アウステ ル リッツ の 戦い。 アウステルリッツの戦い|ナポレオン軍の勝因

佐藤賢一『ナポレオン』を読みました。: my photo diary

アウステ ル リッツ の 戦い

打倒ナポレオンを掲げたイギリス、オーストリア、ロシアなどがを組んだのは1805年のことだった。 同年9月、 マック将軍率いる7万のオーストリア軍がフランス帝国の同盟国であるバイエルンへ侵攻、ナポレオンも20万以上のフランス軍を率いてバイエルン救援に赴いた。 フランス軍は南下してくるのロシア軍と合流しようとするマック軍をウルムの町に包囲し、10月19日にはこれを降伏させた。 そのままオーストリア領内まで侵攻したフランス軍は、11月13日にはウィーンへと入城し、大量の食料と武器弾薬を奪取することに成功する。 ウルムでの包囲を逃れた残存オーストリア軍は、どうにかロシア軍と合流したが、この同盟軍にはオーストリア皇帝とロシア皇帝も合流していた。 緒戦でのオーストリア軍の敗走を受け、作戦会議では一時撤退するべきというクトゥーゾフ将軍の冷静な進言があったものの、ウィーンを取り戻したいフランツ1世と、若くて血気盛んなアレクサンドル1世の判断により、最終的にはナポレオンに決戦を挑むこととなった。 現在はチェコ共和国スラフコフ・ウ・ブルナとなっている。 一方のナポレオンは危うい立場にあった。 北からは対仏大同盟に荷担するプロイセン軍が、南からはカール大公のオーストリア軍別働隊が迫りつつあったのだ。 この包囲網を破るには、正面にいる同盟軍を撃破するのが一番だと考えたナポレオンは、敵を誘い込むための罠を張った。 フランス軍はウィーン北方のアウステルリッツに進出し、周囲が見渡せて戦闘に有利なプラツェン高地を奪取したが、敢えてその場所から後退したのだ。 12月1日、アウステルリッツまで南下してきた同盟軍は、有利な地形を手放したナポレオンは弱気になっていると判断して、罠とは知らずにプラツェン高地を奪い、全軍合わせて8万以上の大軍を配置した。 実は、事前にナポレオンはこの戦闘を避けたがっているという情報をわざと敵側へリークさせており、一度プラツェン高地に留まったときには元帥たちに「 ここが戦場となる。 諸君はこの地を念入りに調べておけ」と繰り返し話していたという。 高地とはいうが実際は標高が12mほどの丘陵地帯であり、絶対的な優位を得る場所とはいえなかったのだ。 フランス軍(青)、同盟軍(赤)。 同盟軍中央の密集しているのがプラッツェン高地で、対するフランス軍の右翼(南側)が手薄になっているのがわかる。 しかし、この罠は賭けでもあった。 プロイセンとへの抑えやウィーンの警備に兵力を割いたため、主力の兵力は6万強しか残っていない。 急ぎウィーンから呼び寄せた元帥の軍団が到着しても7万程度で、同盟軍よりも数で負けている。 しかも、ナポレオンは作戦のためにフランス軍の右翼を弱体化させていた。 このため、元帥のなかには撤退を進言するものもいたが、ナポレオンはこう答えただけだった。 「 もしも、ロシア軍が(こちらの)右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう」と。 彼には勝算があったのだ。 プラッツェン高地の上からフランス軍の布陣を見た同盟軍は右翼が手薄になっていることに気付いた。 12月2日の朝、濃霧のなかで開始された同盟軍主力による攻撃は、当然、フランス軍右翼に集中する。 苦戦したフランス軍は、ダヴー軍団が駆けつけていなければ突破されてしまうところだった。 ナポレオンはまさにその瞬間を待っていた。 フランス軍右翼に兵力を集中した同盟軍の中央が手薄になったのだ。 この状況を作り出すため、ナポレオンは敢えて自軍の右翼を手薄にして、敵をおびき寄せたのである。 午前9時、ナポレオンは高地からも見えない窪地に潜ませていた元帥の軍団に敵中央部への攻撃を命じた。 スールト軍の兵力は約23,000。 濃霧による隠蔽効果もあり、高地の同盟軍将兵には突如として新手の敵が現れたように思えた。 そして、フランス軍の前進とともに霧が晴れて太陽が現れたことにより、この進軍は「 アウステルリッツの太陽」として知られるようになる。 