ヘビメタ。 ハードロックとヘヴィメタルの違いについて講釈を垂れる。

ヘビメタハードロック男若井望って誰?スパルタ英会話に通う理由は?年齢や結婚、バンドに仕事は?マツコ会議

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「ヘビメタとクラシック音楽のファンはどちらも創造的で穏やかだが社交的ではない、という共通点が見つかった」と研究した教授が驚いています。 ヘビメタとクラシック音楽のファン、性格に共通点英研究 国際ニュース:AFPBBNews• クラシックとヘビメタ、ファンは似た性格:「音楽の趣味と性格」を調査 WIREDVISION 驚くのは私の方です。 ただ好きで聴いていたクラシック音楽とヘビーメタルに関連性があったとは… 私も、SOHOなので音楽を聴きながら仕事をしていますが、主に流しているのはクラシック音楽です。 クラシック関係のCDやDVDも、購入したものは 1000枚を超えて2000枚近くになっています。 ところが、NightwishやAfter ForeverなどのCDも、何枚も買っているんですね。 彼らは「シンフォニック・ゴシック・メタル」に属しています。 なぜクラシック音楽を聴くのか、なぜヘビーメタルを聞くのか では、元記事とそれを取り上げているブログを引用していくことにします。 クラシックとヘビメタ、ファンは似た性格:「音楽の趣味と性格」を調査 WIREDVISION スコットランドのエジンバラにあるヘリオット=ワット大学の研究者チームが、個人の性格と好みの音楽ジャンルとの関係を調べるため、世界の3万6000人を対象に調査を行なったところ、意外な結果がいくつか示された。 調査を指揮したAdrianNorth教授は、英国放送協会 BBC に次のように語っている。 「最も驚くべきことの1つは、クラシックのファンとヘビーメタルのファンがよく似ているということだ。 どちらも創造的で、落ち着いているが、外向的ではない」 North教授によると、クラシックとヘビーメタルは、似た性格のリスナーを引きつけているが、年齢層が異なるという。 この性格のグループに属する比較的若い人はヘビーメタルを好み、比較的高齢の人はクラシックを好む傾向がみられた。 しかし、音楽を聴く基本的な動機は同じで、どちらも「劇的、舞台的なものを聞きたいから」だという。 「世間は、ヘビーメタルのファンが自滅的なほど抑圧されていて、仲間うちや一般社会にとって危険な存在だという固定概念を持ってきた。 だが実際は、彼らはとても繊細な人々だ」と、North教授は付け加えた。 研究では、ヘビーメタルとクラッシック音楽とは、リスナーは似てもにつかないはずという先入観がくつがえったことに驚いているわけです。 私は逆に、無意識に選んで聴いていたジャンルの2つが、共通するものを持っていたことに驚きました。 そして、未だになぜ、クラシック音楽とヘビーメタルを、私の場合は正確には、シンフォニック・ゴシック・メタルですが、これらを聴いているのか、自分でも分かりませんね。 9月のはじめごろの記事で、ずっと気になっていたのですが、やはり自分なりの答えも見つけることはできませんでした。 そこで、真相に近づける解釈はないのか、検索して手当たり次第にブログを見ていきました。 音楽:ヘビメタとクラシック音楽のファン、性格に共通点あり? — 涙目で仕事しないSE 思うに、へヴィメタとクラシックの共通項って言うのは結構あって、• ヘビメタはバンド形態、クラシックはオーケストラで演奏することが多い。 演奏する楽器がほぼ固定されている。 一時期流行っていたが、今現在ジャンル的にはマイナーな方になってしまっている。 常に原点回帰をしつつ、新しい音楽を作ることを求められる。 決められた枠の中で出来る限りテクニックを磨く。 上記の様な共通項から、「創造的で穏やか、内向的」と言う性格が引き出されてくるのではないのかと思います。 クラシックとロックの融合って言うのは昔から何度も繰り返されてきました。 親和性が高い音楽ジャンル同士、ファンの性格は自ずと似てくるのかもしれません。 これは、鋭意の分析ですね。 様式美とも連動してきます。 エイドリアン・ノース教授の研究によって、音楽に関する嗜好と性質の間には何らかのつながりがあることが分かった。 たとえば、愛国心は、社交的なラップとして表現され、革新的な精神はジャズとして表現され、強い自己愛によって活気付けられることが分かる。 このブログは、ほかがヘビメタとクラシックのことだけに集中しているのに、別の注目するべき研究結果にも言及しています。 このブログはぜひ直接アクセスした方がいいでしょう。 他のジャンルについての研究結果も載っています。 自分の音楽的趣味を羅列してみる クラシック音楽ファン? は、ほとんどが交響曲を中心にしているでしょう。 私も、ブルックナーを中心に、ベートーヴェンやマーラー、ショスタコーヴィチ、ドヴォルザークをよく聴いています。 モーツァルトやブラームス、チャイコフスキー、シューベルト、ハイドンなどはやや関心が薄いですね。 ところが、クラシック音楽も嵩じてくると、こういった大音響ものだけでなく、もっと内省的で凝縮された弦楽四重奏曲などにはまっていくんですね。 ベートーヴェンの後期や、ショスタコーヴィチなどは、異次元の世界に拉致されるような感覚になります。 で、交響曲に帰ると、ブルックナーのシンフォニーと、NightwishやAfter Foreverなどは、陶酔するような上昇感、すべてを忘れてのめり込む脱世俗などでしょうか… クラシック音楽の場合は、日本ではドイツ音楽至上主義の洗脳を受けていますから、バッハからはじまってモーツァルトやベートーベンなどは、聞く前からいい音楽という先入観で臨みます。 もちろん、いい音楽には間違いないのですが。 私は、ブルックナーやショスタコーヴィチ、ドボルザークなどは、みずから複数の指揮者やオーケストラをいくつも聴いて、自分でよいと判断するようになりました。 これがもっと顕著なのは、NapsterでNightwishを発見したときです。 ああ、こんな凄いバンドがあったんだと感動しましたね。 幸か不幸か、NapsterにはNightwishの曲があまり置いてませんでしたので、AmazonやHMVで、少しずつ買っていきました。 そして、Nightwishに匹敵する私のお宝はAfter Forever オランダ だったのです。 また、Kamelot アメリカ 、Evanescence アメリカ は、ロックとかメタルという感じではなく、ポビュラー音楽ですね。 音楽に毒性がないというか、素通りするほどに心地よいだけというか。 実は、これを書きながら、気づきがあったので、ふとバンドの出身国名を調べてました。 上記は、ですから後付けの記述です。 私にとって、クラシック音楽とヘビメタ シンフォニック・ゴシック・メタル の共通点は、ヨーロッパの音楽ということのようです。 クラシック音楽が終焉を迎え、その隔世遺伝か何かで、ドイツ・イタリア・フランスなどの中欧・南欧ではなく、北欧あたりに私の好きなバンドが集中していますね。 でも、それだけのことですが…• シンフォニック・ゴシック・メタルの最高傑作。 クラシックファンにしてメタルファンは必ず聴くべし... 今までの裏技のホームボタン長押しもOS 3. 0では無効に... 行動経済学などによるWebマーケティングで、21世紀型のインターネット・ビジネスを... 亀山社中とか海援隊とか、坂本龍馬はベンチャー起業家。 経済面の明治維新に期待... サラリーマン時代の営業マネージャー会議を彷彿「目標達成します!」... 量子力学、ハイゼンベルクの不確定原理は、一生を左右する画期的な事件だった... シンクロ五輪の日本人コーチの取り上げ方。 逆に好待遇を保証できない日本の惨状を憂う... 日本のNapsterは存続するのか 今のうちに曲を取れるだけ取っておく?... サム・クック Sam Cooke と黒人差別と公民権運動と... 「織田信長と武田信玄の姉川の合戦で武田の騎馬軍団が織田の鉄砲隊に負けた歴史」... 興味深い研究ですし、結果を見て真実も多くあると思いますが、まだまだ研究する余地が残っていると思います。 例えばラップやポップ、クラシックもそうかもしれないですが、そういった音楽は男女平等にファンが多いと思います。 それでもジャズやヘビーメタルといった音楽は、好きだと答えたファンは男性が圧倒的に多いはずです。 クラシックよりもヘビメタファンのほうが自尊心が低いのは、女性からの理解を得られにくいなども原因の一つではないかと想像しています。 また、ジャズとロックの間の音楽でフュージョン音楽というのがありますが、世間一般からはジャズの一部と簡単にまとめられていますが、フュージョンを聴く人と元祖ジャズだけを聴く人とではまた性質が異なる気がします。 フュージョンファンからすると元祖ジャズファンは頑固で、やや他のジャンルを見下す傾向があるような気がします。 面白い研究ですので、もっと進めて欲しいですね。 素早い返信恐縮です。 今作はGOD DETHRONEDからやってきたギターとドラムの貢献により 以前よりもタイトな演奏が確認できます。 端々でデス・メタルを髣髴 とさせるテクニカルなパートが現れるのもこの2人の効果だと言えそう です。 シモーネの声は相変わらずGOODですねぇ。 Unleashedを観る 限り美貌も相変わらず、といったところでしょうか。 今作のテーマはなんと素粒子物理学!だそうで、リーダーのマーク・ ヤンセンの趣味が反映されたみたいですね。 自分は結構なメタルマニアですが(笑)、12月にはLIV MOONという 和製シンフォニックバンドのデビューアルバムが発売される予定で、 元宝ジェンヌ(ゆえに美貌、表現力は高いです)のAKANE LIV擁する このバンドが日本のみならず海外でどういう反響を呼ぶのか、今から 楽しみです。

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【ヘビメタ入門】超王道のヘヴィメタルバンド!おすすめ曲を厳選紹介

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バンドのロゴ キッス(: KISS)は、の・。 アメリカン・草創期から、を代表する世界的グループとして知られる。 早くからロック界にを取り入れ、世界観をギミックした()を展開するなど、版権ビジネスモデルの先駆けともなった。 『』入り。 1月にアメリカで結成されたロックバンドで、白塗りの化粧()と奇抜な衣装でストレートなロックンロール、ハードロックを演奏する。 巨大なロゴを中心にした大規模なステージセットで、当初より炎やを多用している。 彼らのファンは、 キッスアーミー : KISSARMY と呼ばれる。 キャッチフレーズは、「You Wanted the Best!? You Got the Best! The Hottest Band in the World, KISS!! (最高を求めていただろう!? お前は手に入れた! 世界一熱いバンド、キッス!! )」であり、1975年のライヴから現在にかけて、オープニングアナウンスとして使用されている。 シングル、アルバム総売り上げは1億1000万枚以上にのぼる。 