ヨハネ パウロ 1 世。 フランシスコ (ローマ教皇)

世界を変えた教皇 ヨハネ=パウロ2世の行ったこと

ヨハネ パウロ 1 世

ヨハネ・パウロ二世 のちに空飛ぶ聖座と呼ばれ、 死後聖人となる彼の教皇としての始まりのときであった。 戦後はその地理的位置からソ連の影響下にはいり、 同国の力を背景にした共産政権が支配する国家となった。 しかし、行き過ぎた共産主義支配は限界を迎えつつあり、 国内では自由・自立を求める運動が始まろうとしていた。 1979年6月、メキシコ、ドミニカ共和国への訪問を終えた 彼が向かったのはポーランドであった。 ポーランドでのヨハネ・パウロ二世 彼は故国でポーランド国民の一致団結、 ソ連に従属するポーランドの状況への間接的批判、 カトリック教会の自由を発信する。 そんな体験を経て、1980年、 ポーランドに労働者たちの自主管理組織「連帯」が誕生した。 背景にあるのはカトリック教徒としての団結だ。 そして、教皇はそれを政治的、精神的な面から公に支援する。 「連帯」はそれを力とし、なんとポーランド政府に正式に受けるに至ったのだ。 共産党から独立した労働組合の誕生は ポーランドの共産主義を動揺させるには充分であった。 これが後の東西の壁の崩壊、ゴルバチョフ政権誕生の遠因となっていく。 空飛ぶ聖座 1979年には教皇は アイルランド、アメリカ、トルコを歴訪、 翌年にはザイール、コンゴ、ケニア、ガーナ、フランス、ブラジル、ドイツに足を運んだ。 皇居で昭和天皇と会見。 広島・長崎をも訪問。 全世界に日本語を含む9カ国語を駆使し、核兵器廃絶と平和を訴えた。 彼は教皇即位から死去までに述べ100回以上の海外訪問を行なった。 史上まれに見るその行動力から、 いつしか「空飛ぶ聖座」とよばれるようになったのだ。 プロテスタント諸派や正教会との和解を模索し、 ローマ市内のシナゴーグを教皇として初めて訪れ、 イスラエルを承認するなどユダヤ教とも和解を図った。 2000年3月12日にはカトリック教会による過去のユダヤ人迫害、 イスラム教徒に対する十字軍や異端審問、 アフリカ・アメリカ大陸先住民への迫害を正式に謝罪するミサを行なった。 教会としての謝罪は史上初である。 2001年には教皇として初の正教会の根拠地であるギリシア訪問、 そしてシリアのダマスカスにおいてこれまた教皇として初のモスク訪問をなし遂げている。 聖人ヨハネ・パウロ2世 そんな教皇もさすがに衰えを隠せなくなってきた。 2004年8月のフランス訪問が最後の外遊となった。 最期の言葉はポーランド語で 「父なる神の家に行かせてほしい」であったと伝わる。 後継のベネディクト16世は先代の功績と人気を鑑み、 異例の早さで「福者」認定のための調査を開始する。 そして、2011年1月、「福者」として認定、 更に次の教皇フランシスコが2013年7月に「聖人」として認定するに至った。 コインについて NGC マルタ 教皇ヨハネ・パウロ二世 2005年 10万リラ 金貨 ウルトラカメオ PF69 今回ご紹介するコインは マルタ騎士団が2005年に発行した10万リラ金貨である。 マルタ騎士団は正式には 「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」といい、 領土は持たないものの「実権主体」として多数の国に承認され、 外交関係を築いている組織だ。 所在地はイタリアのローマにある。 残念ながら日本は未承認で、外交関係は無い。 マルタ騎士団は それ単体で物語の主人公として充分に活躍できる歴史を持つので、 ここでは簡単に紹介するに留めよう。 この騎士団はもともと イスラム勢力が支配するイェルサレムで キリスト教徒の巡礼者のために宿泊所兼病院を経営していた組織であるが、 第一回十字軍の成功を切っ掛けに軍事色を強め、 騎士団として時の教皇から正式に認可された。 最終的にマルタはナポレオン軍に奪われるが、組織は存続し、 現在の場所に本拠を構えることになった。 今は軍事色は無く、設立当初の目的である医療福祉を活動の中心としている。 コインの片面はそんな歴史をもつマルタ騎士団の紋章である。 マルタ十字と呼ばれる8つの角をもつ十字が特徴的だ。 もう片面ではヨハネ・パウロ2世が片手をあげて祝福しており、 その下には騎士団の隊列が描かれている。 右上の文字はROMA・AETERNA、ラテン語で永遠のローマという意味だ。 かつてともにイスラムを敵として戦いを起こした教皇とマルタ騎士団という存在だが、 ヨハネ・パウロ2世はイスラムとの和解と対話を進め、 マルタ騎士団も現在は医療福祉団体だ。 そう考えるとこのコインの持つ意味が見えてくるようで味わい深い。 はで公開された投稿です。

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今日は雨☂️ アジサイが首を垂れています。 ダンスパーティの中でヨハネパウロ2世が宝塚のトップスターのように咲いていますよ。

ヨハネ パウロ 1 世

フランシスコ 第266代ローマ教皇 フランシスコ() 教皇就任 2013年3月13日 先代 司祭叙階 1969年12月13日 司教叙階 1992年6月27日() その他 2001年: 個人情報 本名 ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ Jorge Mario Bergoglio 出生 1936-12-17 (83歳) 、 原国籍 宗派 () 居住地 母校 署名 称号: 教皇 敬称 (: Sua Sanctitas) (: His Holiness) ローマ司教(: Episcopus Romanus) キリストの代理人(: Vicarius Christi) 使徒のかしら(頭)の継承者(: Successor principis apostolorum) 全世界のカトリック教会の統治者(: Caput Universalis Ecclesiae) イタリア半島の(: Primas Italiae) ローマ(: Archiepiscopus et metropolitanus provinciae ecclesiasticae Romanae) バチカン市国の首長(: Princeps sui iuris Civitatis Vaticanae) 神のしもべ(僕)のしもべ(: Servus Servorum Dei) フランシスコ(: Franciscus、: Francesco、: Francisco、: Francis、 - )は、第266代ローマ(在位: - )。 就任 はであり、この日ににおいて就任ミサを執り行った。 呼称 [ ] 新教皇の選出にあたり、日本のは声明を発し、自身は「フランチェスコ」とイタリア語で発音したが、「日本では英語の発音で『アッシジの聖フランシスコ』との呼び名が定着している」ので、混乱を避けるために「報道機関も英語読み で統一してほしい」と要請した。 そのとき、併せてとの混同を避けるために「日本の教会は1世を付けて呼んでいく」と付言したが 、その後教皇庁大使館より日本カトリック中央協議会に通知があり、新教皇名には「1世」を付けないことになり、新教皇名を「教皇 フランシスコ」として各小教区・信徒・司祭・修道者に周知するよう指示がなされた。 なお、本項目ではローマ教皇着座前の言動に関しては「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」、着座後の言動に関しては「フランシスコ」と呼称を区別する。 経歴 [ ] 生い立ち [ ] ラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)の生徒であった(1948年あるいは1949年)12歳のころのベルゴリオ(画面上から3列目の左から4人目の少年)。 ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ( Jorge Mario Bergoglio) は、にの首都特別区区で、の子として生まれた。 父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、の出身の鉄道職員であり、母のレジーナ・マリア・シヴォリもまたイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である。 夫婦は中流の労働者階層で5子をもうけたが、ホルヘ・マリオは幼少期に感染症により右肺の一部を摘出している。 マリオ・ホセはホルヘ・マリオが小学校を卒業すると「教育上の配慮から」会計士事務所に働きに出された。 が経営するラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)を経て 、でを学び号を取得した。 イエズス会入会 [ ] ベルゴリオは3月11日にに入会し、ブエノスアイレス特別区区ので司祭になるための勉強を始め、チリで教養課程終了後、市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。 その後からにかけて、の無原罪 インマクラーダ 学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた。 、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のに進学。 12月13日には ()によってにされた。 には修士号を取得。 から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した。 その指導力を高く評価されたベルゴリオは、7月31日にアルゼンチン ()に任ぜられ、までの6年間この職を務めた。 からの間にはサン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務める。 3月には博士号取得の為、のにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院 ()に在籍。 同僚の話によると、この時期ベルゴリオはドイツの神学者 ()に興味を示していたという。 その後アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、で ()・ ()を務める。 結び目を解くマリア また、この時期ドイツのにある聖ペトロ・ペルラッハ教会で『』の絵に出会い、複製をつくる許可を得て、この画像の絵葉書をアルゼンチンに持ち帰っている。 これはアルゼンチンのにとってマリアへの重要な捧げものとなった。 リオデジャネイロの宗教学研究所の「レジーナ・ノヴァエス」によれば、こうしてもたらされた『結び目を解くマリア』は「悩みをかかえる人々を惹きつけた」という。 にに贈呈した()にも『結び目を解くマリア』の姿を描かせている。 宣教活動視察のため、に来日している。 司教時代 [ ] ベルゴリオは5月20日に、 によりブエノスアイレスのおよびアウカの名義司教 に任命され、同年6月27日に ()枢機卿()の司式によってに叙階された。 6月3日にブエノスアイレス協働大司教に任命され、翌2月28日、クアラチノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教となった。 また同年11月6日より、アルゼンチン居住の ()をもたない信者の裁治権者を兼任した。 枢機卿時代 [ ] 枢機卿としてミサにて。 2008年 右は。 2月21日にはによってベルゴリオ大司教は ()のに任命された。 枢機卿として、の以下の5つの管理職的な地位に就いた。 ()委員• ()委員• ()委員• ()委員 9月11日に ()である ()枢機卿がののち急遽帰国した秋に、ベルゴリオは教会会議で、書記として彼の代理を務めた。 『カトリック・ヘラルド』によると、「交わりと対話に開放的な人物として好ましい印象を醸し出した」という。 宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのの使用を拒否して公共交通を利用していたベルゴリオ枢機卿は 、個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになった。 ベルゴリオ枢機卿は、にヨハネ・パウロ2世が死去した直後のの間には、とローマ・カトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人になり、新教皇を選出するに選挙枢機卿の一人として参加した。 カトリック系のジャーナリストの ()によれば、ベルゴリオはのにおいて、新教皇の有力候補の一人であったという。 9月、少数の枢機卿による非公式の日誌が公表され 、そこでは、ベルゴリオ枢機卿が、新教皇の最有力候補であったラッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取り沙汰されていた。 