一方の同盟軍は混乱し、フランス軍右翼に向かわせた部隊を引き返させようとしたが、すでに手遅れであった。 中央部隊を討ち破ったスールトらは進撃の方向を変え、次は自軍右翼に向かっていた敵部隊に襲い掛かった。 中央ではロシア近衛隊が反撃するも、ナポレオンは予備兵力の元帥の軍団約13,000と近衛騎兵を投入してこれを撃破した。 フランス軍左翼でもと両元帥の軍が前面のロシア軍を押し返していた。 ここでアレクサンドル1世は敗北を認め、ついに全軍に退却命令を出す。 この戦いによるフランス軍の死者が1305人であったのに対し、同盟軍は死者15,000、捕虜13,000ともいわれている。 さらに北側では、戦いに敗れたロシア兵がウィーンへ向けて逃げようと、凍結したザッチャン池をわたろうとした。 そこにフランス軍の砲撃により氷が割れ、多くのロシア兵と大砲が凍てつく池に沈んだという。 溺れかけたロシア兵の多くはフランス兵によって救助されたが、少なくとも100名が死亡した。 3人の皇帝が戦場に集ったことで三帝会戦とも呼ばれるこの戦いの二日後、オーストリア皇帝フランツ1世は、フランスとの間で和約を結び、領土を割譲した上で対仏同盟から脱落することとなった。 こうして劣勢を跳ね返して大勝利を収めたナポレオンの名声は高まったが、それは同時にフランスへの警戒感をより強めることになり、新たな対仏大同盟の結成を招くのであった。 最後に この戦いこそ、ナポレオンにとって本領発揮といったところだろう。 同時期にでフランス軍は大敗を喫している。 にもかかわらず、指揮を下げることなく見事な戦術を見せた。 もっとも、敵が合同軍だったことも影響している。 ナポレオンの指示系統が一本だったのに対し、敵はオーストリア軍とロシア軍という二系統だったのだ。 当然、一度戦局が混乱してしまえば収拾するのは難しい。 そこまで読んだナポレオンの勝利である。 関連記事:ナポレオン 「」 「」 「」 関連記事:ナポレオン戦争 「」 カテゴリー• 109• 356• 353• 1,411• 149• 807• 589• 169• 100• 177• 142• 134• 106• 560•

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アウステルリッツの戦い/三帝会戦

アウステ ル リッツ の 戦い

駅名 [ ] 「オステルリッツ」という駅名は所在地のオステルリッツ河岸 Quai d'Austerlitz に由来する。 この地名は1805年のに由来し、駅名と駅からの列車の目的地に関係はない。 なおフランス国鉄の時刻表や路線図では、駅名はパリ・オステルリッツ駅 Paris-Austerlitz と表記されるが、パリ市内においては単にオステルリッツ駅とのみ呼ばれる。 メトロの駅も開業時は「ガール・ドルレアン」だった。 発着する路線・列車 [ ] オステルリッツ駅はパリから郊外、などを経由してに至る路線の起点である。 同路線からはオルレアン郊外で経由方面への路線が、またトゥールからは方面への路線が分岐しており、またパリ南東部郊外のジュヴィシーではからリヨン経由マルセイユ方面への路線と接続している。 ただしのの開業以降は、トゥール以遠への列車のほとんどは始発のに置き換えられており、オステルリッツ駅発の長距離列車はリモージュ方面へのものを除けばのみとなっている。 これにはへの国際夜行列車()のも含まれる。 また国内夜行列車のは、本来はリヨン駅始発であるフランス南東部方面への列車もオステルリッツ駅発となっている。 2009年4月現在オステルリッツ駅を発着する列車は以下の通り。 なおRERとメトロ以外は全てオステルリッツ駅が起点・終点である。 