メンバー [ ] 名前 プロフィール 担当 在籍期間 現メンバー : Paul Stanley 1952-01-20 (68歳) 1973年 - 現在 : Gene Simmons 1949-08-25 (70歳) ボーカル 1973年 - 現在 : Eric Singer 1958-05-12 (62歳) ボーカル 1991年 - 1996年 2001年 - 2002年 2004年 - 現在 : Tommy Thayer 1960-11-07 (59歳) ボーカル 2002年 - 現在 旧メンバー : Ace Frehley 1951-04-27 (69歳) ニューヨーク市 リードギター ボーカル 1973年 - 1982年 1996年 - 2002年 : Peter Criss 1945-12-20 (74歳) ニューヨーク市 ドラムス ボーカル 1973年 - 1980年 1996年 - 2001年 2002年 - 2004年 : Eric Carr 1991-11-24 (41歳没) ニューヨーク市ブルックリン区 ドラムス ボーカル 1980年 - 1991年 : Vinnie Vincent 1952-08-06 (67歳) リードギター ボーカル 1982年 - 1984年 : Mark St. ジーン、ポール以外のメンバーは1980年代以降入れ替わりが激しく、この2人の方針に沿わないプレイヤーはたとえ才能があったとしても容赦なくお払い箱にされた(エースとピーターについては、「キッスはオリンピックの様なものであり薬物やアルコールの過剰な摂取は許されない」というジーンのコメントがある)。 バンドの統一感を大切にしていたため、新たなメンバーを入れる際は、「長い黒髪か」「髭は剃っているか」「身長が6フィート(約183cm)以上あるか」など厳しい審査があったという(談)。 しかし金髪のエリック・シンガーが加入したときに、そういう制約から自由になったのだとポールが語っている。 ピーター・クリス脱退時にオーディションを受けたドラマーの中に、後にに加入するがいたことは一部で有名である。 また、エース・フレーリー脱退後のオーディションに訪れたギタリストには、成功する以前の、、らがいた。 年 ベース リズムギター リードギター ドラムス 1973 - 1980 ジーン・シモンズ ポール・スタンレー エース・フレーリー ピーター・クリス 1980 - 1982 エリック・カー 1982 - 1984 ヴィニー・ヴィンセント 1984 マーク・セント・ジョン 1984 - 1991 ブルース・キューリック 1991 - 1996 エリック・シンガー 1996 - 2001 エース・フレーリー ピーター・クリス 2001 - 2002 エリック・シンガー 2002 トミー・セイヤー 2002 - 2004 ピーター・クリス 2004 - エリック・シンガー 来歴 [ ] ウィキッド・レスター時代(1970年 - 1972年) [ ] 、ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すの元に旧知のが加わって「 ウィキッド・レスター(: WICKED LESTER)」という5人組ロックバンドが誕生する。 バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われなかった。 にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だった「」に拒否され、お蔵入りとなる。 バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となる。 新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのに連絡し、クリスが加入。 しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになる。 キッスへ改名 - メジャーデビュー(1973年 - 1974年) [ ] 1974年のグループショット シモンズとスタンレーの2人は、サウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてが加入。 にスタンレーの発案によりバンド名を「 キッス」に改名した。 クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われている。 現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーがデザインし、スタンレーが手直しをして完成した。 1973年1月30日にキッスとして初めてのコンサートを行う。 当初はただの白塗りだったメイクも、次第に現在の形に近づいていった。 この年、レコード契約をつかむために懸命に活動しながら、その一環として伝手のあったプロデュースの元、デモ数曲をレコーディングする。 努力が実り、バンドはTVプロデューサーをしていたの目に止まり、マネージャーとして迎えた。 オーコインの働きにより、メジャーデビュー契約先は傘下で当時無名の新会社だったに決定、意気込んでレコーディング作業が行われる。 シモンズは、とあるサーカス団員からを教わり、コンサートにおけるパフォーマンスとして取り入れたが、同年の年末コンサートにて火吹きを失敗し、自らの髪を燃やしてしまい、新聞で「ベーシストは頭に火をつけて演奏」と報じられた。 、アルバム『』でレコードデビュー。 強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。 キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露した。 しかし同年発表された2作目のアルバム『』も、鳴かず飛ばずの結果だった。 大ブレイクと黄金期(1975年 - 1979年) [ ] 1975年のステージ レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、発売のアルバム『』発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行う。 デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発する。 当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定する。 そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなる。 日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなった。 翌、をプロデューサーに迎えて制作した『』をリリース。 同アルバムからのシングル『ベス』が大ヒット 全米7位 する。 初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。 同年、アルバム『』発売。 同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン」がヒットする。 かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生した。 1977年のステージ 、SNEAK ATTACK TOURと銘打った初来日ツアーを敢行。 、などを超満員にする 初来日時のツアー・パンフレットには、演奏される曲目があらかじめ印刷されており、も含めて綿密に計算されたパッケージ・ショウであることがわかる。 4月2日の公演ではによるビデオ撮影が行われ、後に「ヤング・ミュージック・ショウ」で放映され、社会的大人気を獲得した。 同年、アルバム『』、『』(1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。 『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録する。 『アライヴ2』からのシングルカットは、フレーリーが歌う「ロケット・ライド」がヒット。 この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。 日本においては後半を代表するバンドとして、と共に「」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめた。 バンドのフロントマンであり「」「ラヴ・ガン」など数々の代表曲を作り歌うポール・スタンレー、火吹きや吐血などの視覚効果で世間の認知度が一番高かったもう一人のフロントマンであるジーン・シモンズ、「ベス」や「ハード・ラック・ウーマン」といった大ヒット曲を歌ったピーター・クリス(black diamondもヒットといえばヒットである。 )、独特のギタープレイと雰囲気で人気を集めたエース・フレーリーの4人とも、自分こそがバンドを成功へ導いたと主張し合っていたという それでもシモンズ&スタンレー、クリス&フレーリーのグループに別れるのが常だった。 特にバンドに意見を反映しにくくなっていったクリスとフレーリーのフラストレーションとエゴは酷く、成功により大金を手にした彼らはしだいに酒やドラッグに溺れていく(結果として、後にふたりはグループを脱退する)。 1979年のライブ 春、2度目の日本ツアーを行うが、楽屋では物を投げ合い、つかみ合いの喧嘩が行われたという。 このときバンドの人間関係は最悪な状態になっていた。 行き詰まったバンド内の人間関係を修復し現状を打破すべく、またソロ活動を望むフレーリーのためにも、各メンバーがそれぞれソロアルバムの制作を発表。 グループは人気絶頂でありながら当分のライブ活動休止を宣言する(既に1978年初頭にはソロアルバムのレコーディングを行っており、来日時にもスタジオを借りてレコーディングしていた)。 スタンレーは後に、「ここでソロアルバムを発表して落ち着かなければキッスは確実に解散していた」と回顧している。 1978年9月、各メンバーのソロアルバムが同時リリース。 フレーリーのソロアルバムに収録された「ニューヨーク・グルーヴ」(の曲のカヴァー)がヒット。 ソロ・アルバムで自信をつけたフレーリーは、さらにグループからの独立を志向し始める。 同年、リミックスを施した初のベストアルバムである、『』発売。 この頃には、単にレコード制作、ライヴに止まらず、NBCによる映画『 ()』の制作、MEGO社から彼らの人形が発売、遊園地「KISS WORLD」の建設構想など次々バンド活動以外の企画が打ち出され、ハードロック・バンドというよりは、次第にファミリー向けキャラクター商品の素材と化していった。 、グループとしては2年ぶりのオリジナルアルバム『』発売。 ソロアルバムの延長のような作品で、スタジオでメンバー全員が顔を合わせることは無かった。 スタンレーがを見出し共作したシングル「」は、2人が当時のマシンミュージック全盛のディスコ・ブームに一石を投じようと意気投合して作ったディスコ調ロックで、同ナンバーは世界中で大ヒットを記録した。 しかし合わせて行われたDYNASTY TOURの観客動員は伸び悩み、やがてキッスは混乱と低迷の時代を迎える。 1977年 バンド再編〜ノーメイク時代 - 第二黄金期(1980年 - 1990年) [ ] 、薬物依存や人間関係・体力的な問題などにより、バンド継続が不可能であると判断したシモンズ・スタンレー・フレーリーの3人とマネージメントは、クリスの解雇を決定。 その直後に、アルバム『』製作開始(同アルバム収録曲「シャンディ」のPVにはクリスは出演)。 なお、このアルバムとDynastyでクリスの代わりにドラムを叩いたのはである。 クリスの脱退は契約上の問題からアルバム発売1週間後に報じられた。 前作同様ポップスへの傾向を強めたアルバム自体の評価も芳しくなく、KISSの人気は急激に下降し、グループは低迷期に突入。 暫くは3人だけで活動していたが、オーディションにより、後任の2代目ドラマーとしてが加入する。 アメリカ本国でのUNMASKED TOURは以前ほどの勢いは見られず失敗。 主要マーケットであるアメリカと日本での人気は完全に下火へ向かっていた。 しかし逆に、オーストラリア、ブラジル、ヨーロッパなどでは大ヒットを記録し、この時のオーストラリア&ニュージーランドツアーは彼らの史上最も華々しいツアーと言われるほど大成功した。 この時期のオーストラリアでの大ブームの影響か、現在でもオーストラリアツアーでは必ず「シャンディ」が演奏されている。 またこの時期、ソロの成功で自信をつけていたフレーリーのリードボーカル曲を増やすなど彼を前面に押し出し、親しかったクリスを失い、ソロ志向の強まる一方だったフレーリーをバンドに繋ぎ止めようとしていた形跡が見られる。 