12月1日には『モーニングEye』が「風船男飛んで1週間消息徹底追跡」、『タイム3』が「追跡風船男米空軍も調査」。 密着取材していたフジテレビの『おはよう! ナイスデイ』は12月2日に「風船男の安否」、12月3日に「風船おじさん 遂に身内捜索願」と取り上げた。 しかし、1992年12月6日以後は、オーストラリアで新婚旅行中の日本人妻が失踪する事件(のちに狂言であることが発覚)が発生し、マスメディアの関心が移ったことと、ファンタジー号自体の話題が尽きたこともあり、『スーパーワイド』が12月6日「風船男SOS」、12月8日に「風船男SOS検証」と取り上げているのがテレビ欄で確認できる最後であり、ファンタジー号に関する報道は沈静化した。 週刊誌では、同年12月17日号の『週刊文春』が、密着して出発時の映像も撮影していたフジテレビの姿勢を「鈴木を煽ったのではないか」と取り上げ、同時に計画を無謀だと指摘。 12月24日・31日合併号の『週刊新潮』は過去のプライバシーを明かす記事を掲載した。 見出しには、『週刊文春』が「風船男」、『週刊新潮』は「風船おじさん」を使った。 フジテレビは『週刊文春』の取材に対しタイアップしておらず、また鈴木は無線免許を取得して4月以降に出発すると語っていたため、11月23日に飛んでしまうとは思わなかったと回答している。 風船おじさんというのはマスメディアが付けたアダ名である。 しかし多摩川での飛行実験の失敗を見るや「関わっちゃマズイ」と思ってしまったのか、距離を置くようになった。 琵琶湖の時に駆けつけたのはフジテレビだったが、朝日新聞社の通信局長も現場にいたという。 風船おじさんは無線の免許を持っていなかった。 ゴンドラに風船を付けるなどの作業もかなり苦労していたそうだ。 多摩川で飛ぶ前から、風船おじさんは破天荒な行動を見せており1989年の横浜万博では集客対策不足に不満を覚えて、着ぐるみを着て塔に登り、7時間立て篭もるなどして抗議していた。 専門家曰く「風船でアメリカになんて行けるわけねーだろ」というツッコミがある他、「風船がアメリカまで保つはずもないから、恐らく海に落ちて死んでいるだろう」という見解を示している。 しかし、公式上の記録において、風船おじさん及びファンタジー号の遺留品などが見つかったという情報はない。 もしかしたら20年以上経った今でも、ファンタジー号と風船おじさんはどこかを飛んでいるのかもしれない。 アラスカで遺体発見との報もあるがこれは事実無根のデマである。 後述の関連動画においても、おじさんの遭難・失踪オチは笑い話であるかのように語られているが、残された家族は笑い話で済まされたらたまったもんではない。 「カールじいさんの空飛ぶ家」という映画が公開されて、この事件を思い出した人は多いだろう。 ダーウィン賞を語る上で、このおじさんが引き合いに出されたり話題にのぼる事も少なくない。 というのも2008年、ブラジルのアデリール・アントニオ・デ・カルリ神父が、「ヘリウム風船での長時間飛行記録に挑戦した末に沖合い上空へ流され遭難する」という風船おじさん同様の死に様でダーウィン賞を受賞しているため。 ただし彼は3ヵ月後に無事遺体が回収されている。 風船おじさんの蛮勇も80年代ではなくせめて現代であれば、まだ話題を集めて借金返済のめども立っていたかもしれない。 良くも悪くも、風船おじさんは今や伝説の人となっている。

次の