松平 元康。 桶狭間の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館

徳川家康(松平元康)|日本大百科全書(ニッポニカ)|小学館

松平 元康

NHKで放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)。 第20回「家康への文」(31日放送)より、後に徳川家康と名乗る松平元康役で初登場するからコメントが届いた。 徳川幕府の創始者となる家康は、幼少時より、駿河の今川と尾張の織田の間で人質となり、 母と離れて孤独な子ども時代を過ごした。 桶狭間の戦いで今川方として参戦するも敗退。 のちに今川から独立し、三河の戦国大名として織田信長と同盟を結ぶことになる。 以下の、風間のコメントの最後にある「干し柿」だが、本作の第4回(2月9日放送)で、主人公の明智光秀()が、尾張に潜入した際、人質として古渡城で暮らす幼い竹千代(岩田琉聖)に出会い、不憫に思った光秀が持っていた干し柿をあげるエピソードが描かれた。 大河ドラマ出演は、『西郷どん』以来2作目ですが、大河ドラマへの憧れが強すぎるせいか、未だにドキドキして、緊張し続けています。 家康は、ひとつの固定したイメージだけで描かれるわけではなく、作品の視点によって描かれ方が全く異なりますので、とても多面的で面白い人物だと思います。 現代から見た家康は、徳川幕府を開いた人物であり、たぬきであり、すごい人というイメージですけど、これはあくまで晩年の家康のイメージです。 今演じている元康は、まだ何者でもないですし、立場が弱い武将ですから、晩年の家康からは逆算して考えないようにしています。 晩年の家康に至るまでは何十年もかかりますし、小さい頃からそのイメージのまま、ということはありませんので、皆さんの持っている家康のイメージから、ギャップが出ればいいなと思っています。 『麒麟がくる』のストーリーの中では、徳川家康は竹千代として既に登場しています。 竹千代が僕に変わるということは、他のキャラクターもそれだけ時間を積み重ねてきていますので、「こんなに時間が経ったんだ」と、時の流れを感じていただけるのではないかと思います。 また、松平元康が登場するということは、歴史が大きく動く瞬間でもあります。 それぞれの武将の勢力図も変わっていきますので、ここからさらに面白くなると思います。 家康だけではなく、この時代の大きくうごめく流れが変わる瞬間に、皆さん是非一緒に立ち会っていただきたいと思います。 今後シーンとしてあるかどうか分かりませんが、光秀と一緒に干し柿を食べるシーンをやりたいですね(笑)。 戦うのは、のちに同盟を組む織田信長。 この合戦で今川義元が敗れたことにより、家康の運命も大きく変わっていきます。 考えてみれば家康は三河という小国に生まれ、幼いころから幸薄い武将で、親元を離れ人質になり、捨て石のように今川に使役されます。 いわば、自分の意思ではなく、さだめに従って生きていった末、300年続く新たな幕藩体制をつくりあげてしまったまさしく「運命の人」です。 風間さんふんする家康は、その登場時から自分の意思が通用しない世界で自分にできることは何か、懸命に探そうとします。 そのどうしようもなさや、悲しさをたたえた人物像を、確かな演技力で、巧みに演じてくれています。 長谷川博己さんの光秀、さんの信長、さんの秀吉、そして風間さんの家康が、どう天下を動かしていくのか、「麒麟」を呼んでいくのか…まだ4人がそろうシーンの撮影はこれからですが、今から楽しみでなりません。