翌、ニュー・アルバムの制作を開始。 当初はこれまでよりもハードなロック・アルバムの予定であったが、制作途中からマネージャーの意向により路線を変更。 シモンズが以前から温めていた構想を基に、グループの歴史上唯一のコンセプトアルバム『』を完成しリリースする。 この作品は、元々『The Elder』というジーン原案の映画のために楽曲を書き下ろしていたが、曲が完成した直後に映画が制作中止となり、曲を無駄にしたくないマネージャーとシモンズが映画の本来のストーリーに沿ったコンセプト・アルバムにしたというもの(他の3人はまったく乗り気では無く、リリースに反対したがシモンズに押し切られる形で発売が決まった)。 内容自体は意欲的なもので、これまでになかった叙事詩風のプログレッシブ・ロックを展開したが、中途半端なイメージの変化で売り上げは歴代最低を記録することになる。 バンド自体も後のインタビューで「あの作品は失敗だった」と語っている。 ストレートなロック志向のフレーリーはバンドに興味を失うようになり、新メンバーのカーもこのアルバムの方向性に疑問を呈したという。 本作に伴うツアーは行われなかった。 この頃、バンド内のパワーバランスは完全にシモンズ・スタンレー組VSフレーリーになっており、フレーリーの意見は取り上げられることが少なくなっていた。 、ハード&ヘヴィへの原点回帰を打ち出したアルバム『』発売。 このアルバムのジャケット写真と収録曲の「勇士の叫び」のPV、同年発売の日本とオーストラリア限定ベスト盤『』にはフレーリーの姿はあるが、バンドに興味が持てなくなった彼はレコーディングには一切関わっていない(飲酒と薬物の影響によるとも)。 フレーリーはジャケット写真の撮影とTV出演の直後に脱退していた(契約の関係でしばらく伏せられていた)。 共作者兼レコーディング・ギタリストとして起用したミュージシャンの一人であるヴィンセント・クサノ(後の)が大半の曲でリードギターを担当しているため、歴代アルバムの中でもヘヴィ・メタル色の強いアルバムとなった。 ヴィンセントの腕はメンバーに認められてはいたが、彼は正式メンバーではなく、あくまでもフレーリーの代役としてツアーに参加。 本作での作詞作曲や演奏では貢献度が高かったヴィニーだが、加入後の彼の態度はこの後シモンズとスタンレーを大いに悩ませることとなる。 アルバム自体は現在では良作とされているが、宣伝効果も虚しく当時の売り上げは非常に低かった。 なお米盤の『暗黒の神話』は1985年に再発されたものから素顔をフィーチャーしたものにジャケットが差し替えられた(ブルース・キューリックが写っているが、無論本作には一切関わっていない。 曲順の変更、リミックスがされている)。 また、この頃からライヴ演奏のテンポが速くなる。 翌、エース・フレーリーの脱退が公式に報じられた。 だがツアー契約があったために急遽ギタリストが必要になり、ヴィニー・ヴィンセントが2代目リードギタリストとして加入。 アメリカ本国や日本での人気が低迷していた中、反対に人気が最絶頂だったブラジルのリオ公演で過去最大の13万人を動員した。 ノーメイク時代『アニマライズ』期(1984) ツアー終了後の、ヴィニー・ヴィンセントが解雇される。 そこで、スタンレーのレコード会社の知人からの紹介で「」を3代目リードギタリストとして急遽加入させ、アルバム『』を完成させる。 アルバムは100万枚の売り上げを記録し、80年代最大のヒットとなった。 しかし、ジョンはAnimalize Tour直前のリハーサル中に難病による関節炎を発症しプレイが困難になったため、代役として後に4代目リードギタリストとなるが起用される。 12月8日には、かつて『』をレコーディングしたデトロイト・コボ・ホールでライヴ撮影を行い、TVやラジオで放送した後、『』というタイトルでライヴビデオをリリース。 このライヴでもブルース・キューリックがプレイしており、ツアーの初日からステージに上がれなかったマーク・セント・ジョンは3公演のみ参加(うち1公演では、スタンレー、キューリック、ジョンのトリプルギター編成で演奏している)。 結局、マーク・セント・ジョンは加入から僅か8カ月で脱退する(前述のライヴビデオの撮影日に、事実上脱退していた)。 、ブルース・キューリックが正式加入し、アルバム『』発売。 そして、はこのメンバーで定着した。 、ハートなどを手掛けたロン・ネヴィソンをプロデュースに迎え、メタル色を若干薄めてシンセサイザーを導入した作品『』発売。 大ヒットしてプラチナム・アルバムを記録、イギリスではチャート4位になったが、プリプロではもう少しハードな音だったらしく、メンバーはあまり音の仕上がりには満足していない。 翌、4月に10年振りとなる来日公演を果たし、5月に日本限定の来日記念ベスト盤『パワー』が発売された。 また11月には、カーのボーカルで録り直した1976年の大ヒット曲「ベス」と新曲を2曲収めたベストアルバム 『』発売。 、原点回帰を目標にしたストレートなロックンロール・アルバム『』発売。 スタンレーがと共作した「Forever」は全米8位を記録する大ヒットバラードとなった(これは「ベス」以来初のTOP10シングル)。 しかしツアー観客動員数は若干減り、盛り返した人気は一段落する。 その一方、カーは心臓血管に悪性腫瘍が見つかり入院してしまう。 カーの死を悼みながらもバンドはその死を乗り越え、カーが入院中、代理ドラマーであった(元やバッドランズのドラマーであり、1989年スタンレーのソロライヴ・ツアーメンバーでもあった)を3代目ドラマーとして正式に迎え入れる。 1991年12月、当時の音楽シーンや善良なカーの命を奪った運命への「逆襲」の意を込めて、元メンバーのヴィニー・ヴィンセントとの共作を含むアルバム『』の制作を開始。 『リヴェンジ』は翌3月に完成し、5月19日にリリース。 アルバムとしては『地獄からの脱出』以来実に13年ぶりに全米ビルボードTop200のトップ10入りを果たした。 、バンドとして安定して演奏レベルの高かったREVENGE TOURのライヴを収録した『』発売。 、KISS MY ASS TOURを行う。 それと同時に、トリビュート・アルバム『』が発表される。 このアルバムには、やなどが参加している。 リユニオン〜オリジナルメンバー再集結(1995年 - 1999年) [ ] オリジナルラインナップ - 左上エース、右上ジーン、左下クリス、右下ポール 1月、シモンズ、スタンレー、キューリック、シンガーによる来日公演が行われた。 ツアー初日の大阪公演は、阪神大震災の一週間後であり、被災者に配慮して炎の使用を控えた他、武道館公演でリハーサルを録音し、ダイヤルQ2による被災地支援チャリティを行った。 この年2月から、KISS Conventionというイベントを行い、ファンと直に触れ合う機会を持ったシモンズとスタンレーは、1970年代以来のファンから「オリジナルメンバーの再結成はないのか」と問われるようになる。 だが二人は以前からそうした話題が起きる都度否定し、またテレビ局から100万ドルのギャラを提示されて、オリジナルメンバーでの出演をオファーされるも即座に断ったりしており、オリジナルメンバーでの再結成はないと思われていた。 しかし、KISS Conventionの小規模なアコースティック・ライヴにピーター・クリスが飛び入りして「ハードラック・ウーマン」を歌い、それがきっかけで8月に行われた「」でエース・フレーリー、ピーター・クリスを含めたラインナップで演奏したことで、ついにオリジナルメンバーでの再結成へと至る(再結成についてはスタンレーが強く希望し、反対するシモンズを説き伏せて実現した)。 11月、に代表されるブームを意識した『』の制作を開始。 しかし再結成の動きが進行中であり、再結成決定によりブルースとシンガーは脱退という事態になり、完成した『カーニヴァル・オブ・ソウルズ』は発売の機を逸してしまうこととなった。 、3月、MTVアンプラグド・ライヴの模様を収めたライヴアルバムとライヴビデオ『』を発売。 オリジナルラインナップ・ライブ(1999年) にはオリジナルメンバーとしては19年振りとなる来日公演も実現した。 クリスのドラミングには全盛期のキレはなく、フレーリーの動きも鈍くなってしまっていたが、オリジナルメンバーが再集結し、メイクを施して行ったツアーは世間に大熱狂と共に受け入れられ、大成功のうちに終了した(しかし、大阪公演ではシモンズが風邪で喉を痛めてしまい、彼のボーカル曲のほぼ全てがセットリストから外されるというハプニングも勃発した)。 1980 - 1990年代のステージでは、テンポを上げてスピーディな演奏を繰り広げていたが、この再結成以降は演奏のテンポをオリジナルのものに戻している。 1997年10月28日、当時出回っていた対策として、お蔵入りとなっていた『カーニヴァル・オブ・ソウルズ』がリリースされる。 しかし、内容はどの楽曲もポール及びジーンの歌声がなければKISSと判別出来ないほど、徹頭徹尾グランジに阿った代物で、オリジナルメンバーが大盛況のツアーを行っている状況でこのアルバムが売れる要素はなく、注目されることは無かった。 無論ツアーでは2020年現在、本作から1曲たりとも一度も演奏されたことはなく、ほぼ本作は存在しなかったことになっている。 コロンバス公演のリハーサル中、クリスがたびたび訴えていた腕の不調が最悪の状態になり、ドクターストップを宣告される。 この日のライヴは、エディー・キャノンというドラマーが一夜限りの代役(CATMANのメイクも施した)を務めた。 オリジナルメンバーでのアルバム発売が望まれる中、9月22日に『』発売。 全米初登場3位にランクインした。 そして、同アルバム名を掲げたPSYCHO CIRCUS TOURは無事成功を収めた(しかしスタンレーによるとオリジナルメンバーでのレコーディングは大変に困難な状況であり、その精神的苦痛から2009年になるまでKISSとして新作を作ることはなかった)。 オリジナル・ラインナップ崩壊(2000年 - 2004年) [ ] 21世紀突入直前の、キッスは解散を宣言。 解散ツアー・THE FAREWELL TOUR 2000-2001を開始したが、ツアーが中盤に差し掛かった10月にクリスが再び脱退、やむなくツアーは中断となった。 そんなある日、スタンレーが車を車検に出した時に従業員が「30周年ツアーはするのか?」と聞いてきたことがきっかけとなり、グループは解散宣言を撤回、永久活動を宣言する。 そして脱退したクリスの後任には元メンバーのエリック・シンガーがCATMANメイクで復帰した。 3月、シモンズ、スタンレー、フレーリー、シンガーというメンバーでTHE FAREWELL TOUR来日公演を行う。 11月、貴重なデモやライヴ音源を含めた500セット限定の豪華ボックスセット『』発売。 ウィキッド・レスター時代の曲やお蔵入りデモ、キッス名義での初ライブ(未発表曲である「アクロバット」のみの収録)、その他デモやアルバム未収録曲が多数収録されており、マニア感涙のコレクターズアイテムとなった。 同時に廉価版である「地獄のシガー・ボックス」も5,000セット限定で発売。 、ソルトレイクシティ・オリンピックの閉会式にて、「」を演奏。 このステージを最後に、契約の切れたフレーリーが再び脱退する。 フレーリーはソロ活動に集中するため再契約に応じなかった。 元の(1989年頃から、KISSの裏方や共作者・ツアーマネージャーとして行動を共にし、アルバム『ホット・イン・ザ・シェイド』の制作と『サイコ・サーカス』のレコーディングにも参加)がフレーリーの代役を務め、そのまま5代目リードギタリストに抜擢された。 セイヤーはキッスのトリビュートバンドCOLD GINにいた経験もあり、オリジナルメンバー再結成の際には、自らの初期のギターフレーズを忘れていたフレーリーにフレーズのレクチャーをしたり、ツアー中もフレーリーが不調の時にギターを弾けなくなったらすぐに代役が務められるよう、メイク姿で舞台袖で待機していたという。 同時期にピーター・クリスが再び復帰し、エリック・シンガーは2度目の脱退をすることになる。 