エリプソス(国際夜行列車) - 客車を使用• フランシスコ・デ・ゴヤ : ・行• ジョアン・ミロ : ・行• コライユ・ルネア(夜行)• 、 、経由行(旧)• 、経由行• 、経由 行(週末・バカンス季のみ)• 経由 行(週末・バカンス季のみ、シャンベリまで上記列車と併結)• 経由行• 行(一部の日はまで延長、カオールまで上記列車と併結)• 、経由 行• 経由行(途中まで上記列車と併結)• 経由 行(一部の日のみ、途中まで上記列車と併結)• 、、経由行• 経由行(途中まで上記列車と併結)• 行、行など 旧• ヴィエルゾン行、行など• 、トゥール行など• トゥール、経由行(夏期のみ)• Aqualys• オルレアン・ブロワ・トゥール行 大屋根の下のRER開口部。 上はメトロ5号線 地上の頭端式ホームには東側から順に7番線から21番線の15線がある。 その東には1番線から5番線(6番線は欠番)があった が、2007年現在は工事中である。 この部分は上層に大通りが重なる二重構造になっている。 駅舎はホームの頭端(北)側にあり、東西二つの建物の間に大屋根()に覆われたホールがある。 東西の建物の正面にはそれぞれ車寄せや乗降場があり、東からはオステルリッツ河岸に、西からはオピタル大通りに出ることができる。 切符売り場は東の駅舎内にあり、このほかや売店がある。 両駅舎に挟まれた大屋根の下の部分はRERの線路の開口部やになっており、また東西の駅前広場間を移動するタクシー用の通路がある。 RERの駅は地上ホームの直下にあり、2面4線でホームの全長は225m、幅は9mである。 コンコースはホームよりも下の層にあり、が設置されている。 地上の各ホームからの線路が合流するのはの跨線橋付近である。 その南の線路西側のシェヴァルレ Chevaleret 地区には国営運輸サービス会社 SERNAM の急行貨物 messagerie 用設備がある。 またこの付近でRERの線路が地上に現れる。 を越えるとの廃線跡と交差する。 そこから南の線路両側には客車、電車、機関車などの、などが、パリ市境を越えて付近まで続いている。 機関区からオステルリッツ駅までは専用の複線の連絡線があり、本線の列車と干渉しないようが設けられている。 メトロ [ ] 駅西側 オステルリッツ駅は東はオステルリッツ河岸を挟んで、西は、北はを挟んでに囲まれており、パリの他のターミナル駅と比べると閑静な地区にあった。 しかし近年は駅の南東側で前述の再開発が進んでいる。 はセーヌ川をで渡った対岸にあり、徒歩でも乗換が可能な距離である。 駅前にはパリ交通公社(RATP)市内バスのガール・ドステルリッツ停留所があり、市内各地へのバスが発着する。 歴史 [ ] はにパリから南東部郊外ジュヴィシー Juvicy までの最初の路線を開業させた。 このときパリに置ける起点はオステルリッツ河岸に置かれたが、その駅施設は簡素なものだった。 になって、に面する行き止まり構造の本格的な駅が開業した。 この時の駅は6線からなっていた。 同じ1943年にはパリ・オルレアン間の鉄道が全通した。 さらに1846年に、1851年、1852年、1855年、1884年にはにまで路線が達し、オステルリッツ駅は南部から西部に至るフランスに広がる路線網の起点となった。 またに(小環状線)の一部が開通し、オステルリッツ駅の南のトルビアックに環状線への連絡線が設けられた。 のを控えてから新駅舎の建設が行われた。 駅舎はホームを囲む字型をしており、東側に出発客用、西側に到着客用の施設が設けられた。 ホーム先端に当たる北側の部分はパリ・オルレアン鉄道の管理部門が使用した。 ホームは長さ280m、幅51. 25mの金属製の大屋根で覆われた。 この屋根はパリ・オルレアン鉄道の技術者カミーユ・ポロンソー Camille Polonceau の設計によるものである。 中パリが包囲された際には、屋根の高さを利用しての製造に用いられた。 のに合わせてパリ・オルレアン鉄道はオステルリッツ駅からまでの地下線を開業させた。 この時にオステルリッツ駅も大きく改造された。 大屋根の下はオルセー駅方面への線路と、地下線用ののなどになり、ホームは駅舎の南側の空間に移された。 ホームは中央にオルセー駅方面への直通列車用の島式ホーム2面4線があり、その東側に出発列車用、西に到着列車用の頭端式ホームが置かれた。 東西のホームの頭端部はオルセー駅方面への線路を横切るで結ばれていた。 オステルリッツ駅 - オルセー駅間は1900年の開業時からにより電化されていたが、には電化区間はジュヴィシーまで延長された。 