件の日誌では、3回目の投票でベルゴリオは40票を獲得し、4回目にして最後の投票で26票と数を落としたと主張されている。 イタリアの有力紙『ラ・スタンパ』は、選挙の間、ラッツィンガー枢機卿に対してベルゴリオ枢機卿が譲歩の姿勢に終始していたとし、ベルゴリオ枢機卿が枢機卿団に対して自分に投票しないようにと感情的な請願を出すにまで至ったと報じている。 結局、このでは、ベルゴリオの得票数はラッツィンガー枢機卿の次席となり 、勝者となったラッツィンガー枢機卿は教皇としてまで在位した。 の司教ので、次回教会会議のメンバーに選ばれた。 また、同年11月8日に、ベルゴリオはアルゼンチンの司教の多数によってアルゼンチン司教会議の議長(任期3年)に選出され、さらにの11月11日には、議長に再選された。 枢機卿選出後のアルゼンチン国内での意見は分かれていた。 ベルゴリオを支持する者はその禁欲的な生活を尊敬するが、に関する彼の意見に拒絶反応を示したり、1970年代の軍事独裁政権に対する批判を不十分として遺憾とする者もいた。 未婚の母やエイズ患者に手をさしのべて社会正義を実現しようとする革新的施策を打ち出す一方で、妊娠中絶や避妊に反対する保守的な立場をとる新教皇について、アルゼンチンの歴史家エルサ・ブルソネは「保守と改革の両面性を持つ」と分析している。 教皇選出 [ ] 教皇フランシスコの紋章。 青のフィールドに金()と赤()(の文字と十字架)と黒()(3本の釘)での太陽の紋章。 それにそれぞれ金と黒の描線で描かれたマリアの象徴としての星とヨセフの象徴としての ()(ナルド)の果実を配している。 前のベネディクト16世と同様にはの代わりにを戴いている。 は赤の組みひもがある金と銀のである。 以来が復活した。 表地が銀()、裏地は赤のリボンに黒で"MISERANDO ATQUE ELIGENDO"のモットーが書かれている。 したことを受け、その後継を選ぶために同年3月12日より実施されたにおいて、翌、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇に選出された。 コンクラーヴェ開始前、ベルゴリオはすでに76歳と高齢であり、マスコミからは新教皇の有力候補とは見做されていなかった。 そのため、新教皇としてベルゴリオの名前が発表された時には、各国のマスコミは大きな驚きをもって彼の名前を報道した。 彼はマスコミの事前予想を完全に覆し、新教皇の選出に必要とされる枢機卿全体の3分の2を大きく上回る90票以上の得票をもって選出されたという。 聖書時代には蔑まれていた徴税人という職業に就いていたマタイに関し、聖ベーダは次のように解説している。 「イエスは徴税人(マタイ)を見つめて『憐れみ、そして選ばれ』、わたしについて来なさいと言った」。 つまり、イエスは慈しまれ(miserando)、そしてマタイを選んだ(eligendo)わけだが、このマタイのに関して、それは「因習的な感覚から離れた、慈悲に基づく人間への深い理解からだった」と新教皇は説明している。 マタイの召命にまつわる紋章銘が選ばれたのは、の聖マタイの祝日に、17歳の青年ベルゴリオが修道生活への召命を受ける特別な体験が深く関係しているという。 フランシスコは史上初の出身のローマ教皇であり、史上初のイエズス会出身の教皇である。 長らく日本で教鞭を執っていて、就任当時はイエズス会総長を務めていたは「我々がいま知ることになった教皇の『フランシスコ』という名前は、貧しい人々への近さという福音的精神、素朴な人々との一体感、そして教会刷新への献身を想起させるものである」とし、その「質素、謙虚さ、豊富な司牧経験と霊的深さ」を称賛して 、イエズス会初の教皇選出を歓迎した。 なおイエズス会ということで出身者が教皇に就いたわけだが、これは以来167年ぶりであった。 さらに以外の地域の出身者がローマ教皇に就くのは、出身の第90代の(在位: - )の死去以来、1272年ぶりである。 また初めて「」を名乗るローマ教皇でもある。 であるベルゴリオ枢機卿 が新教皇に選ばれたのは、「新教皇はヨーロッパ以外の出身者を」という時代の要請と「新教皇は以来35年ぶりにから」というバチカンのおひざ元の願望の折衷案ではないかとする指摘がある。 この選挙結果に関しては、カトリック教会の国際化の表れであり大きな変化だと捉える意見と、アルゼンチンは南米で最もヨーロッパ的な国でありフランシスコはヨーロッパの伝統を継承した白人であるので、ベルゴリオが教皇に就任しても、ヨーロッパ人の伝統的な宗教としてのカトリック教会の性格に変化はないととらえる二つの対極的な意見がある。 ローマと世界に向けて [ ] 2013年3月のコンクラーヴェの後、サンピエトロ寺院のバルコニーに教皇として初めて公に姿を現したフランシスコ。 先2代の教皇のように臙脂のケープを着用していない。 金の刺繍のも着用していないが、向かって右奥に控える儀典長 ()が所持しており、このあとの祝福のときだけ着用している。 またベルゴリオは、教皇の辞任という600年ぶりの異例の中で開催されたコンクラーヴェで選出された教皇である。 このような「異例ずくめ」は、教皇選出後に信徒に向かっての第一声「」(ローマの聴衆と全世界に向けて授ける祝福)にも表れた。 まず彼は人々の前に純白のケープ付きとのみ、すなわち「普段着」のまま現れたのである。 「兄弟姉妹の方々、こんばんは。 …ご存じのようにコンクラーヴェの義務はローマに司教を与えることですが、兄弟である枢機卿団は、ローマの司教を得るために世界の果てまで行ってきたようです」「何よりもまず、名誉教皇ベネディクト16世に主の祝福と聖母のご加護がもたらされるように祈りましょう」 と、彼は、自分がヨーロッパ以外の出身であることに言及し、さらに辞任した前教皇への気遣いを示した。 「私たちはこのローマ教会の旅路を、兄弟愛と愛と信頼とによって、司教と信徒とが一緒になって歩み始めます。 大いなる兄弟愛を以って世界中で共に祈り合いましょう。 この道は必ずや新しい福音宣教の実を結びます」と司教と信徒との協働を宣言した。 さらに「 いまここに、私は皆さまに祝福を与えたいと思います。 ですがその前に、皆さまにお願いがあります。 新しいローマ司教たる私が人々を祝福する前に、主が私を祝福してくださるように皆さまに祈ってほしいのです。 これは新しいローマ司教の祝福を求める人々の祈りであります」と信徒に祈りを求めることで「信徒に支えられる司教」という自分の立場を明らかにした。 これに応じたサンピエトロ広場の信徒らとともに頭を垂れ、沈黙の祈りのうちに主からの祝福を受けた。 ここでストラをつけて、「それでは、(信徒の)皆さまと全世界の善男善女(の皆様)に祝福を与えます」 と最初の祝福を与えた。 祝福のあとで再びマイクを求め、「明日は私はマリアのお祈りに行きます。 皆さまはお体を気を付つけて。 おやすみなさい」と締めくくった。 への帰路では枢機卿団のマイクロバスに同乗し、車内では「あなたがたの為した行い(自分の選出)を神がお赦しになるように」と枢機卿団に語りかけた。 翌3月14日に「教皇フランシスコ」がしたことは前日の宣言通りへの巡礼であった。 その帰路、コンクラーヴェ前の宿泊に使用していたホテルに立ち寄って荷物を引き取ったが、その際に代金の支払いを自腹でしている(立て替え払いが慣例であるが、聞き入れなかったという)。 また、午前中にイエズス会本部に直接電話をかけ総長に教皇選出のお祝いの手紙の返礼をした。 メディアに対しての初の会見では、「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」と語った。 3月17日、選出後初めての日曜日、バチカン市国内の ()の説教において、「姦通の女」()の個所を引用し、「イエスは蔑みの言葉も、断罪の言葉も言いません。 わたしたちが聞くのは、ただ愛の言葉、回心に招く憐れみの言葉だけです」と述べ、他者の振る舞いを非難したり断罪することではなく、「神の慈しみ」こそが世界を変えると力説した。 正午には教皇として日曜日恒例の「お告げの祈り」に臨み、に集まった15万人の信徒に「神は慈悲を与え続ける … 神は慈悲を与えることにうんざりすることはない。 うんざりするのは我々のほうだ」とユーモアを交えながら慈悲と寛容について説いた。 同日、フランシスコは9言語のアカウントを用いて「親愛なる友よ、心から感謝します。 私のために祈り続けてください。 教皇フランシスコ」と投稿した。 新教皇のフォロワー(読者)は、2013年4月17日時点で、版、版を中心に合計で500万人以上にのぼった。 選出に対する反応 [ ] ドイツの有力紙『』は、「段ボールで寝るは、これまでとは違う意味を持つ」として、「貧しさ」の福音的意味を強調する新教皇誕生の意義を考察し、薬物依存者更生施設で足を洗い、その足にするキリスト教界最高位の聖職者の写真を掲載した。 カトリック・ラジオ・テレビセンター(CCRT)のディレクター、ベルナール・リツレー氏は「イエズス会出身の司教を教皇に選んだことは、の霊性に再び価値を置くことを意味する。 教会では、キリスト教の精神性の中に原理的なものを再発見しようとしている」と語った。 カトリックがメインストリームではない(カトリックは、、、などに多い)の大統領は「アメリカの強さを見せた」と初のローマ教皇の誕生に触れ祝意を表した。 またアルゼンチンの隣国で歴史的にライバル関係にあるの大統領は「なんと素晴らしい方が教皇に選ばれて、アルゼンチン国民の皆様は幸せでしょう。 でも私たちはかねがねこう申しています。 教皇がアルゼンチン人でも、神様はにちがいない」と、ユーモアを交えて祝意を表した。 一方で、の領有権を巡ってアルゼンチンとを抱えるイギリスは、バチカンの元首にが就任したことに警戒感を示し、首相は「教皇聖下には先ごろの行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と釘をさした。 これに関してはアルゼンチン政府は、アルゼンチン人教皇の誕生はフォークランド諸島問題に関してアルゼンチンに有利に働くと認識し、大統領はそれまでのベルゴリオ枢機卿との対立とは打って変わり、すぐにバチカンを訪問し、バチカンの元首、教皇フランシスコとなったベルゴリオに謁見した。 日本では、神学部の山岡三治教授が「ベルゴリオ枢機卿の出身地の中南米は最大の信者を抱え、貧困問題もあり、大国を近くで冷静に見ている。 環境問題や幼児虐待で、化学や心理学などにも通じる彼は最適任者だ」と歓迎の意を表し、「は環境保護の聖人でもある。 新法王は、貧しさや自然を愛する基本に戻ろうとしているのではないか。 その人格で信用をつかみ、新たな教会を築いて欲しい」と述べて、新教皇への期待を表明した。 さらに、大司教は「教皇フランシスコは、全教会の賢明かつ力強い牧者としてわたしたちの働きを導き支え助けてくださることと確信します」と、日本カトリック司教協議会を代表して声明を発した。 また、アルゼンチンでの神学生時代に新教皇の指導を受けた「」館長のレンソ・デ・ルカ師は、「厳しいのは厳しいのですが、同時にとても人に理解があり、霊的指導者としても素晴らしい人。 神学生が自立するよう促し、自分で考えるよう導いてくれました」と 、その人柄と卓越した指導力を回顧している。 江戸初期にローマへ渡り、帰国後殉教した日本人のイエズス会士、の故郷である立熊毛小学校()の児童44名が、3月29日に就任祝いの手紙をバチカンへ送った。 同校には5月20日、教皇庁から返事が届けられた。 就任式 [ ] の群衆の中のフランシスコ。 就任式典には132の国と地域の代表が出席した。 フランシスコの母国のアルゼンチンのキルチネル大統領は教皇に最初に謁見した国家元首となったが、彼女はの帰属問題に関してフランシスコにバチカンの国家元首として協力を要請した。 同諸島の帰属問題をアルゼンチンと争っているからは、前回ベネディクト16世の就任式には首相(当時)が出席したが、今回は首相が欠席しの出席にとどまった。 ブエノスアイレス大司教時代のフランシスコは「はアルゼンチンのもの」と発言したことがあり、首相の欠席は、その発言に対するイギリス政府による「冷遇」との憶測を呼んだ。 また、バチカンと国交のあるのが出席した。 就任式には、・・など世界の諸宗教の指導者も参列した。 正教会からはのが出席しており、ローマ教皇の就任式に正教会のが出席したのはの以来、初めてのことである。 サン・ピエトロ広場で教皇の誕生を見届けたアルゼンチン出身のある女性信者は、「私たちのようにバスに乗って、街を歩き、貧困について語る。 一般の民衆に近い存在です」と新教皇の親しみやすさ語った。 ブエノスアイレス大聖堂前の また母国アルゼンチンでは、市から「教皇フランシスコの就任はアルゼンチン史上最も重要な宗教的イベントであると確信する」とのプレスリリースが出され、学生や公立私立の職員のために休校が命じられた。 ブエノスアイレス大聖堂前の広場にはの会場が設けられ、就任式がアルゼンチン時間では夜更けであったにもかかわらず、多数の市民が駆けつけた。 