、世界ツアー・WORLD DOMINATION TOURを行う。 ツアーの前半はRCKSIMUS MAXIMS TOURというツアー名でと対バンという豪華なものであった。 2月のメルボルン公演ではクラシック・オーケストラと共演し、キッス・シンフォニーと銘打って生のシンフォニック・ハードロック・ライヴを見せた。 この模様は『』というタイトルでCDとDVDに収められる。 3月にはシモンズ、スタンレー、クリス、セイヤーというラインナップで来日公演を行った。 日本ではALIVE IN JAPAN 2003と銘打たれていた。 この年の10月16日には、ロサンゼルスのクラブで発砲事件が発生。 偶然居合わせた元メンバーのブルース・キューリックが脚を撃たれ、頭部にも掠り傷を負ってしまう。 幸いにも命に別状はなかった。 翌、ピーター・クリスが3度目の脱退。 世界ツアー・ROCK THE NATION TOURを行い、公演と公演を収録したライヴDVD『地獄の狂宴 〜ロック・ザ・ネイション・ライヴ! 』発売。 このツアーでは「彼女」や「すべての愛を」(どちらも『地獄への接吻』収録曲)など、演奏されなくなって久しい曲を久しぶりにステージで披露した。 メルボルン公演では前年同様キッス・シンフォニーを披露、この公演ではメイク復活後にセットリストから外された「」と、これまで一度も演奏していない「」を披露した。 、の博物館前で、ファン200人によるキッスのロック殿堂入りを要求するデモが行われた。 十分な資格と功績のあるキッスが殿堂に招かれなかったことに対し、ボードを掲げて30分の抗議活動を行った(殿堂博物館によれば、こうしたデモは初めてのことだという)。 なお、キッスは何度もノミネートされているにもかかわらず、(2013年に殿堂入り)などと共にロックの殿堂入りを果たしていないことを最も疑問視されていたアーティストの1つであり、ニュースサイト・「」では「ロックの殿堂入りしていない偉大なバンドTop10」で第2位に選ばれていた が、2014年に殿堂入りした。 同年7月23日、日本独占ツアー・RISING SUN TOUR最終公演の2日間に、ウドー・ミュージック・フェスティバルに出演。 しかし、ツアー最終日である公演での集客数は、これまでの来日公演を大きく下回ることになる。 この模様は、で放送された。 翌年に掛けて、1973年から2000年までの貴重なライヴ映像を収めたKISSOLOGYシリーズを3巻に分けてリリース(後に日本版も発売された)。 、5公演のみのアメリカツアー・HIT 'N TUN TOURを行う。 その最終公演であるカリフォルニア公演当日のリハーサル中に、スタンレーの心拍数が突如190を超え(通常の2〜3倍)、急遽病院に搬送される。 シモンズが観客に説明し、「キャンセルしてやり直すか、このまま続けるか」尋ねた結果、この日のライヴは代役も立てずキャンセルもせず、スタンレーを除く3人で決行することとなった。 演奏曲はシモンズとシンガーで歌える曲をチョイスしたが、ステージに観客も上げるなど破天荒なライブだった模様。 スタンレーは「この借りはいつか必ず返すよ」とコメントを残した(スタンレー不在のライヴはキッスの歴史上初であり、最大のハプニングライヴとなった)。 同年4月5日、元メンバーの(マーク・ノートン)が脳出血で他界(51歳没)。 オーストラリアツアーではKISSTERIAというドキュメンタリー風ドラマを撮影した。 同年8月、現在のメンバー、シモンズ、スタンレー、シンガー、セイヤーによって新たに録音されたベスト盤『』が日本限定発売。 初期のKISSコンセプトのように、メンバー全員がそれぞれリード・ボーカルをとる曲が含まれ、またスタンレーとシモンズの共作も復活した。 しかし日本ではレコード会社との契約がなされておらず、『ソニック・ブーム』の日本盤は未だ発売されていない。 、SONIC BOOM OVER EUROPE TOURとTHE HOTTEST SHOW ON EARTH TOURでヨーロッパとアメリカを精力的にツアー。 、4月新たなスタジオ・アルバム製作に取り掛かる。 同年10月、初の試みであるKISSクルーズをマイアミで開催。 貸切の豪華客船上でアコースティックショーを含む3回のライヴを行った。 船上ではハロウィーンパーティやファン同志の交流も行われ、メンバーも参加したファンも満足するものとなり、すぐに翌年の開催が決定され、以降は恒例行事となった。 THE TOUR(2012年) 、3月にとのダブルヘッドライナーツアーTHE TOURを発表。 7月2日、新たなスタジオ・アルバム『』からの第一弾シングル『ヘル オア ハレルヤ』発表。 7月20日-10月1日、THE TOURでと共に北米と南米でツアーを行った。 10月10日(北米での発売は9日)、3年ぶり20作目のスタジオ・アルバム『モンスター 〜地獄の獣神』発売。 全米ビルボードTop200で初登場3位を記録する。 アルバム製作自体はもっと早く終わっていたが、レコード会社との契約に時間がかかったため、発売が遅くなった。 しかし、それにより日本盤も無事発売となった。 10月、前年11月から続くMONSTER WORLD TOURの終わりに、7年ぶりとなる来日公演を行なった。 ファンイベントを行ったり、ファッションショーやTVの音楽番組に生出演したりと今までとは違う行動が多数見られたが、ライヴでは全ての会場でスパイダーセットと共にバンドの底力を見せつけた。 10月24日の武道館公演はWOWOWの生中継で放送され、同時に全国のイオンシネマ30劇場で同時上映、収益金は東日本大震災の被災地支援団体に寄付された。 4月、『』入りを果たす。 式典にはオリジナルメンバーが一堂に会したものの、殿堂側との問題により演奏は行われなかった。 プレゼンターはのが務めた。 、とのコラボレーションを行い、ももいろクローバーZ vs KISS名義でシングル「」をリリース。 2015年3月3日には、来日公演でももいろクローバーZがゲスト出演。 オレゴン州軍楽隊とコラボ(2016年7月) 、のアリーナ級ライブで、同州軍警備隊のとコラボして話題となる。 また、翌年に同地域のチャリティー・イベントで、久しぶりとなるノーメイクでのパフォーマンスを見せた。 バンドの終焉(2018年 - 現在) [ ] 、来年度からのワールドツアーをもっての活動休止を発表。 7月の地元ニューヨーク公演が最後になると伝える。 、ファイナルツアー「END OF THE ROAD WORLD TOUR」を開始。 年末の来日ツアーおよび の客演が 、日本で最後のパフォーマンスとなる予定。 ペルソナ キャラクター [ ] 各メンバーがメイクした姿はペルソナと呼ばれ、それぞれ名前とキャラクターが与えられている(メイクメンバーのみ)。 獣の咆哮をあげ、空を飛び、炎を吐く。 他人の心を読むことができ、星の右眼から光線を発する。 瞬間移動能力を持ち、両手から光線を発する。 エースのみSPACE ACEと表記されることもある。 両腕の鋭い爪が武器。 1998年にファンタジーコミック化した際は、敵として登場。 パンダやタヌキと誤認されるケースが多い。 魔術師であるのかもしれないとも考えられていた。 上記の設定は1977年からのもので、それ以前、ジーンのキャラクターはTHE DRAGON、ポールのキャラクターはTHE LOVERと呼ばれていた。 その他、ポールはごく初期の短期間だけカサブランカ社長ニール・ボガートの要請により、バンディット(山賊)メイク(「」に出てくるマスクに似ているためそう呼ばれる)をしていた時期があるが、当人が気に入らず、すぐ右目星型メイクに戻した。 メイクアップ・デザイン• The Wizard - マーチャンダイズ [ ] 本業の音楽以外に早くから版権ビジネスに目をつけ、(商品化)で成功した音楽グループの先駆けでもある。 バンドの世界観やメンバー4人をキャラクター化したものを、グッズ販売やで展開し大きな収益を得ている。 これまでのグッズは通算で5000点以上あり(2016年時点)ライセンス事業も手掛け、興行収入は往年のやを上回るとされている。 グループのマーケティングに関しては、主にが決定権を持つ。 ジーンはインタビューで「女性ウケするアイドル的スタイルだと一過性で終わるが、男性が憧れる存在で成功すれば彼らは最後まで付いて来てくれる。 だからアメリカン・ヒーローのようなペルソナメイクのキャラクターを作った。 そこから商標化のアイデアが生まれた」、また「ファンが求めている、クールであるかの見極めも重要だ。 世界的に成功していないグループでも、が売れた例は数多くある。 だからたとえ有名ブランドでも、必ずしも商標ビジネスには直結しない」と明かしている。 商品化した一例• 1974年頃の販促ポスター デビュー当時からメンバー全員が顔面白塗りの奇抜なメイクをしていることで有名だった。 当初のバンドのコンセプトは「アメリカ版」であり、楽器の編成も同じで、メンバー各々(ヴィニー・ヴィンセント、マーク・セント・ジョンは除く)にリードボーカル曲がある。 ただし、ヴィニーはデモ段階の一部の楽曲ではリードボーカルを取っていた。 日本においてはアルバムの邦題が「地獄」シリーズであることでも有名。 セカンドアルバム『』に最初から「地獄のさけび」という日本語のタイトルが付けられていたことがきっかけとなり、後に初期の3作が日本でまとめて発売された際に、「地獄」とは何の関連もない原題のアルバムにまで「地獄の…」という邦題が付けられることとなった。 ことステージにおけるジーン・シモンズの過激なパフォーマンス(口から火を噴く、血を吐く、あるいはワイヤーアクションによって宙を舞う)の鮮烈さも相俟って、ややもすると的を射た意訳であると解釈される場合もあるが、しかしシモンズが上述の自伝の中で述べている限りではステージで行われる数々のパフォーマンスはあくまでも「ショウにおけるアトラクション」という位置づけにあり、KISSというバンドのコンセプトと地獄に直接の関係はないとされる。 1970年代の日本の雑誌のインタビューでは、バンドのメイクに歌舞伎の影響があったと書かれていたことがあったが、ジーンの自伝『Kiss And Make-Up』においてメイクが歌舞伎から発想を得ていることを否定しており、ポールも後の度重なるインタビューで否定している。 ジーンの怪獣型ブーツ なお、セカンドアルバム『』のジャケットに日本語が多数使われているのは、撮影を担当したノーマン・シーフのアドバイスによるもの。 ノーマンは当時日本で横尾忠則と知り合い、その影響をこのジャケットに反映させた。 ジーンは恐怖映画やのファンであり、有名な怪獣型ブーツはがモデルである。 現在のメディアでは、「80年代は低迷期だった」という扱いをされているが、売り上げが低かった作品は、1980年『』、1981年『』、1982年『』の1980年代初期の3作品に留まっており、北米以外の海外ツアーでは相変わらずの大人気を博していたため、データ上を見る限りでは一概に「低迷期」とは言えない。 1983年素顔で発表した『』、1984年『』、1987年『』ではプラチナムをとっており、素顔でも常に第一線で活動し続けていた(RIAAの記録は更新されていないが、1985年『』も売り上げ上ではプラチナムだとされる)。 ポール・スタンレーは素顔について、「飽きられてきていたし、音楽そのもので勝負する時期にきていた。 素顔になる心構えはできていて、後はジーンの気持ち次第だった」と後年に明かしている。 代表曲「デトロイト・ロック・シティ」に象徴されるように特にで絶大な人気を持っていたが、バンド自体はで結成されており、デトロイト出身ではない。 同じく代表曲「勇士の叫び」の最初のメロディは日本でも馴染みが深く、のサポーターによるチャント「ウォリアー」の原曲となっている。 またなどに参戦した、の入場テーマ曲でもある。 彼らの影響力が強いころに見つけたバンドとしてがある。 ジーンが出資してデモ・テープを作らせ、各レコード会社に送付したが、どのレコード会社も興味を示さなかった逸話がある。 