ただし長距離列車の機関車の交換はオステルリッツ駅で行われた。 6月2日にはメトロ5号線の - ガール・ドルレアン間が開業した。 同年7月14日にはオステルリッツ高架橋を越えて北へ延長された。 なおメトロの駅名がガール・ドステルリッツと改名されたのは1930年のことである。 に発生したのでオステルリッツ駅は大きな被害を受けた。 1月21日にオステルリッツ - オルセー間の地下線が水没し、数日後にはオステルリッツ駅自体にも浸水した。 オステルリッツ駅の復旧は2月9日であり、それまで列車はジュヴィシー駅で折り返していた。 オルセーまでの復旧は3月4日だった。 になると、パリからヴィエルゾンまでの幹線を集電方式ですることが計画され、オステルリッツ駅からジュヴィシーまでは1926年に架線が敷設された。 オルセーまでの第三軌条が完全に置き換えられたのは1927年である。 またこのときシェヴァルレ地区にあったの機関庫を廃止し、オステルリッツ駅の東にあった急行貨物用の設備をシェヴァルレに移転した。 その跡地を利用して出発列車用のホームが増設された。 の鉄道国有化によりオステルリッツ駅はの駅となった。 またにはオルセー駅が近郊列車専用の駅となり、オステルリッツ駅は再び長距離列車の始発駅となった。 1939年7月12日にはメトロ10号線が乗り入れている。 時点におけるオステルリッツ駅の構造は次のようになっていた。 線路は東側に出発列車、南行き近郊列車用の13線(東から順に25番線から1番線、番号のみ)、西側に到着列車、オルセー行近郊列車用の7線(東から2, 2bis, 4, 6, 8,12,14)があり、5,3,1,2,2bis,4の各線がオルセー方面に通じており、他は行き止まりだった。 ホームは3番線と1番線、2番線と2bis線の間にそれぞれ島式ホームがあり、25番線から5番線と4番線から16番線は頭端式となっていた。 このほか1番線と2番線の間にホームに接しない中線があり、14番線の外側にもホームに接しない16番線が存在した。 また出発線側に用の側線3本があった。 オステルリッツ駅構内では近郊列車がオルセー駅に通じる内側の線路を使っていたのに対し、駅の南では近郊列車が外側、長距離列車が内側の方向別となっていたため、近郊列車と長距離列車の進路がするという構造的な欠陥があった。 また、出発ホームと到着ホームの間の構内踏切の危険性も問題であった。 このため、近郊列車用ホームを地下化する工事が行われた。 列車の運行を止めずに工事を行わなければならないことに加え、に近いことによる地質の問題もあり、工程は複雑なものになった。 地下ホーム(後のRERホーム)が完成したのは3月2日である。 地上ホームは一体の頭端式ホームとなり、出発用と到着用の区別はなくなった。 また番号も2番線から5番線と7-21番線と付けかえられた。 なお1番線は荷物用であった。 、の開業により、パリからトゥール以遠のフランス南西部への昼行列車は少数の例外を除き発のに置き換えられ、オステルリッツ駅発の列車は大きく減少した。 フランソワ・ミッテラン図書館前を通る列車 からはオステルリッツ駅に付随する鉄道施設の整理と跡地のが行われている。 この地域にあったなどは線路西側のシェヴァルレ地区とに移された。 またオートトラン()の発着施設はにに移転した。 跡地には開館の、フランソワ・ミッテラン館などが建設された。 さらに南のヴァンサン・オリオール大通りとマセナ大通りの間では完成予定で再開発が進行中である。 将来 [ ] までに化工事が行われる予定である。 フランス国鉄と(RFF)は、パリの南郊外でとを結ぶ南連絡線を計画しており、この路線からオステルリッツ駅方面への連絡線を設けて、現在やモンパルナス駅発着となっているの一部をオステルリッツ駅に移し、両駅の混雑を緩和する予定である。 将来的にはオステルリッツ駅からまで地下新線を建設する構想もある。 