ミサでは「真の権力とは奉仕であることを忘れてはなりません。 教皇の権力の行使もそうです。 あなたがたは、ますます十字架の光の頂点にある奉仕へと迎え入れられるべきなのです」と語った。 質素を好むフランシスコは、教皇の指輪をから銀の金メッキに変えた。 十字架はそれまで使用してきた鉄の十字架を使用し、伝統的に履かれていた赤い靴もやめて従来の黒い靴を履き続けることにした。 また教会の透明性を高めるため、教皇の住居を予め公開した。 公開されたフランシスコの住居は、コンクラーヴェで枢機卿が宿泊に使用するの201号室で、同館に106あるスイートルームの一つである。 コンクラーヴェでフランシスコが宿泊していたときに割り振られた部屋と比べると、この部屋は家具調度が少し上等といった程度のものだという。 サン・マルタ館は、各国の聖職者などがローマに滞在するときに使用されるほか、観光客用のとしても利用されている。 教皇に選出されたフランシスコが、宮殿ではなく聖職者や観光客も泊まるホテルに住むことに関しては異論も出たが、「わたしは他の聖職者と一緒にいることに慣れている」として、ホテル住まいを決断したという。 また、教皇がバチカンで使用する自動車は(16,000)であり、国家元首の乗用車としては、かなり安いである。 ランペドゥーサ島訪問に使用されたはヨハネ・パウロ2世が狙撃された1981年まで使用されていた・カンパニョーラのオープンカーであり、ベネディクト16世の頃から古いものに戻ったことになる。 2013年7月には修道僧らを前に「聖職者や修道女が新型の車を乗っているのを見ると心が痛む。 新しい車は幸福の元ではありません。 聖務には要りません。 質素な車を買いなさい。 珍しいものが好きだというなら、いま世界でどれだけの人が餓死しているかを考えなさい」と贅沢を戒めた。 教皇就任以後 [ ] 就任直後(2013年)の動向 [ ] 教皇は選出以降、自ら「教皇」を名乗らず、一貫して「ローマ」の呼称を用いている。 さらに教皇紋章の装飾のある伝統的な教皇の椅子の使用をやめて、教皇の椅子を、バチカンで賓客用などに供される肘掛け椅子に取り換えた。 また、ミサにおいてはラテン語ではなくイタリア語を用いている。 3月20日、の大統領と会談し、7月に州で開催される「ワールドユースデー」と、サン・パウロ州にあるマリア巡礼地のアパレシーダを訪問する可能性について語った。 3月23日、ローマ近郊のにいる名誉教皇ベネディクト16世のもとを訪問し、会食した後、礼拝堂で教皇が名誉教皇に「我々は兄弟だ」と述べ、一緒に祈りを捧げた。 生前退位した元教皇と教皇が会食した前例はなく、メディアでは「前代未聞」などと報じられた。 このときに両者の会談の内容は明らかにされていないが、バチカンが抱える諸問題に関する教皇の業務の引き継ぎを行ったと推測される。 3月24日、のミサの説教において、「イエスは人々の心に深い希望を呼び覚まします。 とくに身分の低い人、素朴な人、貧しい人、忘れられた人、世間の人々から見て取るに足りない人々の心のうちに。 イエスは人間のみじめな状態をよく知っておられます。 彼は神のあわれみのみ顔を示し、からだと魂をいやすために身をかがめます」と語った。 また、サン・ピエトロ広場で行った説教では、「喜べ!男も女も悲しむな!キリスト教徒は決して悲しむな!決して落胆していてはいけません!」と語った。 3月28日には、前のに行う「」の行事を、ローマのカサル・デル・マルモ少年院で行った。 教皇が足を洗った12人の収容者のうち女性が2人、が1人いた。 教皇が「洗足式」を少年院で行ったのは史上初めてであり、洗足の対象に女性や異教徒が選ばれたのも史上初である。 少年院に収監されていた少年少女たちの多くが涙したという。 新教皇の決断は、ベネディクト16世がに洗足の対象を、12人の司祭から12人の男子ローマ市民に改めた改革をいっそう推し進めたものであり、「恵まれない人々のための教会」の実践である。 ブエノスアイレス大司教在任中には、ベルゴリオは、「洗足式」のミサを病院や刑務所で執り行っていた。 3月31日、復活祭のの説教において特に、、とに言及し 、「私たちは、死をいのちへと変え、憎しみを愛へと変え、復讐を赦しへ、戦争を平和へと変える、復活のイエスに望みを託しましょう」と語った。 また、ミサの後のにおいて 、広場を見下ろすバルコニーから「、とりわけにがもたらされんことを。 和解の精神が育つよう祈る」と述べた。 4月13日、教皇庁は、教皇庁改革などの提言を受けるため、フランシスコが世界各地の8名のを指名したと発表した。 その他に、1名のが事務局長を務める。 10月1日から3日に初会合が持たれた ()は使徒憲章内の『パストル・ボヌス(=良き牧者)』(1988年)の改正または限定的な調整ではなく、全く新しい使徒憲章の起草が期待されている、と述べた。 5月1日、で信徒に向けて演説し、「失業の問題は、社会全体の協力と知恵を今すぐ必要としている」と訴えた。 5月3日、に戻った名誉教皇を彼の新居となる元修道院の入り口で歓迎した。 新旧の教皇がバチカン内に暮らすのは前例がない。 5月12日、フランシスコは「生命は受胎の瞬間から尊重される必要がある」と強調し、を禁止する法律が必要との認識を示した。 7月8日、教皇として初めてを訪れた。 8月21日、イタリアを修学旅行中のの生徒約200人と、一般観光客が入ることができない教皇宮殿のサン・ダマゾの中庭で特別謁見した。 フランシスコは9月7日を全世界における「と中東と全世界の平和のための断食と祈り」の日として、フランシスコ自身もサンピエトロ大聖堂での同日現地時間午後7時からの集会の司式を行うことを発表した。 「断食と祈りの日」にはシリアの指導者 ()が賛同、のもフランシスコの平和外交を歓迎する声明を出した。 10月3日に、7月に訪問したが起きると「ランペドゥーザ島沖で難破した犠牲者のために神に祈る」とツイートした。 11月10日、毎週日曜日恒例の「日曜日のお告げ」においてがフィリピンになどに大きな被害を与えていることに言及し、サンピエトロ広場の群衆とローマ市民に「フィリピン、ベトナムそのほかの国々の台風の犠牲者のために沈黙のうちに祈りましょう」と呼びかけ、さらに「具体的な支援に乗り出しましょう」とも呼びかけ、バチカンとして15万米ドルの義援金を出した。 またイタリアカリタスも10万米ドルの義援金を出した。 同様の内容のツイートもなされた。 12月、ナイトクラブの用心棒や床の清掃や化学研究所での実験に携わっていたと告白した。 12月11日、『TIME』の2013年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 選ばれた理由は「浮世離れした教会を親しまれる慈しみの場に変えた」「教義に重点を置いてきた教会を奉仕の場に変えた」これらによって教会を最盛期の姿に戻そうとしたことなどである。 2015年「いつくしみの特別聖年」 [ ] 2015年3月13日に着座2周年を迎えたフランシスコは「いつくしみの特別聖年」の開催を発表した。 この日には、サン・ピエトロ大聖堂で共同回心式がフランシスコの司式でとりおこなわれた。 みことばの祭儀のあと、参加した信徒たちは聴罪司祭によって個別にゆるしの秘跡を授けられた。 また教皇本人も告解室でゆるしの秘跡を受けた。 説教で教皇はルカの福音書の「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい(ルカ6,36)」に言及し、いつくしみの豊かさとゆるしの大切さを説いた。 そして今年の12月8日の「無原罪の聖母」の祝日から翌2016年の11月20日の「王たるキリスト」の祝日までを「いつくしみの大聖年」として、その準備を教皇庁新福音化推進評議会にゆだねることを発表した。 なおフランシスコはこの前日にバチカンで四旬節恒例の聴罪司祭のセミナーに参加し「神が御赦しならない罪はない」「告解は責め苦にならず、告解を終えた信徒の目に希望と喜びの涙が輝くようでなければならない」と助言。 さらに「罪から解放された人々が父のもとへ帰る心の奇跡を何度も見た」と自身の司牧経験を語り「司祭は信徒から学ばなければならない」「四旬節を信徒たちが清められた心で迎えられるように一層の励んでほしい」と聴罪司祭らを激励した。 教会人事 [ ] 2014年2月22日、フランシスコは19人の聖職者をに任命した。 国別内訳は5人、、、、、、、、、、、、、、から各1人であり、ヨーロッパから見て周辺の地域を重視した人事となった。 19人のうちコンクラーベ参加権を持つものは16人である。 翌2015年1月5日、フランシスコは20人の聖職者を枢機卿に任命した。 アジア・オセアニアから5人、中南米から5人、アフリカから3人、ヨーロッパからは7人(うちイタリア出身者は4人)であり、半分以上が「非欧州」の聖職者である。 うちのソアネ・パティタ・パイニ・マフィ(Soane Patita Paini Mafi)司教は53歳で、最年少の枢機卿となる。 列福・列聖 [ ] 2013年の5月12日、教皇フランシスコはの支配下で改宗を拒み殉教した800人の信徒と、先住民の救済につくしたとの修道女2人を列聖した。 2014年4月27日には、すでに福者に列せられているローマ教皇とローマ教皇を、列聖した。 列聖式には名誉教皇のベネディクト16世も参列した。 また、韓国を訪問した際には李氏朝鮮時代の殉教者を列福。 同年10月のシノドス臨時総会後の10月19日にミサではローマ教皇を列福した。 マフィアを破門 [ ] 2014年6月に先立ちフランシスコはイタリアのを訪れ、ミサを執り行い会衆を前に「は聖体拝領にあずかることはできない。 彼らをする」と宣言した。 ミサで教皇は「主への崇敬がカネへの崇敬に変わるとき、それは罪と個人的な利益と権力への道へと人を導く」マフィアの行動を非難した。 そして「希望を奪われないようにしましょう」と会衆に呼びかけた。 同州は犯罪組織(Ndrangheta)の拠点であり、同年1月には3歳の子どもが、3月にはで3歳の子どもがマフィアに殺される事件が起きている。 教皇は犠牲者の遺族に面会し慰めの言葉をかける一方で、マフィアのようなの組織犯罪から社会が決別するように呼びかけていた。 その後もフランシスコの反組織犯罪への運動は続けられており、2018年9月15日、マフィアに神父が殺害される事件が起きたにて、マフィアは神をする存在だと非難するアピールを行っている。 外国訪問 [ ] リオデジャネイロでのフランシスコ 2013年5月7日、バチカンは教皇フランシスコが同年7月にに合わせて7月22日から同月29日までブラジルを訪問することを発表した。 訪問にはリオデジャネイロでのワールドユースデーの参加のほか、アパレシーダの聖母の巡礼地の訪問、受刑者や病者との対面も予定されている。 ブラジル訪問は3月20日にブラジルのジルマ・ルセフ統領と会見した時に示唆しており、それが実現の運びとなった。 7月22日、に到着したフランシスコは、シルバーのミニバン「」に乗って歓迎式典会場へ移動。 途中、沿道に詰めかけた信徒に取り囲まれて立ち往生する場面もしばしばあった。 さらに、パパモビルに乗っての移動では、信徒らの歓呼に応えたほか、差し出された赤ん坊にキスをするなど人々との触れ合いを楽しんだ。 しかし当時はの最中であり、ブラジル政府は教皇の身辺警護に神経をとがらせており、なおかつ歓迎式典への到着が大幅に遅れたこともあり、最後は政府当局の要請に従ってヘリコプターでの歓迎式典の会場入りとなった。 翌23日は休養にあて、24日にの聖母伝説の地を訪問し、巡礼聖堂でミサを行った。 25日にはリオデジャネイロに戻り、スラム街の一つマンギニョス地区を訪問して住民と面会した。 その後、でワールドユーズデーの歓迎式典に臨んだ。 26日にはワールドユーズデーに参加した若者らに許しを秘跡を与えたほか、8人の少年受刑者との面会を行った。 そして恒例の行事である十字架の道行きに青年信徒らと参加した。 27日には「祈りの前夜祭」をコバカバーナ海岸で行った(当初はで開催予定だったが、悪天候のため閉会ミサ共々会場が変更された)。 この際、6月から続いているブラジルの抗議運動に言及し、「若者は変革の立役者であってほしい」とデモに理解を示した。 またそれに先立ちフランシスコはブラジルの政治家との会談では「進歩のためには対話が必要」とデモ隊との対話の必要性を説いている。 28日には閉会のミサを行った。 その間、コパカバーナ海岸には300万人の信者が詰めかけたといわれる。 中東 [ ] バルトロメオス1世 とにて。 2014年5月24日から26日フランシスコは中東諸国を歴訪した。 同日にはヨルダンに行きと会談。 その後パレスチナ自治区、イスラエルを訪問した。 のパレスチナ難民キャンプで子供たちと交流したのち、経由でに向かった。 エルサレムでは(コンスタンティノープル総主教)、 バルトロメオス1世 と会談した。 これは1964年にパウロ6世と アテナゴラス 総主教が合同巡礼をしてから50周年を記念したものであり、両者は会談で現在のキリスト教の窮状について話しあった。 