ジーンは、同バンドのベーシストであるマイケル・アンソニーと顔が似ているとされ、同一人物に思われていた時期があった。 のカメラ「」の2005年 - 2006年のCMで、西洋人の子供4人(男の子2人・女の子2人)が顔にKISSのペイントをして、歌詞こそ違えど「」を歌うというものが放送されていた。 にて連載されていたにはKISSのパロディキャラクター(通称「四天王」)が登場していた。 87位 US• 100位 ゴールド US• 32位 ゴールド US• 11位 3X US• 11位 2Xプラチナム US• 4位 4Xプラチナム US• 9位 プラチナム US• 35位 ゴールド US• 75位 US• 45位 ゴールド US• 24位 プラチナム US• 19位 プラチナム US• 20位 ゴールド US• 18位 プラチナム US• 29位 ゴールド US• 6位 ゴールド US• 27位 US• 3位 ゴールド US• (ベスト曲 再レコード盤)• ライブアルバム [ ]• 9位 4Xプラチナム US• 7位 2Xプラチナム US• 9位 ゴールド US• 15位 ゴールド US• 17位 ゴールド US• 18位 ゴールド US ベストアルバム [ ]• 22位 プラチナム US• 1988年 21位 2Xプラチナム US• 1997年• 2001年 同時に廉価版として『地獄のシガー・ボックス』も発売• 2002年• 2005年• 2014年 日本公演 [ ]• 3月24日・25日 26日 28日 30日 4月1日・2日(昼夜2回)・4日• 3月28日・29日・31日・4月1日・2日 日本武道館• 4月16日 18日 20日 21日・22日 日本武道館 24日 第一体育館• 1月24日 大阪城ホール 26日 28日 1月30日・31日 日本武道館• 1月18日 20日 (名古屋レインボーホール) 21日・22日 大阪城ホール 24日 25日• 3月9日・10日 13日 東京ドーム 16日 福岡国際センター 18日 名古屋市総合体育館(名古屋レインボーホール) 21日・22日 大阪城ホール• Rising Sun Tour 2006 7月18日 名古屋市総合体育館(名古屋レインボーホール) 7月20日 福岡国際センター Udo Music Festival 7月22日 泉大津フェニックス 23日• KISS Returning To Japan 2011(チケット発売までされたが中止となり実際は行われなかった) 4月10日 愛知県体育館 4月14日 パシフィコ横浜、 4月17日 さいたまスーパーアリーナ、 4月18日 神戸ワールドホール、 4月20日・21日 日本武道館、 4月23日 札幌真駒内アイスアリーナ (2011年公演は、アーティスト側都合により中止された旨が、主催者ウドー音楽事務所により発表された。 同年3月11日のが起こる以前の中止発表であり、中止は震災の影響によるものではない)• KISS Monster Japan Tour 2013 10月19日 国際展示場9-11ホール、 10月21日 10月23日・24日• 2月23日 (日本ガイシホール) 2月25日 2月26日 2月28日 (セキスイハイムスーパーアリーナ) 3月3日 東京ドーム(がゲスト出演。 「夢の浮世に咲いてみな」と「ロックンロール・オールナイト」でコラボレーション)• KISS End Of The Road World Tour 12月8日 12月11日 12月14日 (盛岡タカヤアリーナ) 12月17日 (京セラドーム大阪) 12月19日 (ドルフィンズアリーナ) 12月31日 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2020年6月28日閲覧。 - amass• - BARKS• - BARKS• - BARKS• - BARKS• BARKS 2017年2月21日. 2017年12月1日閲覧。 BARKS 2017年11月13日. 2017年12月1日閲覧。 ローリングストーン 2018年9月30日. 2019年12月16日閲覧。 ローリングストーン 2019年12月8日. 2019年12月16日閲覧。 rockin'on. com 2019年12月13日. 2019年12月16日閲覧。 ORICON NEWS 2019年12月15日. 2019年12月16日閲覧。 BARKS 2012年11月4日. 2020年2月12日閲覧。 日経ビジネス 2016年6月16日. 2020年2月12日閲覧。 日経ビジネス 2016年6月16日. 2020年2月12日閲覧。 - BARKS 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (英語)• KISS -• - チャンネル• (日本語) - 公式ウェブサイト• (日本語) - KISS ARMY JAPAN 公式ファンクラブサイト.

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ヘビメタ好きのフランス人が営むブルーパブ イグドラジルブルーイング

ヘビメタ

バンドのロゴ キッス(: KISS)は、の・。 アメリカン・草創期から、を代表する世界的グループとして知られる。 早くからロック界にを取り入れ、世界観をギミックした()を展開するなど、版権ビジネスモデルの先駆けともなった。 『』入り。 1月にアメリカで結成されたロックバンドで、白塗りの化粧()と奇抜な衣装でストレートなロックンロール、ハードロックを演奏する。 巨大なロゴを中心にした大規模なステージセットで、当初より炎やを多用している。 彼らのファンは、 キッスアーミー : KISSARMY と呼ばれる。 キャッチフレーズは、「You Wanted the Best!? You Got the Best! The Hottest Band in the World, KISS!! (最高を求めていただろう!? お前は手に入れた! 世界一熱いバンド、キッス!! )」であり、1975年のライヴから現在にかけて、オープニングアナウンスとして使用されている。 シングル、アルバム総売り上げは1億1000万枚以上にのぼる。 メンバー [ ] 名前 プロフィール 担当 在籍期間 現メンバー : Paul Stanley 1952-01-20 (68歳) 1973年 - 現在 : Gene Simmons 1949-08-25 (70歳) ボーカル 1973年 - 現在 : Eric Singer 1958-05-12 (62歳) ボーカル 1991年 - 1996年 2001年 - 2002年 2004年 - 現在 : Tommy Thayer 1960-11-07 (59歳) ボーカル 2002年 - 現在 旧メンバー : Ace Frehley 1951-04-27 (69歳) ニューヨーク市 リードギター ボーカル 1973年 - 1982年 1996年 - 2002年 : Peter Criss 1945-12-20 (74歳) ニューヨーク市 ドラムス ボーカル 1973年 - 1980年 1996年 - 2001年 2002年 - 2004年 : Eric Carr 1991-11-24 (41歳没) ニューヨーク市ブルックリン区 ドラムス ボーカル 1980年 - 1991年 : Vinnie Vincent 1952-08-06 (67歳) リードギター ボーカル 1982年 - 1984年 : Mark St. ジーン、ポール以外のメンバーは1980年代以降入れ替わりが激しく、この2人の方針に沿わないプレイヤーはたとえ才能があったとしても容赦なくお払い箱にされた(エースとピーターについては、「キッスはオリンピックの様なものであり薬物やアルコールの過剰な摂取は許されない」というジーンのコメントがある)。 バンドの統一感を大切にしていたため、新たなメンバーを入れる際は、「長い黒髪か」「髭は剃っているか」「身長が6フィート(約183cm)以上あるか」など厳しい審査があったという(談)。 しかし金髪のエリック・シンガーが加入したときに、そういう制約から自由になったのだとポールが語っている。 ピーター・クリス脱退時にオーディションを受けたドラマーの中に、後にに加入するがいたことは一部で有名である。 また、エース・フレーリー脱退後のオーディションに訪れたギタリストには、成功する以前の、、らがいた。 年 ベース リズムギター リードギター ドラムス 1973 - 1980 ジーン・シモンズ ポール・スタンレー エース・フレーリー ピーター・クリス 1980 - 1982 エリック・カー 1982 - 1984 ヴィニー・ヴィンセント 1984 マーク・セント・ジョン 1984 - 1991 ブルース・キューリック 1991 - 1996 エリック・シンガー 1996 - 2001 エース・フレーリー ピーター・クリス 2001 - 2002 エリック・シンガー 2002 トミー・セイヤー 2002 - 2004 ピーター・クリス 2004 - エリック・シンガー 来歴 [ ] ウィキッド・レスター時代(1970年 - 1972年) [ ] 、ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すの元に旧知のが加わって「 ウィキッド・レスター(: WICKED LESTER)」という5人組ロックバンドが誕生する。 バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われなかった。 にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だった「」に拒否され、お蔵入りとなる。 バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となる。 新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのに連絡し、クリスが加入。 しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになる。 キッスへ改名 - メジャーデビュー(1973年 - 1974年) [ ] 1974年のグループショット シモンズとスタンレーの2人は、サウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてが加入。 にスタンレーの発案によりバンド名を「 キッス」に改名した。 クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われている。 現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーがデザインし、スタンレーが手直しをして完成した。 1973年1月30日にキッスとして初めてのコンサートを行う。 当初はただの白塗りだったメイクも、次第に現在の形に近づいていった。 この年、レコード契約をつかむために懸命に活動しながら、その一環として伝手のあったプロデュースの元、デモ数曲をレコーディングする。 努力が実り、バンドはTVプロデューサーをしていたの目に止まり、マネージャーとして迎えた。 オーコインの働きにより、メジャーデビュー契約先は傘下で当時無名の新会社だったに決定、意気込んでレコーディング作業が行われる。 シモンズは、とあるサーカス団員からを教わり、コンサートにおけるパフォーマンスとして取り入れたが、同年の年末コンサートにて火吹きを失敗し、自らの髪を燃やしてしまい、新聞で「ベーシストは頭に火をつけて演奏」と報じられた。 、アルバム『』でレコードデビュー。 強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。 キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露した。 