Collardey p. Collardey p. 55の線路略図• Tricore p. 209• Tricore p. 291• 『フランス鉄道の旅』 154頁• Collardey pp. 44-45• Lamming pp. 61-62• Collardey p. Lamming p. Tricore p. 350• Tricore p. 211• Lamming pp. 65-66• Collardey p. Tricore p. 351• Collardey p. 54の配線略図• Collardey pp. 59-60• Collardey p. - フランス国鉄• 3 - 商工会議所などの資料 p3 参考文献 [ ]• Collardey, Bernard 9 2005. Rail Passion 95: 42 - 70. Lamming, Clive 2005. Paris ferroviaire. Parigramme. Tricore, Jean 2004. 『フランス鉄道の旅』編集室 編、、2006年、改訂第2版。。 『フランス』海外情報部 企画・編集、〈ワールドガイド〉、2007年。。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]• - Gares en movements(フランス国鉄公式サイト).

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アウステルリッツの戦い|ナポレオン軍の勝因

アウステ ル リッツ の 戦い

この戦闘での勝利を祝って、ナポレオンはパリの凱旋門を建設しましたし、パリのターミナルのオーステルリッツ駅はこの戦いの名前がつけられています。 戦闘は丘陵地帯の草原で行われています。 アウステルリッツはドイツ語なので、これまでオーストリアだとばかり思っていましたが、調べてみると、チェコのモラビアなのですね。 モラビアの街ブルノの近郊、10キロたらずとのことです。 アウステルリッツ会戦を調べていて、20年ほど前にブルノに行ったときのことを思い出しました。 あのときは、プラハからクルマでブルノまで長いドライブでした。 ボヘミアからモラビアまで、アウステルリッツの戦場のような緑の丘陵地帯がずっと続いていました。 中世から続く歴史あるブルノの街では、着いた日の夜にオペラハウスに行ってみました。 オペラハウスには、モラビア出身のヤナーチェックの銅像があり、共産時代に造られたオペラハウスは殺風景でしたが、そこで、ドヴォルザークの「ルサルカ」を観ることが出来ました。 時差ボケで時折襲ってくる眠気と戦いながらも、とてもオーソドクスな舞台は美しかったし、初めて観るチェコのオペラは感動的でした。 引き続き「戦争と平和」を観て行きます。 モスクワやサンクトペテルブルクの場面が増えて行くことでしょう。 そして、オードリー・ヘップバーンが主演した映画「戦争と平和」も久しぶりに見てみたくなりました• mixiユーザー 2016年11月03日 11:51 一昨年のチェコ旅行は冬ということもあってあまり行動範囲は広くとれず、残念なことにブルノまでは行けませんでした。 アウステリッツってその近くなんですね。 初めて知りました。 ひとくちにチェコの音楽家といっても、プラハの音楽院出身者の系統とブルノの音楽院出身者と大きく二分されるようですね。 あくまでも傾向ですが、プラハ派は弦楽器など器楽の名演奏家が多くて、ブルノのほうは歌手として活躍している人が多いような気がします。 ラトル夫人でもあるマグダレーナ・コジェナーもブルノ出身ですね。 プラハを中心としたボヘミアと、ブルノを中心としたモラビアとではやはり感じが違うと思います。 さらに現在でほ、プラハはますます国際的な街になってきていますし、違いは際立っているはずです。 どうしても、我々はチェコスロバキアの時代が一番長かったので、どれも同じようにしか感じませんが、各々の地域ごとに特徴があると思います。 是非そのうちモラビアにもいらしてみてください• mixiユーザー 2016年11月03日 18:15 原作を読み損ねたので、この番組を見ています。 歴史的な事実だけではなく、当時の風習や考え方を垣間見られて、ついでに目も楽しませてくれるのが連続ドラマの取り柄ですね。 