嘆きの壁では祈りをささげた。 6月8日には、コンスタンディヌーポリ総主教ヴァルソロメオス1世と共同でバチカンに、大統領を招き、イスラエル・パレスチナ両者に和平を呼びかけた。 韓国 [ ] 光化門広場での列福式に臨むフランシスコ。 2014年8月14日にフランシスコはを訪問した。 時代の殉教者のの儀式をとりおこなうことと、13日から開催されている「アジア青年の日」に参加するのが主な目的である。 フランシスコにとって初めての訪問であり、韓国にとってはのヨハネ・パウロ2世訪問以来25年ぶりである。 韓国は人口の1割に当たるおよそ500万人がカトリック信者である。 訪問にあたり、教皇を乗せたがの領空を通過することに中国側が難色を示していたが、最終的には許可された。 搭乗機が中国の領空を通過した際には、同国の国土と国民に祈りを捧げた。 韓国のは空港で出迎え、両者の会談では朴大統領は「教皇の訪問は、南北分断の傷を癒し、希望に満ちた新しい時代を開くきっかけとなることを確信する」と訪問に謝意を示した。 またフランシスコは「での統一に向けた長く粘り強い努力を称賛し、激励する」と応じた。 フランシスコは韓国での移動に黒のサブコンパクトカー「」を使用することにした。 のの日のミサをで行い、の遺族と面会した。 16日には広場で列福式を司式、さらにの障碍者と面会した。 17日には同国の殉教地のひとつである西山海美聖地で開かれるアジア青年大会閉幕ミサに参加するほか、18日にはソウルでの「平和と和解のミサ」に参加。 朴槿恵大統領のほか、各宗教団体の指導者たちやかつてとされた女性たちも参列した明洞聖堂での「平和と和解のミサ」では分断が続く朝鮮半島に平和と和解の恵みがもたらされるよう会衆に祈りを求めた。 分断の歴史を変えることにはがその役割を果たすだろうと、会衆に回心を促した。 また、現在の韓国社会が繁栄から取り残された弱者のための福音的取り組みをしてきたかかどうか、自省を求めた。 ミサでフランシスコは、「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。 七たびまでですか』と問うペトロに、」「イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。 七たびを七十倍するまでにしなさい』」という赦しについての問答 を引用し、さらに「イエスは兄弟たちを際限なく赦しなさいと命じるだけでなく、それを可能にするための恵みをも与えてくれる」「人間の目には不可能なことも、イエスはその十字架の無限の力を通して可能として下さる」と強調し「『赦すこと』ができないならば平和と和解ができるのでしょうか」と会衆に問うた。 アルバニア [ ] フランシスコは2014年6月15日のお告げの祈りにおいて、の首都を訪問することを発表した。 「このほんのわずかな訪問で、私はアルバニアの教会の信仰を確かめ、長い間過去のイデオロギーによって「無神国家」として信仰が弾圧されてきたこの国に勇気づけと愛を証したい」。 政府が者らがアルバニアで教皇の暗殺の計画を練っているというを入手したという警告をだしてから、セキュリティ上の懸念が浮上した。 フランシスコのヨーロッパ地域での最初の訪問は11時間と短時間のものになった。 彼は8月に、アルバニアを最初の訪問先に選んだ。 アルバニアではイスラム教、正教会、カトリックの信徒を含む国民の連帯した政府の樹立によって他宗教の調和のモデルが維持されてきたからである。 滞在中は彼はアルバニア大統領のに会見し、ティラナの「マザーテレサ広場」でミサを行い、イスラム教、正教会、ユダヤ教、の、プロテスタントを含む諸宗教の指導者と面会した。 彼は共産主義の独裁者政権下で迫害を受けた人々を称賛した。 からのホッジャ政権下で130人ほどの聖職者が投獄あるいは処刑された。 ホッジャはに、アルバニアは「無神国家」であると宣言していた。 この間に迫害あるいは処刑された司教の肖像は、教皇訪問に際してティラナの主要な国民大通りに殉教者として懸垂された。 アルバニアはの人気を受けてカトリックの信仰が徐々に復興しつつあった。 マザー・テレサは、いまのに生まれたものの、アルバニア人であった。 フランス [ ] 欧州議会で演説するフランシスコ フランシスコは、わずか5時間という短時間であるが、2014年11月25日にフランスのを訪問し、と、でヨーロッパへの不法移民に対する尊厳ある処遇と、労働者の労働条件改善についての問題を提起した。 トルコ [ ] 2014年9月にフランシスコはの大統領のトルコ訪問の要請を受諾した。 この招待はヴァルソロメオス1世からの日をともに祝うためのものであった。 フランシスコは11月28日に首都のの降り立ち、そこでトルコの要人と面会した。 それからに献花した。 フランシスコは大統領官邸に赴きエルドアン大統領と面会し、中東地域は「あまりに長く同胞相争う戦争が続いた地域であった」と言い、狂信と原理主義に対抗し中東の新たな平和の後押しを求める宗教間の対話の速やかに求める演説をした。 翌日、フランシスコは(ブルーモスク)を訪れ、高位のイスラム聖職者とともに静かに祈った。 フランシスコはトルコ訪問を、イスタンブールのでヴァルソロメオス1世とともに臨んだで締めくくった。 フランシスコは「私とローマのため」の祝福と東西両教会の速やかな再一致を求め、集まった正教会の信徒に「私はここに集まったいずれの方々にも安心してほしい。 そして完全な一致という求められるゴールに到達したいのです。 カトリック教会は、東西両教会が共有している信仰の確信以外のいかなる条件も課すつもりはありません」と言った。 スリランカ [ ] 1月にはと最大のカトリック国。 フィリピン [ ] 2015年1月17日フィリピンの、を訪問したフランシスコ。 1月にはスリランカに続いて、も訪問した。 フィリピンでは、に降り立ち、とで甚大な被害を受けた、の市で盛大なミサを執り行った。 ボスニア・ヘルツェゴビナ [ ] 6月にはボスニア・ヘルツェゴビナを訪問した。 ボリビア、エクアドル、パラグアイ [ ] 7月には南米諸国を歴訪。 南米へは2013年のブラジル訪問以来2年ぶり。 母国アルゼンチンへの「帰国」は、2015年に大統領選挙があるため、政治的影響を避けるため2016年になった。 アラブ首長国連邦 [ ] 2019年2月3日、アラブ首長国連邦のアブダビを訪問、法王がイスラム教発祥の地であるアラビア半島を訪れたのは初めて。 日本 [ ] 長崎市の原爆落下中心碑(左)と浦上天主堂の遺構(右) 2019年11月23日から11月26日までを訪問した。 ローマ教皇の来日は以来38年ぶりになった。 2014年6月にがを訪問し、としてフランシスコの来日を招請しており、それに応じたものである。 11月23日の17時40分に、訪問先ののからへ到着。 で司教らに集いに参加。 11月24日、7時20分に羽田空港を発ち、9時20分にに到着。 10時20分ごろに長崎市のの「原爆殉難者名奉安箱」の碑に献花し祈ったのち、最初の「に対するメッセージ」を発表。 「核兵器はの危機から人を守らない」との見解を示した。 その後、11時にの殉教の地である長崎市西坂の作の日本二十六聖人像「昇天の祈り」の前に安置された「、、の骨」に献花し、に灯を点け、沈黙のうちに祈り献香した。 「私はこの瞬間を待ちわびていました。 私は一者として祈るため、信仰を確かめるため、また自らの証しと献身で道を示すこの兄弟たちの信仰に強められるために来ました」「この場所から、世界のさまざまな場所で、信仰ゆえに今日も苦しみ、殉教の苦しみを味わうキリスト者とも心を合わせよう」と呼びかけ、で「お告げの祈り」を唱えた。 13時30分よりでミサを執り行った。 その後、16時35分にからへ旅客機で移動し、17時45分にに到着、18時45分にのに到着し、諸宗教の代表者やらに会い、蝋燭に灯を点し慰霊碑に献花し。 その後2度目の「核兵器に対するメッセージ」を発表、「のを開発しておきながら、どうしてについて話すことができるだろうか」「を現在と将来の世代が忘れてはなりません」と訴えた。 その後20時25分に広島を発ち、旅客機で22時ごろに東京都へ戻った。 11月25日には、10時よりのイベントホール「ベルサール半蔵門」() にての被災者との集まりに参加し、地震・津波・の被災者と面会した。 11時から「竹の間」にて()と20分ほど会見した。 天皇陛下は被爆地の訪問および東日本大震災の被災者との面会に謝意を表した。 11時45分からでの「若者との集い」に参加し、特製のを贈呈された。 16時からはでのミサに臨んだ。 このミサにはおよそ5万人が参加した。 その後で安倍晋三と会談した。 11月26日には、早朝に内のイエズス会SJハウスにて、会員との私的なミサと病気・高齢の司祭との面会をし、10時に上智大学で講演した。 その日の11時35分に羽田空港から離日した。 同日11時頃には、公式アカウントからで感謝の意を投稿した。 私の訪日に際し、皆様が私を真心を込めてあたたかくお迎えくださったことに対し、私は日本のすべての皆様に深く感謝申し上げます。 お祈りの内に皆様のことを心に留めております。 — フランシスコ 他宗教・他宗派との交流 [ ] 2013年6月14日、フランシスコはバチカンを訪問したおよびその使節団と会見。 ウェルビー大主教は2012年末に選出され、2013年3月21日に着座した。 奇しくも2013年に着座したローマ教皇とカンタベリー大主教との初の会見となった。 二人は会談でローマ・カトリック教会と英国国教会の歴史について語り合ったのち、キリスト教の普遍的価値であるいのちの尊厳の擁護、家族の連帯の尊重、貧困問題解決のための社会正義への取り組みをともに推進したいことで一致した。 そののち、二人はサン・マルタ館の礼拝堂で一緒に祈りをささげた。 2014年5月25日には、・()のとので会談を行い、神学的対話などを謳った共同宣言に署名した。 2014年7月28日、フランシスコはの教会を訪れ、過去の迫害や差別について互いに謝罪した。 2月12日に、フランシスコはの首都でのと会談した。 会談後、両者は中東などで続く過激派によるキリスト教徒迫害やテロに対し、国際社会の緊急対処を呼びかける共同宣言に署名した。 5月23日、バチカンでフランシスコはの権威の ()師と会談した。 これは、が、にのアズハル大学を訪問した答礼訪問に当たる。 の以降の国際情勢の変化と、ののと暴力を結びつけた発言などで、アズハル大学側のバチカン訪問は先送りされていた。 この会談では現在主要な宗教が直面している共通の問題と危機について話し合われた。 世界における紛争とテロの拒絶、中東地域におけるキリスト教徒の保護などである。 宗教事業協会(バチカン銀行)について [ ] 詳細は「」を参照 前任者のベネディクト16世の退位の原因の一つと言われる、(以下バチカン銀行)のマネーロンダリング()を含む不明朗な資金運用について、フランシスコはマネーロンダリングなど金融犯罪と戦うための命令を出している。 2013年8月にはバチカン銀行の調査のための金融安全委員会を発足させ、報告書がフランシスコに提出された。 委員会は、マネーロンダリング、テロ資金の提供、兵器の取引などバチカン銀行を利用して行われてきたという犯罪に立ち向かうものであり、反金融犯罪の努力をするために組織された。 2013年7月にはバチカンは司教の・ヌンツィオ・スカラーノの口座を凍結した。 この結果、6月に彼のほか2人が約2000万ユーロのマネーロンダリングの容疑で逮捕された。 フェデリコ・ロンバルディ枢機卿は「この教皇の命令は、バチカンが金融犯罪に抵抗する助けになると」という。 一方、バチカン銀行はバチカン職員の給与の支払いや慈善活動など本来の業務を行っており、金融犯罪撲滅後のバチカン銀行の処遇に関してはフランシスコは、ブラジル外遊からの機内での記者会見で「慈善団体にするべきだという意見もあれば、廃止しろという意見もあるが、まだ決めていない」と答えている。 聖職者の児童虐待について [ ] 「」を参照 前任者のベネディクト16世の退位の原因のもう一つの理由と言われているのが、聖職者による児童への性的虐待である。 これに関してフランシスコはベネディクト16世が公に認め公に謝罪した路線を継承し、2013年3月に教理省のゲルハルト・ミュラー長官に「断固たる対応」を要請した。 教理省は2011年から性的虐待の疑いのある聖職者の存在を通報する指示を司教らに出す一方で、それらを見つけた場合は未成年者と接触させないようにする通達を出している。 同年12月には調査委員会を設置し、実態の把握に乗り出した。 翌年1月にはバチカンはベネディクト16世在任中の2011年から2012年に400人以上の聖職者が性的虐待で聖職を失ったことを公表した。 これに関しては教会内部では前例のない試みと評価する声がある一方で、被害者団体は「結果が出せなければ新たな組織の設置も無意味」であり、調査は外部の第3者団体がすべきと批判的である。 