しかし同年発表された2作目のアルバム『』も、鳴かず飛ばずの結果だった。 大ブレイクと黄金期(1975年 - 1979年) [ ] 1975年のステージ レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、発売のアルバム『』発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行う。 デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発する。 当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定する。 そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなる。 日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなった。 翌、をプロデューサーに迎えて制作した『』をリリース。 同アルバムからのシングル『ベス』が大ヒット 全米7位 する。 初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。 同年、アルバム『』発売。 同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン」がヒットする。 かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生した。 1977年のステージ 、SNEAK ATTACK TOURと銘打った初来日ツアーを敢行。 、などを超満員にする 初来日時のツアー・パンフレットには、演奏される曲目があらかじめ印刷されており、も含めて綿密に計算されたパッケージ・ショウであることがわかる。 4月2日の公演ではによるビデオ撮影が行われ、後に「ヤング・ミュージック・ショウ」で放映され、社会的大人気を獲得した。 同年、アルバム『』、『』(1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。 『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録する。 『アライヴ2』からのシングルカットは、フレーリーが歌う「ロケット・ライド」がヒット。 この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。 日本においては後半を代表するバンドとして、と共に「」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめた。 バンドのフロントマンであり「」「ラヴ・ガン」など数々の代表曲を作り歌うポール・スタンレー、火吹きや吐血などの視覚効果で世間の認知度が一番高かったもう一人のフロントマンであるジーン・シモンズ、「ベス」や「ハード・ラック・ウーマン」といった大ヒット曲を歌ったピーター・クリス(black diamondもヒットといえばヒットである。 )、独特のギタープレイと雰囲気で人気を集めたエース・フレーリーの4人とも、自分こそがバンドを成功へ導いたと主張し合っていたという それでもシモンズ&スタンレー、クリス&フレーリーのグループに別れるのが常だった。 特にバンドに意見を反映しにくくなっていったクリスとフレーリーのフラストレーションとエゴは酷く、成功により大金を手にした彼らはしだいに酒やドラッグに溺れていく(結果として、後にふたりはグループを脱退する)。 1979年のライブ 春、2度目の日本ツアーを行うが、楽屋では物を投げ合い、つかみ合いの喧嘩が行われたという。 このときバンドの人間関係は最悪な状態になっていた。 行き詰まったバンド内の人間関係を修復し現状を打破すべく、またソロ活動を望むフレーリーのためにも、各メンバーがそれぞれソロアルバムの制作を発表。 グループは人気絶頂でありながら当分のライブ活動休止を宣言する(既に1978年初頭にはソロアルバムのレコーディングを行っており、来日時にもスタジオを借りてレコーディングしていた)。 スタンレーは後に、「ここでソロアルバムを発表して落ち着かなければキッスは確実に解散していた」と回顧している。 1978年9月、各メンバーのソロアルバムが同時リリース。 フレーリーのソロアルバムに収録された「ニューヨーク・グルーヴ」(の曲のカヴァー)がヒット。 ソロ・アルバムで自信をつけたフレーリーは、さらにグループからの独立を志向し始める。 同年、リミックスを施した初のベストアルバムである、『』発売。 この頃には、単にレコード制作、ライヴに止まらず、NBCによる映画『 ()』の制作、MEGO社から彼らの人形が発売、遊園地「KISS WORLD」の建設構想など次々バンド活動以外の企画が打ち出され、ハードロック・バンドというよりは、次第にファミリー向けキャラクター商品の素材と化していった。 、グループとしては2年ぶりのオリジナルアルバム『』発売。 ソロアルバムの延長のような作品で、スタジオでメンバー全員が顔を合わせることは無かった。 スタンレーがを見出し共作したシングル「」は、2人が当時のマシンミュージック全盛のディスコ・ブームに一石を投じようと意気投合して作ったディスコ調ロックで、同ナンバーは世界中で大ヒットを記録した。 しかし合わせて行われたDYNASTY TOURの観客動員は伸び悩み、やがてキッスは混乱と低迷の時代を迎える。 1977年 バンド再編〜ノーメイク時代 - 第二黄金期(1980年 - 1990年) [ ] 、薬物依存や人間関係・体力的な問題などにより、バンド継続が不可能であると判断したシモンズ・スタンレー・フレーリーの3人とマネージメントは、クリスの解雇を決定。 その直後に、アルバム『』製作開始(同アルバム収録曲「シャンディ」のPVにはクリスは出演)。 なお、このアルバムとDynastyでクリスの代わりにドラムを叩いたのはである。 クリスの脱退は契約上の問題からアルバム発売1週間後に報じられた。 前作同様ポップスへの傾向を強めたアルバム自体の評価も芳しくなく、KISSの人気は急激に下降し、グループは低迷期に突入。 暫くは3人だけで活動していたが、オーディションにより、後任の2代目ドラマーとしてが加入する。 アメリカ本国でのUNMASKED TOURは以前ほどの勢いは見られず失敗。 主要マーケットであるアメリカと日本での人気は完全に下火へ向かっていた。 しかし逆に、オーストラリア、ブラジル、ヨーロッパなどでは大ヒットを記録し、この時のオーストラリア&ニュージーランドツアーは彼らの史上最も華々しいツアーと言われるほど大成功した。 この時期のオーストラリアでの大ブームの影響か、現在でもオーストラリアツアーでは必ず「シャンディ」が演奏されている。 またこの時期、ソロの成功で自信をつけていたフレーリーのリードボーカル曲を増やすなど彼を前面に押し出し、親しかったクリスを失い、ソロ志向の強まる一方だったフレーリーをバンドに繋ぎ止めようとしていた形跡が見られる。 翌、ニュー・アルバムの制作を開始。 当初はこれまでよりもハードなロック・アルバムの予定であったが、制作途中からマネージャーの意向により路線を変更。 シモンズが以前から温めていた構想を基に、グループの歴史上唯一のコンセプトアルバム『』を完成しリリースする。 この作品は、元々『The Elder』というジーン原案の映画のために楽曲を書き下ろしていたが、曲が完成した直後に映画が制作中止となり、曲を無駄にしたくないマネージャーとシモンズが映画の本来のストーリーに沿ったコンセプト・アルバムにしたというもの(他の3人はまったく乗り気では無く、リリースに反対したがシモンズに押し切られる形で発売が決まった)。 内容自体は意欲的なもので、これまでになかった叙事詩風のプログレッシブ・ロックを展開したが、中途半端なイメージの変化で売り上げは歴代最低を記録することになる。 バンド自体も後のインタビューで「あの作品は失敗だった」と語っている。 ストレートなロック志向のフレーリーはバンドに興味を失うようになり、新メンバーのカーもこのアルバムの方向性に疑問を呈したという。 本作に伴うツアーは行われなかった。 この頃、バンド内のパワーバランスは完全にシモンズ・スタンレー組VSフレーリーになっており、フレーリーの意見は取り上げられることが少なくなっていた。 、ハード&ヘヴィへの原点回帰を打ち出したアルバム『』発売。 このアルバムのジャケット写真と収録曲の「勇士の叫び」のPV、同年発売の日本とオーストラリア限定ベスト盤『』にはフレーリーの姿はあるが、バンドに興味が持てなくなった彼はレコーディングには一切関わっていない(飲酒と薬物の影響によるとも)。 フレーリーはジャケット写真の撮影とTV出演の直後に脱退していた(契約の関係でしばらく伏せられていた)。 共作者兼レコーディング・ギタリストとして起用したミュージシャンの一人であるヴィンセント・クサノ(後の)が大半の曲でリードギターを担当しているため、歴代アルバムの中でもヘヴィ・メタル色の強いアルバムとなった。 ヴィンセントの腕はメンバーに認められてはいたが、彼は正式メンバーではなく、あくまでもフレーリーの代役としてツアーに参加。 本作での作詞作曲や演奏では貢献度が高かったヴィニーだが、加入後の彼の態度はこの後シモンズとスタンレーを大いに悩ませることとなる。 アルバム自体は現在では良作とされているが、宣伝効果も虚しく当時の売り上げは非常に低かった。 なお米盤の『暗黒の神話』は1985年に再発されたものから素顔をフィーチャーしたものにジャケットが差し替えられた(ブルース・キューリックが写っているが、無論本作には一切関わっていない。 曲順の変更、リミックスがされている)。 また、この頃からライヴ演奏のテンポが速くなる。 翌、エース・フレーリーの脱退が公式に報じられた。 だがツアー契約があったために急遽ギタリストが必要になり、ヴィニー・ヴィンセントが2代目リードギタリストとして加入。 アメリカ本国や日本での人気が低迷していた中、反対に人気が最絶頂だったブラジルのリオ公演で過去最大の13万人を動員した。 ノーメイク時代『アニマライズ』期(1984) ツアー終了後の、ヴィニー・ヴィンセントが解雇される。 そこで、スタンレーのレコード会社の知人からの紹介で「」を3代目リードギタリストとして急遽加入させ、アルバム『』を完成させる。 アルバムは100万枚の売り上げを記録し、80年代最大のヒットとなった。 しかし、ジョンはAnimalize Tour直前のリハーサル中に難病による関節炎を発症しプレイが困難になったため、代役として後に4代目リードギタリストとなるが起用される。 12月8日には、かつて『』をレコーディングしたデトロイト・コボ・ホールでライヴ撮影を行い、TVやラジオで放送した後、『』というタイトルでライヴビデオをリリース。 このライヴでもブルース・キューリックがプレイしており、ツアーの初日からステージに上がれなかったマーク・セント・ジョンは3公演のみ参加(うち1公演では、スタンレー、キューリック、ジョンのトリプルギター編成で演奏している)。 結局、マーク・セント・ジョンは加入から僅か8カ月で脱退する(前述のライヴビデオの撮影日に、事実上脱退していた)。 、ブルース・キューリックが正式加入し、アルバム『』発売。 そして、はこのメンバーで定着した。 、ハートなどを手掛けたロン・ネヴィソンをプロデュースに迎え、メタル色を若干薄めてシンセサイザーを導入した作品『』発売。 大ヒットしてプラチナム・アルバムを記録、イギリスではチャート4位になったが、プリプロではもう少しハードな音だったらしく、メンバーはあまり音の仕上がりには満足していない。 翌、4月に10年振りとなる来日公演を果たし、5月に日本限定の来日記念ベスト盤『パワー』が発売された。 また11月には、カーのボーカルで録り直した1976年の大ヒット曲「ベス」と新曲を2曲収めたベストアルバム 『』発売。 、原点回帰を目標にしたストレートなロックンロール・アルバム『』発売。 