パリのオステルリッツ駅の由来はそうだったのですね! BSのメアリー・スチュアートも見ています。 なかなか良く出来ていると思います。 トルストイの小説は大河ドラマですので、登場人物も多く読むのは大変ですよね。 やはり映像のついているほうが、わかりやすいでしょう。 プロコフィエフのオペラ「戦争と平和」を観てみたいなと思っています。 映画の「戦争と平和」はL・サブリエヴァ主演のソ連(当時)映画のほうが原作により忠実ですがヘプバーン主演のハリウッド映画はロシア製作陣も認めたというほどよくできていたと思います。 ロシア映画の「戦争と平和」はまだ観たことがありません。 共産時代の映画だと、大量のエキストラを動員したものなのでしょうね• mixiユーザー 2016年11月03日 19:44 私もソ連映画の印象が強いです。 圧倒されました。 ナターシャを演じたリュドミラ・サヴェリエワはA・ヘプバーンに似た可憐な女優でその後、デシーカの「ひまわり」でS・ローレン、マストロヤンニと共演してましたよ。 気合の入ったソ連阪はちょっと長すぎなのは原作が長編なのでやをえません。 その点K・ヴィダーの米映画は良くまとめていたと思います。 ところで現在NHKで放送している「戦争と平和」でナターシャを演じているのは英国のあのTVシリーズ「ダウントン・アビー」でローズを演じているリリー・ジェームズですね。 mixiユーザー 2016年11月04日 10:02 私は情けないことに、いまだに古臭い原作派で、『戦争と平和』でも『アンナ・カレーニナ』でも『罪と罰』でも『ハムレット』でも『白鯨』でも『老人と海』でも、その二種に接した体験からいって、みな、映画は原作にはるかに及ばないと、思っています。 あれらを読んで、映画化の野心を刺激されるのはよく分かるのですが、私には、絵解き電気芝居に、見えます。 原作と映像とは、まったく別のものと、割り切れればいいのでしょうが。 とりわけ大河ドラマのような長大な作品の映像化は、原典に忠実だと、映像作品は、どうしてもだれやすくなりますし、ハイライトに焦点を絞ると、原作の魅力が失われたと感じる向きもあるはずです。 原作と映像作品は、やはり別物として、楽しむのが一番でしょう。 そう考えれば、原作とオペラも、全く別物ですね• mixiユーザー 2016年11月05日 11:08 トルストイはちょっと別格だと思いますが、映画を先に見るか原作を先に読んでから映画を見るかでは、けっこう、変わりますね。 一般論としては先に見たり読んだりしたもののほうが魅力やこだわりをより強く持ちます。 映画も原作もどちらもものすごく面白かったのは、「薔薇の名前」と「羊たちの沈黙」。 前者は原作が先、後者は映画が先でした。 映画も原作もどっちも面白いけど、ほとんど別物だなぁと思ったのは、「シャイニング」。 それぞれに面白くて、しかも面白さの本質がずいぶんとかけ離れている。 どちらがいいとか、映画は原作通りではないとか、そういう議論がムダだとさえ思いました。 そういう意味で考えると、たくさんあります。 やや古い話になりますが、「メディアミックス」という路線で、角川映画など、小説と映画を組み合わせていました。 まあ、どちらから見るかによって、イメージが違ってくるかもしれませんね• mixiユーザー 2016年11月05日 21:15 ソ連版「戦争と平和」は、国家予算級のこだわりで原作の再現に徹してました。 私は原作読んでからこの映画観て、それからもう一度原作読みましたね。 共産時代の映画は壮大な規模でロケしてますから、迫力満点でしょうね。 一度機会あれば観たいものです。 そのあとは、往年の名画、オードリー・ヘップバーンの「戦争と平和」を観るのも楽しいでしょうね。 2020年• 07月• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 2007年• 2006年• 01月• 02月• 03月• 04月• 05月• 06月• 07月• 08月• 09月•

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