また被害者団体は、性的虐待をした聖職者のみならず、その隠蔽に加担した聖職者も排除すべきだと主張している。 2014年、国連の子どもの権利委員会はバチカンに対して「」を評価する一方で、カトリック教会は被害者の保護より教会の名誉と加害者の保護を優先していると非難し、疑いのある聖職者は直ちに捜査当局にゆだねるよう勧告した。 言論の自由について [ ] 「(私はシャルリー)」の標準的なスローガンのレイアウト シャルリー・エブド紙のウェブサイトより 2015年1月にの風刺画に怒ったによる誌襲撃事件が・で起き、「(私はシャルリー)」のスローガンとともに、「自己の異論をも含む言論の自由の価値」を確認するとしいう言論の自由の至上性を確認するデモなどの運動や、言論の自由自体に関する議論が世界的な広まりを見せると、フランシスコはスリランカからフィリピンへの移動中の機内での記者会見で、この動きに関する質問を受けると「神の名での殺人は愚かしい」と事件を非難すると同時に「あらゆる宗教には尊厳があり」「信仰を挑発したり嘲笑したり侮辱する自由」はその限度を超えていると発言。 同時に「言論の自由は同時に義務であるが、他人を傷つけることなく表出されなければならない」と「言論の自由のあり方」を示した。 これに対してシャルリー・エブド誌のジェラール・ビヤール編集長は「私たちは誰も殺しません。 殺人者と犠牲者を一緒にしてはなりません。 書く人、あるいは描く人が挑発者で、火にガスを投げ込んでいると断じるのは止めるべきです。 考える者とアーティストを殺人者と同じカテゴリに分類すべきではないのです」と発言。 教皇の勧告に従うことは危険という考えを示した。 アメリカ大陸の植民地化の歴史について [ ] 詳細は「」および「」を参照 フランシスコは7月9日に、訪問先であるので大統領との代表らを前で演説し「アメリカ大陸の植民地化」について「私は、ここに悔恨の気持ちとともに、申し上げます。 神の名の下に、先住民に対したくさんの深刻な罪が犯されたことを」と発言し「前の教皇がこれを認めました。 ラテンアメリカ司教会議もそう言ってまいりました。 私もまたそう申し上げたいと思います。 聖ヨハネ・パウロ2世のように神の前に跪き、神の花嫁たる教会の息子と娘たちの過去と現在の罪の許しを乞います。 また、こうも申し上げたい。 聖ヨハネ・パウロ2世のように、私は教会自身の罪だけでなく、いわゆる新大陸征服の時代に先住民に犯された罪に対して謙虚に神に許しを乞うことをはっきりと明らかにします」と「教会の重い罪」について謝罪した。 「コロンブスのアメリカ大陸発見400年」に当たるにヨハネ・パウロ2世がで「植民地化の下での教会の罪」ついて謝罪したことに言及しつつ、フランシスコはラテンアメリカが植民地だった時代の同地での圧制にローマ・カトリック教会が加担したことを直接謝罪した。 平和への取り組み [ ] 「第三次世界大戦」を警告 [ ] の軍事墓地。 第一次世界大戦におけるイタリアとオーストリア・ハンガリー帝国との激戦地に造営された。 第一次世界大戦ではおよそ100万人のイタリア人が戦い、65万人以上が戦死した。 フランシスコの祖父ジョバンニ・ベリゴリオもイタリア軍の召集を受けて、軍事墓地近くでのに参加しており「祖父の口から痛ましいことを聞いている」という。 開戦から100年にあたる2014年9月13日に、フランシスコはの慰霊施設で戦没者の追悼式典に臨んだ。 その席上フランシスコは「いまこの慰霊施設に臨んで、一つだけいえることは『戦争は狂気である』ということです。 …強欲と不寛容と権力の欲望、これらの動機が戦争に至る決定の基礎となり、これらはあまりにも度々によって正当化されてきました。 イデオロギーは正統性として存在していましたが、戦争が起きた時にはイデオロギーなどなく、ただ時に神についた嘘、『カインの返答』だけがあるのです。 どうして私は憂慮しているのでしょうか?という第一次世界大戦の失敗を犯したのちの今日でさえ、罪と殺戮と破壊とともに世界各地で散発的に戦われている戦争を『』と呼ぶ人がいるかもしれません。 どうしてそういえるのでしょうか?さまざまな今日の世界では、さまざまな状況を前に、利益や地政学戦略、経済的軍事的な欲望があり、そしてそこにの生産と売買があるからです」 と演説した。 核について [ ] 2014年11月、トルコから帰国する機内での記者会見で、フランシスコは終結から翌年でちょうど70年を迎えてなお世界がの脅威にさらされていることに関して「人類は、から何も学んでこなかった。 …は人類に莫大な利益をもたらしたが、はを破壊することにも使われてきた…核兵器が使用されている今日、まさに広島と長崎のように我々はゼロからスタートしなければならないだろう」と発言した。 2015年の「日曜日のお告げ」に際し、フランシスコは「から、ちょうど70年を迎える」と「歴史の悲劇」に振り返り「両都市への原爆投下は70年もの長い時を経てもなお私たちに恐怖と嫌悪を誘発させる」と発言したうえで「広島と長崎への原爆投下は科学と技術のゆがんだ使用がなされたときにおきた、人間性の巨大な破壊の象徴である」と述べた。 その上でサンピエトロ広場に集まった会衆へ「核兵器と大量破壊兵器の終わり」と「戦争にノー、和平にイエス」とを呼びかけた。 1月1日、フランシスコはの被害者の写真を印刷したカード配布を指示した。 写真はのカメラマン、撮影の「焼き場に立つ少年」で火葬場で死んだ幼い弟をおぶり火葬の順番を待つ少年の姿を映したもの。 カードの裏には「戦争が生み出したもの(il frutto della guerra)」との言葉と署名が印刷されている。 過激派組織ISILについて [ ] フランシスコは過激派組織について激しく非難している。 2014年のアルバニア訪問での演説で「神の名において人を殺すのは重大な神への冒瀆であり、神の名においての差別は非人道行為である」と、名指しはしなかったもののISILを念頭に「宗教は暴力を正当化せず」の立場を強く示した。 さらに11月のトルコ訪問においては狂信とと対抗するために「間、文化間の対話」を呼びかけた 、正教会とともに「キリスト教徒のいない中東を受け入れることはできない」とISILによるキリスト教徒迫害を非難した。 一方、フランシスコは8月の韓国訪問の機内で「一カ国によるものではなく国際社会がどのように介入するかを決定するのであれば」と限定を加えつつも「イラクでのISILのような、イスラム武装勢力からの宗教的少数派の攻撃を阻止するための措置は正当化される」と発言した。 ISILはイラク西部からシリア北東部においてキリスト教徒のほか非イスラム教徒に改宗を強要したり追放したりしているが、この発言に対して「教皇はアメリカ合衆国によるISILへの一方的な空爆に賛成するのか」と問われると「今回のケース、すなわち不正義の攻撃が存在している事態では、不正義の攻撃を『阻止すること』は正当化されると言っただけです。 『阻止する』と申したのです。 『爆撃する』あるいは『戦争をする』とは申していません。 『阻止する』ための手段は見極められなければなりません」と発言した。 条件付きであれ「武力行使を容認する」この発言は重大なものである。 「『正しい戦争』は存在しない」と、における、におけるのように歴代の教皇は、あらゆる武力行使すべてに反対を表明しており、フランシスコ本人も2013年のシリア空爆を非難し、平和的解決を呼びかけていた。 2014年9月にバチカンは国連総会で「多国籍軍による武力行使を容認すること」を示している。 パリ同時多発テロ事件について [ ] 詳細は「」を参照 2015年11月13日に・で発生した同時テロについて、フランシスコは電話取材に応じ「人間のすることではない。 理解できない」とテロ行為を非難した。 また事件について「(テロは)第3次世界大戦の一部である」と指摘した。 Twitterで「パリのテロに深く悲しんでいる。 皆さんともに祈りましょう」とツイートした。 テロ発生から直後の11月15日、日曜定例のお告げの祈り後のメッセージで、「私は、去る金曜日の夕方に、フランスに多くの犠牲者と流血をもたらしたテロリストの攻撃に深い悲しみを表したいと思います。 フランス大統領ならびに同国民に兄弟愛による哀悼の意を表します。 私はとくに命を奪われあるいは負傷した人々のご家族に寄り添いたいと思います。 このような蛮行は私たちに衝撃を与え、どうしたら人間の心がこのような恐ろしいことを思いつき実行するのだろうかと、考えさせます。 フランスのみならず全世界がこれに動揺しています。 このような行為に対しては、人は言葉に言い表せない人間の尊厳への侮辱と非難することしかできません。 こういう事件にさいして、私は強く断言したします。 暴力と憎しみで人類の問題を解決することは決してできません!神の名を正当化に使用することは神への冒瀆です!」。 そして聴衆に向けて祈るよう求めた。 ヨーロッパの全教区に難民の受け入れを呼びかけ [ ] 詳細は「」を参照 ISILの紛争などで中東からヨーロッパへ難民が押し寄せている問題に関して、フランシスコは2015年に9月6日の日曜のお告げで、9月5日がの帰天日であることに言及したうえで「神のいつくしみは、マザー・テレサが証ししたように、わたしたちの業を通して知られるようになる」と述べ「ヨーロッパの全教区が1家族を受け入れるように」と呼びかけた。 ヨーロッパにはおよそ12万の教区があり、カトリック教会の下部教団、修道院を含めるとさらにその数は増える。 バチカンも2教区を有するので2家族を受け入れることを決めた。 この結果、十数万家族がヨーロッパに受け入れられることになる。 フランシスコは「戦争ないし飢餓から逃れ、生きたいという望みに向かっている何万人もの難民の悲劇を目の当たりにし、福音はわれわれに対し、恵まれぬ人々や見捨てられた人々に寄り添うよう求めている」と述べ、この「全教区で1難民家族受け入れ」の運動を、2015年末から始まる「慈しみの大聖年」の具体的行動と位置付けた。 フランシスコは着座直後から難民問題に取り組んでおり、北アフリカからイタリアへ渡る難民が通過・遭難することで有名な地中海に浮かぶの訪問を行っており、EU加盟国の指導者らに「難民・移民の遭難の悲劇をもう繰り返さないように」行動をとるよう要請していた。 2015年から顕著になった中東からヨーロッパへの難民の増加に関して、で・間の高速道路に乗り捨てられた保冷車のコンテナから子ども4人を含む71人の遺体が見つかった事件では、8月30日の日曜日のお告げで「不幸にも移民たちは恐ろしい旅路で命を落としました。 私は祈ります。 兄弟姉妹の皆さんも祈ってください。 とくに今日ここにいらしている枢機卿とオーストリアのすべての教会には、ブダペスト・ウイーン間の高速道路の路肩に止められている保冷車の中で亡くなった4人の子どもを含む71人の犠牲者のために祈ってください。 私たちは、彼らを神の慈悲にゆだね、私たちが、このような『家族たる全人類』への侮辱というべき犯罪を阻止するための効果的な協働のための神の助力を求めます」と述べ、難民が人身売買に巻き込まれたりして命を落とすことのないように呼びかけていた。 アメリカ合衆国とキューバの国交回復への仲介 [ ] 詳細は「」を参照 上述のように、コンスタンディヌーポリ総主教ヴァルソロメオス1世と共同で、イスラエル・パレスチナの和平を呼びかけているほか、以来50年以上国交が断絶しているとの交渉の仲介を、政府とともに行った。 その結果、2014年12月17日にアメリカのとキューバのが、それぞれテレビ演説で、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表し、ラウル・カストロ議長は演説の中で、「ローマ教皇庁の力添え、特にキューバと米国の関係改善に向けた、フランシスコ教皇の力添えに感謝したい」とフランシスコに謝意を述べている。 アルメニア人虐殺問題について [ ] 4月12日、第一次世界大戦中のオスマン帝国によるからちょうど100年になるのに合わせて、の聖職者を招いてサンピエトロ寺院でミサが執り行われた。 フランシスコは2001年にヨハネ・パウロ2世とアルメニア正教会との間で交わされた文書を引用し「20世紀最初のとして広く認識されている」と発言した。 サンピエトロ大聖堂でのミサという公の場での教皇の発言はバチカンのアルメニア人虐殺問題に関する認識を明確に示したものと言われる。 しかし、この事件に関して否定の立場をとっているトルコ共和国は直ちに激しく反発。 同国外務省は駐バチカン大使を本国に召還し、さらにアンカラ駐箚バチカン大使に説明を求めた。 中華人民共和国との暫定合意 [ ] 「」も参照 中国と関わりの深いイエズス会の出身者であるフランシスコは、バチカンと対立が続いてきたとの関係改善を目指して訪中の意向も示し 、2015年9月28日にはフランシスコ自らが中国政府との接触を認めていた。 フランシスコの法王就任直後には中国側から祝電がおくられており、とは、韓国訪問中にも打電で挨拶が交わされている。 