スタンレーがと共作した「Forever」は全米8位を記録する大ヒットバラードとなった(これは「ベス」以来初のTOP10シングル)。 しかしツアー観客動員数は若干減り、盛り返した人気は一段落する。 その一方、カーは心臓血管に悪性腫瘍が見つかり入院してしまう。 カーの死を悼みながらもバンドはその死を乗り越え、カーが入院中、代理ドラマーであった(元やバッドランズのドラマーであり、1989年スタンレーのソロライヴ・ツアーメンバーでもあった)を3代目ドラマーとして正式に迎え入れる。 1991年12月、当時の音楽シーンや善良なカーの命を奪った運命への「逆襲」の意を込めて、元メンバーのヴィニー・ヴィンセントとの共作を含むアルバム『』の制作を開始。 『リヴェンジ』は翌3月に完成し、5月19日にリリース。 アルバムとしては『地獄からの脱出』以来実に13年ぶりに全米ビルボードTop200のトップ10入りを果たした。 、バンドとして安定して演奏レベルの高かったREVENGE TOURのライヴを収録した『』発売。 、KISS MY ASS TOURを行う。 それと同時に、トリビュート・アルバム『』が発表される。 このアルバムには、やなどが参加している。 リユニオン〜オリジナルメンバー再集結(1995年 - 1999年) [ ] オリジナルラインナップ - 左上エース、右上ジーン、左下クリス、右下ポール 1月、シモンズ、スタンレー、キューリック、シンガーによる来日公演が行われた。 ツアー初日の大阪公演は、阪神大震災の一週間後であり、被災者に配慮して炎の使用を控えた他、武道館公演でリハーサルを録音し、ダイヤルQ2による被災地支援チャリティを行った。 この年2月から、KISS Conventionというイベントを行い、ファンと直に触れ合う機会を持ったシモンズとスタンレーは、1970年代以来のファンから「オリジナルメンバーの再結成はないのか」と問われるようになる。 だが二人は以前からそうした話題が起きる都度否定し、またテレビ局から100万ドルのギャラを提示されて、オリジナルメンバーでの出演をオファーされるも即座に断ったりしており、オリジナルメンバーでの再結成はないと思われていた。 しかし、KISS Conventionの小規模なアコースティック・ライヴにピーター・クリスが飛び入りして「ハードラック・ウーマン」を歌い、それがきっかけで8月に行われた「」でエース・フレーリー、ピーター・クリスを含めたラインナップで演奏したことで、ついにオリジナルメンバーでの再結成へと至る(再結成についてはスタンレーが強く希望し、反対するシモンズを説き伏せて実現した)。 11月、に代表されるブームを意識した『』の制作を開始。 しかし再結成の動きが進行中であり、再結成決定によりブルースとシンガーは脱退という事態になり、完成した『カーニヴァル・オブ・ソウルズ』は発売の機を逸してしまうこととなった。 、3月、MTVアンプラグド・ライヴの模様を収めたライヴアルバムとライヴビデオ『』を発売。 オリジナルラインナップ・ライブ(1999年) にはオリジナルメンバーとしては19年振りとなる来日公演も実現した。 クリスのドラミングには全盛期のキレはなく、フレーリーの動きも鈍くなってしまっていたが、オリジナルメンバーが再集結し、メイクを施して行ったツアーは世間に大熱狂と共に受け入れられ、大成功のうちに終了した(しかし、大阪公演ではシモンズが風邪で喉を痛めてしまい、彼のボーカル曲のほぼ全てがセットリストから外されるというハプニングも勃発した)。 1980 - 1990年代のステージでは、テンポを上げてスピーディな演奏を繰り広げていたが、この再結成以降は演奏のテンポをオリジナルのものに戻している。 1997年10月28日、当時出回っていた対策として、お蔵入りとなっていた『カーニヴァル・オブ・ソウルズ』がリリースされる。 しかし、内容はどの楽曲もポール及びジーンの歌声がなければKISSと判別出来ないほど、徹頭徹尾グランジに阿った代物で、オリジナルメンバーが大盛況のツアーを行っている状況でこのアルバムが売れる要素はなく、注目されることは無かった。 無論ツアーでは2020年現在、本作から1曲たりとも一度も演奏されたことはなく、ほぼ本作は存在しなかったことになっている。 コロンバス公演のリハーサル中、クリスがたびたび訴えていた腕の不調が最悪の状態になり、ドクターストップを宣告される。 この日のライヴは、エディー・キャノンというドラマーが一夜限りの代役(CATMANのメイクも施した)を務めた。 オリジナルメンバーでのアルバム発売が望まれる中、9月22日に『』発売。 全米初登場3位にランクインした。 そして、同アルバム名を掲げたPSYCHO CIRCUS TOURは無事成功を収めた(しかしスタンレーによるとオリジナルメンバーでのレコーディングは大変に困難な状況であり、その精神的苦痛から2009年になるまでKISSとして新作を作ることはなかった)。 オリジナル・ラインナップ崩壊(2000年 - 2004年) [ ] 21世紀突入直前の、キッスは解散を宣言。 解散ツアー・THE FAREWELL TOUR 2000-2001を開始したが、ツアーが中盤に差し掛かった10月にクリスが再び脱退、やむなくツアーは中断となった。 そんなある日、スタンレーが車を車検に出した時に従業員が「30周年ツアーはするのか?」と聞いてきたことがきっかけとなり、グループは解散宣言を撤回、永久活動を宣言する。 そして脱退したクリスの後任には元メンバーのエリック・シンガーがCATMANメイクで復帰した。 3月、シモンズ、スタンレー、フレーリー、シンガーというメンバーでTHE FAREWELL TOUR来日公演を行う。 11月、貴重なデモやライヴ音源を含めた500セット限定の豪華ボックスセット『』発売。 ウィキッド・レスター時代の曲やお蔵入りデモ、キッス名義での初ライブ(未発表曲である「アクロバット」のみの収録)、その他デモやアルバム未収録曲が多数収録されており、マニア感涙のコレクターズアイテムとなった。 同時に廉価版である「地獄のシガー・ボックス」も5,000セット限定で発売。 、ソルトレイクシティ・オリンピックの閉会式にて、「」を演奏。 このステージを最後に、契約の切れたフレーリーが再び脱退する。 フレーリーはソロ活動に集中するため再契約に応じなかった。 元の(1989年頃から、KISSの裏方や共作者・ツアーマネージャーとして行動を共にし、アルバム『ホット・イン・ザ・シェイド』の制作と『サイコ・サーカス』のレコーディングにも参加)がフレーリーの代役を務め、そのまま5代目リードギタリストに抜擢された。 セイヤーはキッスのトリビュートバンドCOLD GINにいた経験もあり、オリジナルメンバー再結成の際には、自らの初期のギターフレーズを忘れていたフレーリーにフレーズのレクチャーをしたり、ツアー中もフレーリーが不調の時にギターを弾けなくなったらすぐに代役が務められるよう、メイク姿で舞台袖で待機していたという。 同時期にピーター・クリスが再び復帰し、エリック・シンガーは2度目の脱退をすることになる。 、世界ツアー・WORLD DOMINATION TOURを行う。 ツアーの前半はRCKSIMUS MAXIMS TOURというツアー名でと対バンという豪華なものであった。 2月のメルボルン公演ではクラシック・オーケストラと共演し、キッス・シンフォニーと銘打って生のシンフォニック・ハードロック・ライヴを見せた。 この模様は『』というタイトルでCDとDVDに収められる。 3月にはシモンズ、スタンレー、クリス、セイヤーというラインナップで来日公演を行った。 日本ではALIVE IN JAPAN 2003と銘打たれていた。 この年の10月16日には、ロサンゼルスのクラブで発砲事件が発生。 偶然居合わせた元メンバーのブルース・キューリックが脚を撃たれ、頭部にも掠り傷を負ってしまう。 幸いにも命に別状はなかった。 翌、ピーター・クリスが3度目の脱退。 世界ツアー・ROCK THE NATION TOURを行い、公演と公演を収録したライヴDVD『地獄の狂宴 〜ロック・ザ・ネイション・ライヴ! 』発売。 このツアーでは「彼女」や「すべての愛を」(どちらも『地獄への接吻』収録曲)など、演奏されなくなって久しい曲を久しぶりにステージで披露した。 メルボルン公演では前年同様キッス・シンフォニーを披露、この公演ではメイク復活後にセットリストから外された「」と、これまで一度も演奏していない「」を披露した。 、の博物館前で、ファン200人によるキッスのロック殿堂入りを要求するデモが行われた。 十分な資格と功績のあるキッスが殿堂に招かれなかったことに対し、ボードを掲げて30分の抗議活動を行った(殿堂博物館によれば、こうしたデモは初めてのことだという)。 なお、キッスは何度もノミネートされているにもかかわらず、(2013年に殿堂入り)などと共にロックの殿堂入りを果たしていないことを最も疑問視されていたアーティストの1つであり、ニュースサイト・「」では「ロックの殿堂入りしていない偉大なバンドTop10」で第2位に選ばれていた が、2014年に殿堂入りした。 同年7月23日、日本独占ツアー・RISING SUN TOUR最終公演の2日間に、ウドー・ミュージック・フェスティバルに出演。 しかし、ツアー最終日である公演での集客数は、これまでの来日公演を大きく下回ることになる。 この模様は、で放送された。 翌年に掛けて、1973年から2000年までの貴重なライヴ映像を収めたKISSOLOGYシリーズを3巻に分けてリリース(後に日本版も発売された)。 、5公演のみのアメリカツアー・HIT 'N TUN TOURを行う。 その最終公演であるカリフォルニア公演当日のリハーサル中に、スタンレーの心拍数が突如190を超え(通常の2〜3倍)、急遽病院に搬送される。 シモンズが観客に説明し、「キャンセルしてやり直すか、このまま続けるか」尋ねた結果、この日のライヴは代役も立てずキャンセルもせず、スタンレーを除く3人で決行することとなった。 演奏曲はシモンズとシンガーで歌える曲をチョイスしたが、ステージに観客も上げるなど破天荒なライブだった模様。 スタンレーは「この借りはいつか必ず返すよ」とコメントを残した(スタンレー不在のライヴはキッスの歴史上初であり、最大のハプニングライヴとなった)。 同年4月5日、元メンバーの(マーク・ノートン)が脳出血で他界(51歳没)。 オーストラリアツアーではKISSTERIAというドキュメンタリー風ドラマを撮影した。 同年8月、現在のメンバー、シモンズ、スタンレー、シンガー、セイヤーによって新たに録音されたベスト盤『』が日本限定発売。 初期のKISSコンセプトのように、メンバー全員がそれぞれリード・ボーカルをとる曲が含まれ、またスタンレーとシモンズの共作も復活した。 しかし日本ではレコード会社との契約がなされておらず、『ソニック・ブーム』の日本盤は未だ発売されていない。 、SONIC BOOM OVER EUROPE TOURとTHE HOTTEST SHOW ON EARTH TOURでヨーロッパとアメリカを精力的にツアー。 、4月新たなスタジオ・アルバム製作に取り掛かる。 同年10月、初の試みであるKISSクルーズをマイアミで開催。 貸切の豪華客船上でアコースティックショーを含む3回のライヴを行った。 船上ではハロウィーンパーティやファン同志の交流も行われ、メンバーも参加したファンも満足するものとなり、すぐに翌年の開催が決定され、以降は恒例行事となった。 THE TOUR(2012年) 、3月にとのダブルヘッドライナーツアーTHE TOURを発表。 7月2日、新たなスタジオ・アルバム『』からの第一弾シングル『ヘル オア ハレルヤ』発表。 7月20日-10月1日、THE TOURでと共に北米と南米でツアーを行った。 10月10日(北米での発売は9日)、3年ぶり20作目のスタジオ・アルバム『モンスター 〜地獄の獣神』発売。 全米ビルボードTop200で初登場3位を記録する。 アルバム製作自体はもっと早く終わっていたが、レコード会社との契約に時間がかかったため、発売が遅くなった。 