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松平元康が徳川家康を名のるまで

松平 元康

松平家は元々家康の祖父・松平清康が当主に就任後僅か数年で三河を統一したところから勃興を開始します。 しかし不幸なことに清康は僅か25歳で斬殺されてしまいます。 そこで家康の父である広忠が頼みとしたのが海道一の弓取りと呼ばれた今川義元です。 広忠は幼少の息子・竹千代 家康 を人質として義元に差し出そうとしましたが、そこで戸田康光の謀反に遭い敵対していた織田信秀の元に誘拐されました。 今川家に人質として行くはずだった竹千代が誘拐されて織田家へ・・・。 ただ、そこで親睦を深めたとされるのが、信秀の次男・織田信長というのですから、運命のイタズラとは分からないものです。 そして、数年後。 信秀が義元によって勢力を弱められると、竹千代はようやく本来の目的通り今川家へとたどり着きます。 家康はこの時点でまだ10歳にも満たない幼子です。 幼少期からこのような生活を送っていたのですから、それはそれは想像を絶する苦労をしてきたに違いありません。 それでは、天下人・徳川家康の黎明期に迫ってみましょう。 幼少期、今川家で人質としてどのような生活をしていたのか? 竹千代 徳川家康 が今川義元の元にたどり着いたのは、信秀の子供・信広との人質交換が行われたためでした。 竹千代は父・広忠が謀反によって殺されてしまったため、松平家の当主となりますが、居城の岡崎城には義元が送った名代が入り、義元の居城・駿府城にてそのまま住むこととなりました。 つまり、竹千代を擁したことで、義元は三河を支配下に置くことに成功したのです。 竹千代はこの時期に当主としての教育を受けることとなります。 よく言われる伝承では義元の軍師・太原雪斎の薫陶を受けたというものですが、これもどこまで正しいかはわかりません。 1553年 天文24年 、竹千代は義元から偏諱を受けて元服、松平元信と名乗ります。 この時に元信は関口親永の娘である築山殿を娶ります。 築山殿は義元の姪でもあったため、この時点で元信は今川家の支配下にいることを前提として育てられたのだと考えられます。 後に祖父・清康の名前を取って元康と名を改めますが、相変わらず義元の偏諱を受けたままです。 この時点でも未だ15歳くらいの家康は、ただの人質から徐々に家臣として活動することを求められます。 彼の初陣は織田信長に寝返った鈴木重辰の討伐でした。 元康は城下を焼いて付近の地域を平定。 この功績で元康は義元から領地をもらい腰刀を賜ります。 元康の今川家での扱いは、外様の一家臣といった位置づけが最も正確かもしれません? 桶狭間の戦いと岡崎城奪還 1560年 永禄3年 、義元が長年の宿敵である織田家と決着をつけようと出兵した際に元康も先鋒として参陣します。 元康は、大高城の兵糧が足りないという知らせを受けたため、織田軍の鷲津・丸根砦を攻める部隊に加わって兵糧を確保することに成功します。 それから間もなく鷲津・丸根砦が陥落した後は大高城にて休息をとっていましたが、その時に義元本隊は桶狭間にて信長本隊から奇襲を受けて壊滅、義元も戦死してしまいました。 先祖代々の墓の前で自害を決意した元康ですが、住職である登誉天室 とうよてんしつ によって説得され、思いとどまります。 この時に登誉が伝えた仏教用語が、徳川家康の旗印となる「厭離穢土欣求浄土 おんりえどごんぐじょうど 」。 『誰もが自己の欲望のために戦いをしているのだから、国土が穢れきっている。 穢れた土地を離れて極楽浄土を願うのなら仏の加護を受けて事を成す』 穢れた現生を救うために今すぐ自分が立ち上がるべきだという教えに、家康は再起を図り僧兵と共に織田軍の追手を追い返すことに成功しました。 その後、早い段階で元康は義元の死で空白になっていた岡崎城の奪還に成功、かくして松平家は義元が死んで間もなく独立を果たすことになります。 大河ドラマなどでよく見る「厭離穢土欣求浄土 おんりえどごんぐじょうど 」という難しい漢字の旗印。 この旗印にこんな意味があったとは驚きですね。 義元亡き後の今川家との関係 元康は桶狭間の翌年には旧知の信長と同盟を結ぶことに成功。 名前も義元からの偏諱を捨てて家康と名乗り、数年に及ぶ三河平定戦を制すると、朝廷から三河守の官位を賜り、姓を徳川と改めます。 1568年 永禄11年 、甲斐の武田信玄が同盟相手だった今川家を裏切って侵攻を開始します。 家康はこの機に乗じて信玄と同盟を結び、同じく駿河に攻め込みました。 これによって徳川は今川氏を事実上滅亡させ、本拠地を失った今川氏真は舅の北条氏康の所へしばらく身を寄せます。 当時、北条は駿河侵攻を行った武田とは敵対関係にありました。 しかし氏康が亡くなると子の氏政は逆に武田と結びます。 これによって氏真は氏政と不仲になり、身の危険を感じたため、かつて駿河・遠江を失った際に決めた「講和を期に駿河は氏真殿を改めて領主として迎える」という条文を頼りに家康の庇護を頼ります。 家康もかつての主君を無下にする理由がなく、家康と氏真の主従関係は完全に逆転しました。 氏真はその後浜松・または京都に滞在していたようで、公家との交流を通して幕府や朝廷と繋がりを持つためにパイプ役をしていたのではないでしょうか? 家康との交流はその後も長きにわたって続き、氏真は家康の下で城攻めや掃討戦に加わったり和歌を詠んだりしながらも断片的に家康と交流を続けていたことが史書には記されています。 氏真の息子達は後に2代将軍・徳川秀忠に仕えています。 家康と氏真は晩年にも交流を続けていたことがわかっており、戦国大名としての今川家は滅びながらもその血筋は高家として続くことになりました 但し、明治時代に断絶。 氏真が亡くなったのは1615年 慶長20年 、ちょうど大阪の陣が終わる前の事でした。 それから間もなく天下統一を果たした家康も亡くなります。 家康が大御所となってから過ごしたのは、幼少期を過ごした駿府城でした。 徳川と今川の関係は天下統一まで続いていたのです。 まとめ いかがでしたでしょうか? 家康・義元・信長はとても近しい利害関係の元にいたのですね。 家康は今川家の他に高家として織田家も保護しています。 彼らは揃って家康の黎明期に出会った宿敵ですが、彼らは特に滅ぼされるわけでもなくそのまま幕末までどうにか生き永らえることに成功しました。 家康が幼少期と晩年を過ごした駿府城は、家康死後も徳川頼宣 後の紀伊藩主 、徳川忠長 3代将軍・家光の弟 らが過ごすこととなり、明治維新の際には徳川家達が江戸城開城によって駿府城に遷ることとなりました。 それから間もなく廃藩置県の影響で駿府城は廃城となり現在は公園になっています。 駿河の地は家康亡き後も重要な場所として認識され続けていました。 家康にとっては、駿河は全ての始まりである忘れられない土地だったのです。