中国もバチカン任命の司教を認め 、バチカンも (、、)国務長官は中国との国交樹立の意向を明言 した。 2018年9月22日、バチカンは中国政府と、長年対立していたについて、暫定合意に至ったと発表した。 フランシスコは2018年9月の合意の一環として、中国政府によって任命された司教7人を承認した。 これに対しての枢機卿は「(教皇は)中国の体制を理解していない」「私が風刺漫画家なら、教皇がひざまずき、中国の習近平国家主席に天国の鍵を差し出して、『どうか私を教皇として認めてください』と言っている絵を描くだろう」などと批判した。 中国では政府公認の宗教団体しか許されないが、これを嫌って非合法の「 ()」に入会する信者が多く存在する。 地下教会の信者は、事あるごとに弾圧を受けており、時にはやの破棄、教会の閉鎖、信仰を放棄させる書類への署名などが日常的に行われ、時に逮捕されて刑務所に何年も収監される事すらある。 フランシスコはこの地下教会の信者を念頭に「彼らはこれからも苦しむだろう」「和平合意が結ばれる時は、双方とも何かを失うのが通例だ」と語り、弾圧よりも対中関係を優先したと受け止められかねない発言をしており、中国の地下教会信者は、法王に対して失望の声が一層高まる可能性がある。 語録 [ ]• 「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」 … メディアに対する初の会見にて。 「あなたがたの為した行いを神がお赦しになるように」 … 教皇に選出されたとき枢機卿団に語った言葉。 「教皇になりたがる人は、自分を慈しまない人で、神に祝福されない。 だから私は教皇にはなりたくなかった」 … 系の学校での子どもたちの質疑応答で「教皇になりたかったの」と問われて。 「つらいですよ。 いつも。 でも良い時もあります。 が助けてくださり、喜びを与えてくださいます。 あなたにも心の中の渇きと闇で辛いと感じる時もあるでしょう。 そういう時こそ、イエス様の後を追いその道をたどるべき時なんです。 そのつらい時と良い時のバランスが大切です」…イエズス会系の学校での子どもたちの質疑応答で「イエズス会に入るときに家族や友達と別れるのは辛かった?」と問われて。 「私たちは歩みたいように歩み、多くのものを構築できます。 しかし、イエス・キリストを告白しないならば、物事はうまくいきません。 私たちは敬虔なNGOには成れても、教会に連なることも、主の花嫁となることもできません。 誰でも、神に祈らない者は悪魔に祈っているのです。 なぜなら、キリストを告白しないならば、悪魔の世俗性、悪魔的な世俗性 を告白しているからです」 … 教皇選出後初めてのミサにて。 「日本のキリスト教共同体は、200年以上も聖職者なしで維持されたのです」 … を例に挙げ、万事任せではなく、信徒たちが自律的に信仰を貫くよう促した言葉。 「人が神を探す時、まず神が人を探されており、あなたがたが神を見出そうとする時、神が最初に私たちを見出されます」 … 自らが神に出会った時の回顧を通し、神の慈悲について語った言葉。 「キャリア主義はだ」 … 聖職者達に対して出世への野心を戒めるために語った言葉。 「寿命が延び、我々は物事をそれまで通りにやっていけなくなる年齢まで生きるようになった。 私も前教皇に倣うつもりだ。 その時がいつ来るのかお示しになり、どう行動すべきか教えて下さるよう神に祈る。 神は必ず、それらを知らせてくれるだろう 」 … 自身の生前退位に言及して。 「彼らはこれからも苦しむだろう」「和平合意が結ばれる時は、双方とも何かを失うのが通例だ 」 … で弾圧される ()の信者を念頭に。 弾圧よりも対中関係を優先したと受け止められかねない発言とされた。 — 教皇フランシスコ 語録 思想・信条 [ ] フランシスコは質素な生活を好み、アルゼンチン時代から特に貧困問題に熱心に取り組んで来た。 分かりやすい言葉を選び、時にを交えた話し方も庶民的で親しみやすく、教皇選出後の初めてのもラテン語ではなくイタリア語で行われた。 また3月17日の日曜日恒例の「お告げの祈り」におけるユーモラスな説教も、信徒たちから笑いを誘った。 枢機卿に任命された時には、ローマでの任命式を見に行こうとする人々に対し「任命を祝うためにローマに行くことはない。 代わりに飛行機代分のお金を貧しい人々にあげて欲しい」と呼びかけた。 さらに、教皇就任式を控えた時期にも、同じく母国アルゼンチンの人々に対して「ローマに来る飛行機代があるなら、それを貯金に回すか、貧しい人に寄付するかして欲しい」とメッセージを発した。 紙は、これについて、『』の主題歌のタイトル「」( Don't Cry For Me Argentina)をもじった「アルゼンチン人よ、飛行機で来ないで」( Don't fly for me Argentina)の見出しをつけて紹介した。 「フランシスコ」という教皇の名は、コンクラーヴェにおける彼の得票数が全体の3分の2を超え、選出が確定的になった際に、隣に座っていたブラジルのクラウディオ・フンメス枢機卿から「貧しい人々のことを忘れないでほしい」と言葉をかけられ、この時に清貧とのであった、中世イタリアの聖人の名前が思い浮かび、教皇名に選んだと本人が語っている。 フランス司教団の代表である ()司教によると、それは の霊性を踏まえ、福音的な慎ましさと、とりわけ貧しい人々への配慮を示すものであるという。 また、幼少期に、会計士事務所で働きに出された経験から「労働は人間の尊厳である」という考えを持っており、スペインのジャーナリスト、マリオ・エスコバルはの『』に近い思想だと評している。 教皇就任後も世界的な失業問題に対して憂慮の念を表すとともに「労働は人間の尊厳である」との考えを示している。 その思想・信条は、の開催を実現させたや「微笑みの教皇」と呼ばれたと共通しているとの期待と評価も上がっている。 前教皇のが厳格な態度と博識を駆使した重厚な雰囲気の説教をしていたのに対し、新教皇フランシスコは、親しみやすい雰囲気の中で分かりやすい言葉遣いで説教をすることから、バチカンは教皇の交代から「24時間で劇的に変わった」と『』は報じている。 また、生涯のほとんどをアルゼンチンで過ごし、伝統色の強いアルゼンチンの教会の近代化に成功したとも言われている。 スイス人のイエズス会司祭アルベール・ロンシャン氏は「新教皇は左派の人間ではないことを知るべきだ。 優しさだけでは10億人の司牧は不可能であり、時には鉄拳をふるうこともある」と言い、反対などの発言がそれらの現れであるとした。 フリブールの国際カトリック通信社(APIC)のモーリス・パージュ氏は「新教皇は前教皇の方針の継承を表明した。 改革は教会統治の分野であろう。 …ベネディクト16世は世界に対して悲観的であったが、新教皇は楽観的だ。 変わるとすれば世界への関わり方だ。 これは着座の時を想起させる」と述べた。 しかし、ベネディクト16世が典礼の伝統を重んじ 、ラテン語典礼の復活を唱える超保守派の司祭たちに対する破門を解除したりした姿勢とは「大きく異な」り 、フランシスコは、反動的な主張を掲げる「伝統派や原理主義者たち」を「主に不実な者」と呼んで、これら復古主義とは明確な一線を引く姿勢を明らかにしている。 ヘブライズムの伝統に造詣が深く、大司教時代にラビ(ユダヤ教の聖職者)の ()との『』(2010年)と題する共著がある。 アルゼンチンでの政治的立場 [ ] キルチネル政権との関係 [ ] アルゼンチン司教協議会でと面会するベルゴリオ 2010年 とその夫で前任者のの2人とベルゴリオとの間には、長年にわたり緊張関係が存在した。 2人の大統領は共にな政策の推進者として知られ、学校でのの推奨、公立病院でのの配布、の性別変更の許可などを次々と実現し、には、で初めてが合法化されている。 にのに選ばれたは、翌年のにの大聖堂で催されたベルゴリオの司式によるミサに出席した。 そのときベルゴリオは、大統領に対して、一層の政治的な対話を要求し、大統領の不寛容や自己顕示や声高な自己主張を批判した。 そのためネストル・キルチネルは、翌年からミサに出席しなくなり、他の場所で独立記念日を祝うようになった。 以来ネストル・キルチネルは、ベルゴリオを政治的なライバルとさえ見做すようになった。 の大統領選において当選したネストル・キルチネルの妻との間にも緊張した関係は継続した。 ベルゴリオは、の農業分野による政府内紛争の過程で政府がデモ隊を支援した際に、全国民に対して和解と平和を呼びかけた。 キルチネル夫妻とベルゴリオの関係が緊張の頂点に達したのは、の合法化(7月15日成立)の時であった。 6月22日、ベルゴリオはブエノスアイレスのの修道女たち宛てに文書を発行し、「これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」()という聖書の言葉を引用して、議員らが国のために善いことをするようにと祈るよう促した。 ベルゴリオの同性結婚反対キャンペーンに対し、ネストル・キルチネル前大統領はこれを「圧力」と批判し 、教会の姿勢を「中世の」に属するものであると断じて激しく非難した。 の「アパレシーダ文書」 の発表に際し、ベルゴリオは社会問題に言及し(参照)、中絶や安楽死は、生命と家族に対する重大な犯罪を促進するものであり、この責任は特に国会議員と政府首脳と医療従事者とに帰するものであると言明した。 アルゼンチン政府はこの声明に抗議し、ブエノスアイレス人権大学のギジェルモ・ゲリンは「アルゼンチンの社会問題に関わる教会の診断は正しいが、中絶や安楽死を混ぜ込むことは、少なくとも明確なイデオロギー的違法行為の一例である」と発言した。 フォークランド紛争について [ ] 4月にブエノスアイレスで開催された30周年追悼ミサで、ベルゴリオは「戦没者と祖国を守るために、他国(イギリス)に強奪され、他国の物となった祖国の一部()を回復するために戦場に赴いた者のために祈りましょう」と参列者に呼びかけた。 フォークランド紛争についてイギリスを批判したことは、キルチネル大統領の共感をよび、大統領はの首相に対し、の国連決議を尊重して「19世紀以来の露骨な政策をやめるべきだ」という趣旨の公開書簡を送った。 にベルゴリオが教皇フランシスコとしてバチカンの国家元首になると、キルチネルは最初の国賓としてバチカンでフランシスコと会見し、フォークランド紛争の仲介を求めた。 一方ベルゴリオの教皇選出から2日後、イギリスのデーヴィッド・キャメロン首相は「からは(コンクラーヴェの)白い煙は全然見えない」と言い放ち、「謹んで教皇聖下に反対申し上げる」と前置きした上で、「フォークランド諸島の帰属をめぐる住民投票の結果、1,500人余の島民の圧倒的多数が海岸領土の英国帰属を望み、望まないものはほんのわずかでございます。 これが島民が世界に向けて発したメッセージであり、島民自身による未来の選択が尊重されるべきであるものと存じます」 と述べ、「アルゼンチン出身の教皇」の発言に反論した。 一方で、フォークランド諸島のカトリック教徒たちは教皇フランシスコの同諸島の訪問を希望している。 他宗教・他教派との関係 [ ] フランシスコは、教皇選出以前から母国アルゼンチンにおいて他宗教・他教派との対話に積極的に取り組み、とりわけ、ユダヤ教・イスラム教・プロテスタント福音派等との間に信頼関係を構築することに貢献してきた。 ユダヤ教 [ ] で祈るフランシスコ(2014年の中東訪問にて)。 ベルゴリオはアルゼンチンのコミュニティと親密な関係を築いており、にはブエノスアイレスので行われたユダヤ教のに出席している。 ベルゴリオがこの訪問に際しユダヤ教徒らに「兄であるあなた方と共に」自身の心を見つめるために訪れたと述べた。 にブエノスアイレスでが発生し犠牲者85人の惨事となったが、ベルゴリオはこの事件の11周年となるに、未だ解決されていないこの事件に関して正義の実現を求める文書に署名した一人である。 2010年10月には再建された際にも、ベルゴリオは AMIA ビルを訪問しユダヤ教の指導者らと会談している。 ベルゴリオと共にユダヤ・カトリック共同の貧困者救済活動を行ったときの様子を回顧し、世界ユダヤ会議の元議長 ()は、「誰もが椅子に手をやり座るときに、ベルゴリオだけは椅子を取らず地べたに座ったこと」を思い出して、ベルゴリオの謙遜が特に印象的であったと記している。 にはブエノスアイレス・メトロポリタン大聖堂で追悼記念式典を共同で開催した。 の『』は、「ヨハネ・パウロ2世は、のいる祖国で幼少期を送り、によってユダヤ人コミュニティが失われた祖国ポーランドで大人になった。 ヨハネ・パウロ2世と違い、新教皇フランシスコは、実生活においてブエノスアイレスのユダヤ人社会とも良好な関係を維持してきた」と論評した。 また、キリスト教諸国における反ユダヤ主義に対して厳しい目を向けてきた米国最大のユダヤ人組織(ADL)では、会長自ら声明を発表し、「フランシスコ教皇の選出は、カトリック教会の歴史の上で意義ある瞬間」であり、教皇のこれまでの「経歴には未来に関して我々を安堵させるものがある」として、キリスト教とユダヤ教の友好的関係の構築に対する新教皇のこれまでの尽力を称賛した。 