しかし、それにより日本盤も無事発売となった。 10月、前年11月から続くMONSTER WORLD TOURの終わりに、7年ぶりとなる来日公演を行なった。 ファンイベントを行ったり、ファッションショーやTVの音楽番組に生出演したりと今までとは違う行動が多数見られたが、ライヴでは全ての会場でスパイダーセットと共にバンドの底力を見せつけた。 10月24日の武道館公演はWOWOWの生中継で放送され、同時に全国のイオンシネマ30劇場で同時上映、収益金は東日本大震災の被災地支援団体に寄付された。 4月、『』入りを果たす。 式典にはオリジナルメンバーが一堂に会したものの、殿堂側との問題により演奏は行われなかった。 プレゼンターはのが務めた。 、とのコラボレーションを行い、ももいろクローバーZ vs KISS名義でシングル「」をリリース。 2015年3月3日には、来日公演でももいろクローバーZがゲスト出演。 オレゴン州軍楽隊とコラボ(2016年7月) 、のアリーナ級ライブで、同州軍警備隊のとコラボして話題となる。 また、翌年に同地域のチャリティー・イベントで、久しぶりとなるノーメイクでのパフォーマンスを見せた。 バンドの終焉(2018年 - 現在) [ ] 、来年度からのワールドツアーをもっての活動休止を発表。 7月の地元ニューヨーク公演が最後になると伝える。 、ファイナルツアー「END OF THE ROAD WORLD TOUR」を開始。 年末の来日ツアーおよび の客演が 、日本で最後のパフォーマンスとなる予定。 ペルソナ キャラクター [ ] 各メンバーがメイクした姿はペルソナと呼ばれ、それぞれ名前とキャラクターが与えられている(メイクメンバーのみ)。 獣の咆哮をあげ、空を飛び、炎を吐く。 他人の心を読むことができ、星の右眼から光線を発する。 瞬間移動能力を持ち、両手から光線を発する。 エースのみSPACE ACEと表記されることもある。 両腕の鋭い爪が武器。 1998年にファンタジーコミック化した際は、敵として登場。 パンダやタヌキと誤認されるケースが多い。 魔術師であるのかもしれないとも考えられていた。 上記の設定は1977年からのもので、それ以前、ジーンのキャラクターはTHE DRAGON、ポールのキャラクターはTHE LOVERと呼ばれていた。 その他、ポールはごく初期の短期間だけカサブランカ社長ニール・ボガートの要請により、バンディット(山賊)メイク(「」に出てくるマスクに似ているためそう呼ばれる)をしていた時期があるが、当人が気に入らず、すぐ右目星型メイクに戻した。 メイクアップ・デザイン• The Wizard - マーチャンダイズ [ ] 本業の音楽以外に早くから版権ビジネスに目をつけ、(商品化)で成功した音楽グループの先駆けでもある。 バンドの世界観やメンバー4人をキャラクター化したものを、グッズ販売やで展開し大きな収益を得ている。 これまでのグッズは通算で5000点以上あり(2016年時点)ライセンス事業も手掛け、興行収入は往年のやを上回るとされている。 グループのマーケティングに関しては、主にが決定権を持つ。 ジーンはインタビューで「女性ウケするアイドル的スタイルだと一過性で終わるが、男性が憧れる存在で成功すれば彼らは最後まで付いて来てくれる。 だからアメリカン・ヒーローのようなペルソナメイクのキャラクターを作った。 そこから商標化のアイデアが生まれた」、また「ファンが求めている、クールであるかの見極めも重要だ。 世界的に成功していないグループでも、が売れた例は数多くある。 だからたとえ有名ブランドでも、必ずしも商標ビジネスには直結しない」と明かしている。 商品化した一例• 1974年頃の販促ポスター デビュー当時からメンバー全員が顔面白塗りの奇抜なメイクをしていることで有名だった。 当初のバンドのコンセプトは「アメリカ版」であり、楽器の編成も同じで、メンバー各々(ヴィニー・ヴィンセント、マーク・セント・ジョンは除く)にリードボーカル曲がある。 ただし、ヴィニーはデモ段階の一部の楽曲ではリードボーカルを取っていた。 日本においてはアルバムの邦題が「地獄」シリーズであることでも有名。 セカンドアルバム『』に最初から「地獄のさけび」という日本語のタイトルが付けられていたことがきっかけとなり、後に初期の3作が日本でまとめて発売された際に、「地獄」とは何の関連もない原題のアルバムにまで「地獄の…」という邦題が付けられることとなった。 ことステージにおけるジーン・シモンズの過激なパフォーマンス(口から火を噴く、血を吐く、あるいはワイヤーアクションによって宙を舞う)の鮮烈さも相俟って、ややもすると的を射た意訳であると解釈される場合もあるが、しかしシモンズが上述の自伝の中で述べている限りではステージで行われる数々のパフォーマンスはあくまでも「ショウにおけるアトラクション」という位置づけにあり、KISSというバンドのコンセプトと地獄に直接の関係はないとされる。 1970年代の日本の雑誌のインタビューでは、バンドのメイクに歌舞伎の影響があったと書かれていたことがあったが、ジーンの自伝『Kiss And Make-Up』においてメイクが歌舞伎から発想を得ていることを否定しており、ポールも後の度重なるインタビューで否定している。 ジーンの怪獣型ブーツ なお、セカンドアルバム『』のジャケットに日本語が多数使われているのは、撮影を担当したノーマン・シーフのアドバイスによるもの。 ノーマンは当時日本で横尾忠則と知り合い、その影響をこのジャケットに反映させた。 ジーンは恐怖映画やのファンであり、有名な怪獣型ブーツはがモデルである。 現在のメディアでは、「80年代は低迷期だった」という扱いをされているが、売り上げが低かった作品は、1980年『』、1981年『』、1982年『』の1980年代初期の3作品に留まっており、北米以外の海外ツアーでは相変わらずの大人気を博していたため、データ上を見る限りでは一概に「低迷期」とは言えない。 1983年素顔で発表した『』、1984年『』、1987年『』ではプラチナムをとっており、素顔でも常に第一線で活動し続けていた(RIAAの記録は更新されていないが、1985年『』も売り上げ上ではプラチナムだとされる)。 ポール・スタンレーは素顔について、「飽きられてきていたし、音楽そのもので勝負する時期にきていた。 素顔になる心構えはできていて、後はジーンの気持ち次第だった」と後年に明かしている。 代表曲「デトロイト・ロック・シティ」に象徴されるように特にで絶大な人気を持っていたが、バンド自体はで結成されており、デトロイト出身ではない。 同じく代表曲「勇士の叫び」の最初のメロディは日本でも馴染みが深く、のサポーターによるチャント「ウォリアー」の原曲となっている。 またなどに参戦した、の入場テーマ曲でもある。 彼らの影響力が強いころに見つけたバンドとしてがある。 ジーンが出資してデモ・テープを作らせ、各レコード会社に送付したが、どのレコード会社も興味を示さなかった逸話がある。 ジーンは、同バンドのベーシストであるマイケル・アンソニーと顔が似ているとされ、同一人物に思われていた時期があった。 のカメラ「」の2005年 - 2006年のCMで、西洋人の子供4人(男の子2人・女の子2人)が顔にKISSのペイントをして、歌詞こそ違えど「」を歌うというものが放送されていた。 にて連載されていたにはKISSのパロディキャラクター(通称「四天王」)が登場していた。 87位 US• 100位 ゴールド US• 32位 ゴールド US• 11位 3X US• 11位 2Xプラチナム US• 4位 4Xプラチナム US• 9位 プラチナム US• 35位 ゴールド US• 75位 US• 45位 ゴールド US• 24位 プラチナム US• 19位 プラチナム US• 20位 ゴールド US• 18位 プラチナム US• 29位 ゴールド US• 6位 ゴールド US• 27位 US• 3位 ゴールド US• (ベスト曲 再レコード盤)• ライブアルバム [ ]• 9位 4Xプラチナム US• 7位 2Xプラチナム US• 9位 ゴールド US• 15位 ゴールド US• 17位 ゴールド US• 18位 ゴールド US ベストアルバム [ ]• 22位 プラチナム US• 1988年 21位 2Xプラチナム US• 1997年• 2001年 同時に廉価版として『地獄のシガー・ボックス』も発売• 2002年• 2005年• 2014年 日本公演 [ ]• 3月24日・25日 26日 28日 30日 4月1日・2日(昼夜2回)・4日• 3月28日・29日・31日・4月1日・2日 日本武道館• 4月16日 18日 20日 21日・22日 日本武道館 24日 第一体育館• 1月24日 大阪城ホール 26日 28日 1月30日・31日 日本武道館• 1月18日 20日 (名古屋レインボーホール) 21日・22日 大阪城ホール 24日 25日• 3月9日・10日 13日 東京ドーム 16日 福岡国際センター 18日 名古屋市総合体育館(名古屋レインボーホール) 21日・22日 大阪城ホール• Rising Sun Tour 2006 7月18日 名古屋市総合体育館(名古屋レインボーホール) 7月20日 福岡国際センター Udo Music Festival 7月22日 泉大津フェニックス 23日• KISS Returning To Japan 2011(チケット発売までされたが中止となり実際は行われなかった) 4月10日 愛知県体育館 4月14日 パシフィコ横浜、 4月17日 さいたまスーパーアリーナ、 4月18日 神戸ワールドホール、 4月20日・21日 日本武道館、 4月23日 札幌真駒内アイスアリーナ (2011年公演は、アーティスト側都合により中止された旨が、主催者ウドー音楽事務所により発表された。 同年3月11日のが起こる以前の中止発表であり、中止は震災の影響によるものではない)• KISS Monster Japan Tour 2013 10月19日 国際展示場9-11ホール、 10月21日 10月23日・24日• 2月23日 (日本ガイシホール) 2月25日 2月26日 2月28日 (セキスイハイムスーパーアリーナ) 3月3日 東京ドーム(がゲスト出演。 「夢の浮世に咲いてみな」と「ロックンロール・オールナイト」でコラボレーション)• KISS End Of The Road World Tour 12月8日 12月11日 12月14日 (盛岡タカヤアリーナ) 12月17日 (京セラドーム大阪) 12月19日 (ドルフィンズアリーナ) 12月31日 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2020年6月28日閲覧。 - amass• - BARKS• - BARKS• - BARKS• - BARKS• BARKS 2017年2月21日. 2017年12月1日閲覧。 BARKS 2017年11月13日. 2017年12月1日閲覧。 ローリングストーン 2018年9月30日. 2019年12月16日閲覧。 ローリングストーン 2019年12月8日. 2019年12月16日閲覧。 rockin'on. com 2019年12月13日. 2019年12月16日閲覧。 ORICON NEWS 2019年12月15日. 2019年12月16日閲覧。 BARKS 2012年11月4日. 2020年2月12日閲覧。 日経ビジネス 2016年6月16日. 2020年2月12日閲覧。 日経ビジネス 2016年6月16日. 2020年2月12日閲覧。 - BARKS 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (英語)• KISS -• - チャンネル• (日本語) - 公式ウェブサイト• (日本語) - KISS ARMY JAPAN 公式ファンクラブサイト.

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