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松平元康・若き日の徳川家康はどんな人だった?

松平 元康

松平元康の揺らぎ 桶狭間の戦いでキーマンになった一人として挙げられる風間俊介演じる松平元康(のちの徳川家康)。 竹千代と名乗っていた幼少期、織田家の人質になったあと、その後今川家の人質となるが、本作では竹千代が、今川家に人質になる前に「今川は敵です」と信長に伝える印象的なシーンがある。 今回もその回想シーンが出てくる。 実際は、松平家の置かれている立場を考えて、今川を裏切ることはなかったが、今川の家臣・鵜殿長照から、義元が三河守になったことを知り愕然とする元康。 さらに不眠不休で丸根砦、鷲津砦を打ち破ったにも関わらず、直ちに鳴海城への出陣を要請されると、顔色が一変。 さらに「桶狭間へ出陣しろ」と命令されると「本日ここを一歩も動きませぬ!」と出陣を拒否した。 その際、三河衆が拳を床に叩きつけ怒りを露わにするシーンは、直接的に織田勢攻撃には加勢しなかったものの、「桶狭間の戦い」にとっては大きな意味を成す行動だった。 このシーンついて風間は『麒麟がくる』公式ツイッターで「今川の家臣に自分たちが軽んじられていると感じ、桶狭間への出陣を拒否。 「今川の家臣に自分たちが軽んじられていると感じ、桶狭間への出陣を拒否。 勝利を収め帰路につく際の信長に出会った光秀は、今後のことを聞くと信長は帰蝶の故郷である美濃を攻めると言った。 そこから信長は室町幕府再興を目指し、より力を増していく。 放送中断は残念だが、今後の放送に期待を持たせる重厚な「桶狭間の戦い」だった。 基本的に洋画が好きだが、仕事の関係で、近年は邦画を中心に鑑賞。 本当は音楽が一番好き。 不世出のギタリスト、ランディ・ローズとの出会いがこの仕事に就いたきっかけ。 nhk. 2 current.

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