イスラム教 [ ] ベルゴリオは、アルゼンチンのイスラム教徒と対話をし、イスラム指導者との間に信頼関係を築いてきた。 ベネディクト16世がイスラム教を非難する発言をした時には、「教皇の発言には私の意見は反映されていない」と一線を画し、さらに「ヨハネ・パウロ2世が20年かけて築いてきたローマ・カトリック教会とイスラム教徒の信頼関係を、ベネディクト16世は20秒間の発言で破壊した」と強く批判した。 アルゼンチンのブエノスアイレスのイスラム共同体の指導者は、ベルゴリオが「いつもイスラム共同体の友人としての態度を見せ」、「宗教間の対話以上のもの」を有していることを指摘してベルゴリオの教皇選出を歓迎した。 ベルゴリオはアルゼンチンのモスクと神学校の両方を訪問し、イスラム布教指導者のシェイク・モフセン・アリー師にカトリック教会とイスラムコミュニティーの関係を強化することを呼びかけた。 アルゼンチン共和国イスラムセンター CIRA 総長のスメル・ヌフリ師は、これまでのベルゴリオの行動から、イスラムコミュニティーが彼の教皇選出に「宗教間の対話の強化に対する喜びと期待」を持っていると述べた。 ヌフリは10年以上にわたる CIRA とベルゴリオとの関係が、キリスト教徒とムスリムの対話構築を寄与してきたと発言した。 プロテスタント [ ] アルゼンチン人のなどの指導者らは、ベルゴリオの友人でもあるブエノスアイレス大司教座の財務管理者が福音派の信徒であること指摘し、福音派と友好的な関係にあるベルゴリオの教皇選出を歓迎した。 パラウによれば、ベルゴリオは、福音派の友人たちとくつろいでを飲んだりするだけでなく、聖書を読んだり、共に祈ったりすることもあるという。 ルイス・パラウは、福音派との関係について言及し、ベルゴリオが、両者の「架け橋を作り、敬意を示し、イエスの神性、処女受胎による降誕、磔刑後の復活、そして最後の審判での再来というカトリックと福音派の間の信仰上の共通点、また両者の相違点をも知る」者であるとしている。 さらにパラウは、ベルゴリオの教皇選出により「両者の緊張は和らぐだろう」と予想している。 他の福音派の指導者らも、アルゼンチンにおけるベルゴリオと福音派との関係に触れ、ベルゴリオが「プロテスタントを良く理解する」者であるという理解において一致している。 カトリックとプロテスタントの間の分断は、圧倒的にカトリックの多いアルゼンチンの家族でも時に見られ、教派間の対立の問題は、極めて重要な人間的課題である。 しかし、「フランシスコが教皇に選出されることによって、プロテスタントとカトリックの間の違いについて、家族の間で、いっそう融和的な雰囲気のなかで対話が出来るようになるだろう」と、福音派の指導者たちは、ベルゴリオの教皇選出を歓迎している。 宗教間の対話 [ ] ベルゴリオはまた、開放的な場で相互に敬意を払うことこそ、異なった宗教の相手から学ぶための不可欠な前提であるとし 、(ユダヤ教の聖職者)の ()との対話集『』 の中で、以下のように述べている。 対話は他者に対する尊敬の態度、他者には言うに値する良いものがあるという確信から生まれます。 それは、他者の観点、意見、提案を受け入れる余地が心のなかにあることを前提にします。 対話には、優しく受け入れることが伴います。 はじめから非難することではありません。 対話をするためには、防御の姿勢を解いて家の扉を開放し、人間的暖かさを受け入れることが必要なのです。 ブエノスアイレスの宗教的指導者たちは、ベルゴリオが「ブエノスアイレスの大聖堂を異なった宗教の儀式のために開放した人物」だと評した。 11月にベルゴリオは、中東の平和を祈るために「ユダヤ教、イスラム教、福音派、正教会の信仰の指導者ら」を大聖堂に招いた。 各宗教指導者らは、の報道機関向けの共同声明のなかで、ベルゴリオが「他宗教との対話のための深い度量の持ち主」であり、枢機卿が「宗教間の分裂を修復させることがカトリック教会の大きな役目の一つと考えて」いると評した。 教皇の職責について [ ] 教皇の生前退位について [ ] フランシスコはベネディクト16世の生前退位という異例の事態によって、教皇に着座したが、彼は名誉教皇の決断を「偉大な決断である」と称賛した。 医療の発達などで人間の寿命は延びたがそれに伴い心身の自由の利かない時間も増えたことに言及し「私もベネディクト16世に倣うつもりである。 しかしそれがいつのことになるかは神の助言を乞う」と自身も教皇の任に堪えられないようになったときには、教皇の座を去ることを明らかにした。 さらに2014年12月には2024年夏季オリンピックのローマ招致運動を進めるイタリアオリンピック委員会のメンバーと選手らとあった時には「友よ2024年夏季オリンピックのローマ招致成功を神に祈ります。 しかしその時には私はローマにいないでしょうが、みなさんに神の祝福があらんことを」と退位の時期を示唆した。 パパモビルと警護について [ ] に入る教皇フランシスコと同館を警護するスイス衛兵。 フランシスコは、のを自分と信徒を遮断する「壁」と呼び、警護には防弾ガラス張りのパパモビルの必要性を認めつつも「の」のような車に閉じ込められては、私は信徒に挨拶も愛することを伝えることもできないと、パパモビルを使用した警護を好まないと発言している。 そして現実問題として私の身に何か(cf.)が起きたとしても、年齢的に見ても失うものは少ない。 により、信徒と隔てられるより、命の危険を冒してでも、信徒の間近にいたい意志を表明している。 教皇の身辺警護をするに関しては、一晩中起立で警護する衛兵を気遣い、椅子とを用意し「あなたが守る人が座れと言っているのです」と椅子に座らせ、パニーノを食べさせたことがある。 教え [ ] 著書『』 における言説については「 ()」を参照 福音と司牧 [ ] イエス・キリストとの出会い [ ] 枢機卿に対する最初となる説教で、新教皇はの存在の内に歩むことについて話し、枢機卿らと信徒に教会の使命と「イエスとの出会い」を強調した。 信仰年に刺激を受け、司祭と信徒の皆様、私たちは皆ともに忠実に永遠の使命に応答する努力をしましょう。 人類にイエス・キリストをもたらすこと、人々をイエス・キリストとの出会いへと導くことです。 真実といのちへの道は真に教会に在り、同時に全ての人の内にあります。 この出会いは恩寵の神秘の内に私たちを新しい人間へと変え、キリストをその人生に受け入れた人々に与えられる喜びの百倍ものキリスト者の喜び を私たちの心の内に誘発するのです。 教皇は説教で「私たちは歩みたいように歩み、多くのものを構築できます。 しかし、イエス・キリストを告白しないならば、物事はうまくいきません。 私たちは福祉活動を行うにはなれるかもしれませんが、主の花嫁である教会にはなれません」と強調した。 続けて、狡猾に誘惑し信仰者を堕落させるを引き合いに出し、 ()の「主に祈らない人は、悪魔に祈る」を思い出すとした上で 、「誰でも、神に祈らない者は悪魔に祈っているのです。 なぜなら、キリストを告白しないならば、悪魔の世俗性、悪魔的な世俗性を告白しているからです」と述べた。 「霊的な世俗性」の拒絶というテーマは、教皇選出以前からベルゴリオの教えのである。 世俗性とは「自己を中心に据えること」であり、「教会にとって、そして教会にいる私たちにとって最大の危険である」と言った。 神の慈悲に対する応答としての道徳 [ ] ベルゴリオは、何よりもまず「キリストとの出会い」の文脈のなかで道徳というものを見ていた。 ベルゴリオによれば、キリストとの出会いは、慈悲によって出来したものであり、「出会いのあとイエス・キリストが私の罪に対して与えてくださった慰めが格別なものとしていまも私の内に残され」ているとしている。 「慈悲に対する応答」としての新しい道徳という観点が打ち出されるのは、そのためである。 このような道徳のあり方は、ひとつの「革命」であり、「予測不可能で驚くべき『一方的な』慈悲」に対する「意志的な努力を伴わない、素朴な応答」であった と、ベルゴリオは指摘する。 『ジェズイット』と題する自伝のなかで、17歳の頃、まだ学生であった自身の生き方を変えた出来事について、こう述べている。 私に奇妙なことが起きた。 何が起きたか解らなかったが、私を変えた。 不意打ちだったと言えよう。 半世紀後の私はこう解釈する。 それは一つの驚き、(神との)出会いという驚きであった。 私は自分が求められていることを理解した。 それは、一つの宗教的経験であり、待っておられる方がいるという不思議な体験であった。 私にとってその瞬間から、神は人間に「初めに」語る存在である。 人が神を探す時、まず神が人を探されており、あなたがたが神を見出そうとする時、神が最初に私たちを見出される。 福音宣教の転換 [ ] 教皇は枢機卿らに対する最初の演説のなかで、新しい福音宣教をテーマとして挙げ、「がその力強い息吹と共に神の教会に耐え忍ぶ勇気を与え、福音宣教の新しい方法を探し出す」ことができるようになることを念願していると語った。 この福音宣教に関するテーマは、これまでも折に触れて扱われてきたものであり、以前からベルゴリオは、「司牧のモードの転換」や、「大いなる創造」を伴って「教会の内部の生活の見直すこと」について語ってきた。 ベルゴリオは、教会が受け身の態勢で顧客を待っていては福音宣教などおぼつかないとし、また福音宣教というものが人々の多様な期待と新たな感性に反応せず、古い形態のままであってはならないと見做している。 ベルゴリオは、信仰を規制する教会から、進んで発信し、信仰を督励する教会となるよう、司牧のあり方の積極的転換を求め、信徒と聖職者の更なる協働に対しての自覚を促している。 女性の使命、母親の使命とは、キリストの復活をその子供や家族に証立てることでした。 彼女たちの役割はまさにそこに、つまり主への道を切り開き、主に従い、そのお姿を伝達することにあるのです。 信仰の視点には、いつも飾らないまなざしと深い愛が必要なのです … 主はまず女性の前に姿をあらわされ、そして他の者たちが従うことになったのです … 若者たちよ、主は生きておられるという希望を、戦争と悪と罪で老いて行くこの世界に伝えるのです。 さあ行きなさい、若者たちよ! 教皇就任後、2013年7月のブラジルでのワールドユーズデーでは若者に対し「キリストを告げ知らせに出かけるとき、わたしたちに先立ち、わたしたちを導いてくださるのはキリストご自身です」と説教した。 一方、ブラジルからの帰りの機内での記者会見で、女性聖職者については「教会は女性聖職者について否定してきたが、依然として扉は閉められている」と、ローマ・カトリック教会における女性聖職者については否定的な認識を示した。 2016年5月12日、教皇は女性が聖職に就く可能性を検討する委員会を設置する方針を示した。 司祭の1つ下の階級に当たる助祭職に女性が就くことが可能であるかを検討すると約束した。 独身制 [ ] 枢機卿時代のにの ()と共著した『天と地の上で』の中で、ベルゴリオは司祭の独身制についてこのように語っている。 独身制は規律の問題であって信仰の問題ではありません。 変えることのできる事柄です。 しかし、現時点において、私は全ての長所と短所を含めた上で、独身制の維持に賛成です。 なぜなら、弊害よりも10世紀にものぼる良い経験に裏打ちされているからです。 伝統には重みと妥当性があります。 ビザンチン、ウクライナ、ロシア、ギリシャのカトリック教会では司祭は結婚できますが、司教は独身でなければなりません。 もし、仮定上の話として、西方ローマ教会が独身制の問題を見直すとした場合、それは普遍的な選択ではなく、文化的理由によって行われることであろうと私は考えています。 ベルゴリオは同時に、規律は厳格に守られなければならず、従えない司祭は教皇庁から去らねばならない、と強調している。 小児性愛問題 [ ] 教皇は決意をもって聖職者における者による問題と戦うと宣言した。 バチカンは「教皇はとりわけ修道会に対し、が確立させた路線を継続し、性的虐待事件に対し断固たる態度で行動するよう要求した」と声明で述べている。 教皇は「独身制が小児性愛を生むといった考えは忘れ去られてよい」と述べ、独身制と小児性愛との関係性を一切退けている。 彼はこのように述べている。 小児性愛者の司祭がいるなら、その者は司祭になる前からそうなのだ。 しかし事態が発生した際には決して目を逸らしてはならない。 権力の座に就き、それを他者のいのちの破壊に用いることはできない。 米国で提案された解決策だったと思うが、他教区への左遷など馬鹿げた措置だ。 その者が問題を他所に背負って運ぶことにしかならない。 教皇は、虐待について信憑性のある告発がなされた司祭に対して強硬路線を取ることを提案し 、ベネディクト16世と同様、この問題への答えは以外にないと述べ 、前教皇が事件を把握しながら加害者の神父の処分を見送っていたなどの批判を浴びた事態を重く受けとめて、「性的虐待の被害者を保護するとともに、罪を犯した者に厳正な法的手段をとること」を求めた。 幼児洗礼問題 [ ] 5月、ベルゴリオは、の子供に対するを拒否するアルゼンチン人司祭らに対し、「の偽善的」であり、人々を救いから遠ざけていると断言した。 をの対象外として遠ざけることは一種の「新教権主義」であると厳しく批判し 、秘跡を自分たちの権限の誇示のための道具にしているとの見方を示した。 ブエノスアイレス大司教として、司祭たちを敢えてのから遠ざけられた家族のもとに派遣するとともに、律法主義的な偽善を克服する積極的提案の一環として、『宣教の鍵としての洗礼』と題した小冊子(共著)を上梓した。 離婚・再婚について [ ] フランシスコは使徒的勧告「 ()」において、結婚無効の宣言のための教会法的手続きを簡略化するという宣言をしている。 また、離婚と離婚者の聖体拝領を認めなかった従来のカトリックの姿勢に反し、「識別の手続きを経た結果、別居あるいは離婚し、新たな男女関係を始めている人が、良心のもとに、神と親しい関係を持つことに努め、そう信じていると判断された場合、和解と聖体拝領の秘跡に参加することを妨げることはできない」という言葉が、なんの確認もなく聖体拝領を認めるという誤解を生むような言葉が独り歩きしている。 社会教説 [ ] 貧困と経済的不平等について [ ] カトリック教会図書展におけるベルゴリオ 2008年 のラテンアメリカ司教会議において、ベルゴリオは「私たちは世界で最も不平等な地域に暮らしており、最も豊かな土地であったが無残に没落した」 と言い 、さらに「財の不当な分配が解消されずに、天に向かって悲鳴をあげるような社会的に罪といえる状況が作り上げられ、我々の多くの兄弟たちが充実した人生の営みを妨げられている」と、大きな社会的格差の放置を非難している。 9月30日にベルゴリオは ()で ()により組織された会議で「われらの時代の社会的負債」と題した演説をした。 そこで彼は「極端な貧困」と「大きな経済的不平等を引き起こしている不当な経済構造」が人権を蹂躙していると述べ 、1992年の () による「サント・ドミンゴ文書」を引用した。 ベルゴリオは社会的債務を「不道徳で、不公平で非合法なのもの」として批判した。 ブエノスアイレスでの48時間の公務員のストライキが起こったときには、「過酷の労働条件で迫害されている貧しい人々と正義からの逃走に喝采している裕福な人々」を比較し、後者に反省を求めた。 の経済危機のときには「自らの特権と過剰な富を非道な方法で獲得し、その財産の維持のために」腐心している権力者を批判した。 5月、アルゼンチンの貧しい人々に向けられた演説のなかで、ベルゴリオは、つぎのような発言で富裕層に再考を求めた。 「あなたがたは、貧しい人々のことを考えることを拒んでいます。 私たちには、貧しい人々を度外視する権利や絶望した人々が手に取った武器を取り上げる権利はないのです。 私たちは母のなる祖国の記憶を取り戻さなければなりません」。 にベルゴリオは「この街がその使い方を熟知し毎日服用している麻薬があります。 それは贈収賄と呼ばれるものです。 この麻薬によって良心は麻痺し、ブエノスアイレスは贈収賄の街とでも言うべきものになってしまいました」と慨嘆し 、の工場における労働者の搾取とホームレスの放置を、奴隷制度の今日的形態として非難した。 この街では奴隷制度が様々な形態で見られます。 この街の労働者は、工場で搾取され、移民であればその悪辣な搾取まぬかれる機会は乏しいのです。 この街には、が何年にもわたり放置されています … この街は、労働者をホームレスという構造的な奴隷制度から解放にする試みに失敗し続けています。 教皇着座後の6月11日の一般謁見において教皇フランシスコとして彼は「世界中の子どもたちの強制労働」について言及し、上記のように、強制労働下の子どもたちは「さまざまな形態の奴隷の状態に置かれ、搾取を受け、虐待や栄養失調、差別にも苦しんでいます」と上記のあるとおり、は「今日的な形態の奴隷制度」の一つとの認識を示した。 そしてが作成した「児童労働に対するレッドカードキャンペーン」の赤い表紙の冊子を示し「児童労働にを出すように」信徒らに促し、翌がの「児童労働に反対する世界デー」に当たることを指摘した。 ()の一環として、彼はにホスピスを訪問したことをよく覚えていた。 そこでは彼は12人のエイズ患者の足を洗い、その足に接吻した。 アパレシーダ文書 [ ] ブエノスアイレス大司教であったベルゴリオは、の委嘱を受けて、「アパレシーダ文書」 と呼ばれるラテンアメリカの司教の共同声明を発表し、アルゼンチンの社会問題をとりあげた。 同文書の中でベルゴリオは、ラテンアメリカで最も安価なものが「生命」である事実に教会は慄然とすると述べ、それが故に、アパレシーダ文書では「生命」に最も頻繁に言及したと記している。 児童虐待と人身売買について [ ] 児童虐待の問題を軽んじるラテンアメリカ地域の文化的風土を非難するベルゴリオは、「アパレシーダ文書」の中で、児童虐待を「人口統計学上のテロ」であると糾弾し、「子どもたちは残虐に扱われ、教育も受けられず、充分な食事も与えられていません。 そして少女たちは、売春を強いられた挙句に捨てられているのです」と指摘して、貧しい家庭の子供たちの悲惨な境遇に目を向けるべきだとしている。 ベルゴリオは、ブエノスアイレスでの児童の人身売買と性的搾取を、以下のように糾弾した。 この街では、人形と遊ぶかわりにバラックのゴミの山に放り出される少女たちが大勢いる。 彼女たちは誘拐され、売り飛ばされ、騙される。 街では女性や少女が誘拐され、性と虐待の対象となっている。 こうして彼女たちの尊厳は破壊されてゆく。 主イエスは人間の肉体をもって生まれ、そして死なれた。 しかし、この場所では、その人間の肉体が、ペットの肉体以下の扱いなのだ。 一頭の犬のほうが、ブエノスアイレスで奴隷扱いされている少女たちより大切に扱われている。 彼女たちは、足蹴にされ、ボロボロにされる。 妊娠中絶、安楽死と高齢者問題について [ ] ベルゴリオは、運動が「死の文化」と説明される以前から、聖職者と一般人に妊娠中絶とに反対するように呼びかけ 、アルゼンチンでの避妊薬の無償配布に反対していた。 ベルゴリオは大司教として、キルチネル政権の避妊薬の無償配布制度の創設と施行に対して公に反対を唱えた。 「アパレシーダ文書」ではカトリック的価値観に基づき、妊娠中絶と安楽死について、を受ける際の信徒の義務に絡めてこれを論駁した。 我々は、国会議員、政府首脳、医療従事者に対し、人命の尊厳と人類の家族のきずなを意識し、妊娠中絶と安楽死の忌まわしい犯罪から守り、阻止するよう希望します。 我々は自らが聖体拝領に相応しいか弁えるべきです。 すなわち、人々は聖体拝領に与りながら戒めに抗う行動や発言をすべきでないことを自覚しなければならない、ということです。 特に妊娠中絶や安楽死など、生命と家族に対する深刻な犯罪を助長してはなりません。 行政と政府の職員そして医療関係者は、このことの責任を自覚すべきです。 ただし、かつては破門であった妊娠中絶について、すべての司祭にゆるしの秘積において赦しを与える権限を与えた。 これによって、人工妊娠中絶を行ったカトリック信者が教会における信徒の交わりに戻るか否かは、疑問が残るところである。 ベルゴリオはまた、人間を単に労働力とのみ見做し、年をとったせいで価値のないものとして老人たちが使い捨てられる現代社会のあり方を「姥捨て文化」と呼んで強く非難した。 同性愛について [ ] には反対しており、それを「の動き」であるとしている。 の ()導入には反対し、それを「人類学的な先祖返り」であるとして 、ベルゴリオは以下のように述べた。 無知であってはなりません。 これは単なる政争ではなく、神の御計画を破壊する企てなのです。 法案の体裁を取っていますが、神の子供たちを混乱させ、欺こうとする偽りの父の動きなのです。 ととを見上げ、今この瞬間にアルゼンチンの家族を護られるよう懇願しましょう。 聖家族がこの神の戦いにおいて私達を助け、護り、共に在りますように。 教皇着座後の2015年にはが行われたが、この際にも同性結婚にかんして同様の主張をした。 この結果スロバキアでの同性結婚は否決となった。 2015年5月にアイルランドで同性婚を問う国民投票が行われ、賛成票が上回り同性婚が合法になると、バチカンは「人間性の敗北」と声明を出した。 フランシスコは「すぐに結婚をしないように」と警告した。 しかしベルゴリオは、同性愛を本質的に不道徳とする教会の教義を肯定しつつも、「を擁護し、を後押しする」として、同性愛者の権利擁護を訴えるなど、従来の教会にはなかった、現実の生きる場における人権への強い配慮を見せている。 教皇就任後の2013年7月、ブラジル外遊の帰路の会見では「私は同性愛者を『裁く』立場にない」と言明した。 同性愛者の聖職者は許されるべきであり、罪は忘れ去られている。 その性的傾向ゆえに同性愛者は疎外されるべきではなく、社会に統合されなければならない。 もし同性愛の人が主を求めていて、善意の持ち主であるならば、私に裁く資格があるだろうか。 彼らを排除すべきではない。 (同性愛の)傾向は問題ではない。 彼らは私たちの兄弟だ。 2014年10月にバチカンで開催された臨時総会では同18日に「家族」に関する最終報告案を出したが、同13日には改革派の聖職者によって「同性愛者はカトリック社会恩恵をもたらす」 との文言が盛り込まれた暫定報告書が作成された。 しかし保守派は教理省の「同性婚を、神が定めた結婚や家族と類似のものとする理由は、全くない」との文書を根拠とした「同性愛者については敬意と配慮をもって迎え入れなければならない」という従来のカテキズムのあまり違いのない内容で対抗した。 しかしどちらも採択に必要な3分の2の支持は得られなかった。 フランシスコは採択されなかった報告書の公開という異例の措置をとった。 そして同19日のパウロ6世列福式のためのミサにおいてフランシスコは同性愛、避妊などについて言及し「神は新しいことを恐れていない」と励ました。 2016年6月26日にはアルメニア訪問からの帰国途上の機内で、キリスト教徒やローマ・カトリック教会はこれまでの同性愛者の人々に対しての待遇を謝罪し、許しを請うべきだと語った。 この発言は、フランシスコ教皇の下でバチカンが同性愛者のコミュニティーに対し、より融和的なアプローチを取ろうとしている可能性を初めて示唆したと捉えられている。 だが、教会内の保守派からは直ちに批判の声が出ている。 「汚い戦争」をめぐる論争 [ ] 詳細は「」を参照 アルゼンチンは1970年代から80年代にかけての支配下にあり、と呼ばれる大規模なで多くの犠牲者が発生した。 軍事政権により拉致、拷問された2人の司祭に関して、当時イエズス会のアルゼンチン管区長であったベルゴリオ枢機卿の責任を問う声がアルゼンチン国内に存在する。 イエズス会の司祭でに賛同していたオルランド・ジョリオとヤーリチ・フェレンツは、5月、ブエノスアイレスのから当時として利用されていた海軍施設に連行された。 この施設では政治犯5,000人が殺害されている。 2人はこの施設で5か月間拷問などを受け、10月にブエノスアイレス郊外で半裸かつ薬で朦朧とした状態で解放された。 「汚い戦争」に関する著作で知られているジャーナリストのオラシオ・ベルビツキは、著書『沈黙』において、ベルゴリオが先の2人の貧困者支援活動を後援する一方で、政治的に影響を受けていた彼らのに関する懸念を軍事政権に伝えており、2人が身の危険を感じベルゴリオの庇護を求めた際もそれに応じなかったと主張している。 しかし、イエズス会ドイツ管区は、その声明において、2人が当時ベルゴリオによりイエズス会を追放されたというベルビツキの記述に由来する報道を否定している。 このベルビツキの主張に関しては、多くの異論も存在する。 ブエノスアイレス・ヘラルド紙の記者だったイギリス人のロバート・コックスは、ベルビツキの主張は誤りではないが、当時の危険な状況におけるベルゴリオの立場も考慮するべきだと指摘している。 コックスは、ベルゴリオは2人を軍事政権に引き渡すことなどはしていないが、同時に保護したり声を上げることもなかったと述べている。 にを受賞したもまた、コックスの見方に同意し、ベルゴリオには充分な勇気がなかったと言えるかもしれないが、軍事政権と協力したことはないとの見解を披瀝している。 軍事政権下の国家犯罪を追及している弁護士のミリアム・ブレグマンは、ベルゴリオが2人に関する裁判に消極的だと批判しており、オルランド・ジョリオの家族や汚い戦争の犠牲者の家族団体の創設者は、ベルゴリオ枢機卿の教皇選出に不満の色を見せている。 一方でベルゴリオの行動を肯定ないし称賛する者も存在する。 ベルゴリオの伝記『ジェズイット』の共著者であるフランチェスカ・アンブロジェッティは、ベルゴリオが軍事政権の指導者や収容所の責任者であった海軍長官の ()に面会して善処を求めるなど、ベルゴリオは、当時置かれた状況でできうる限りのことをやった「英雄」であると述べている。 に行われたインタビューにおいてベルゴリオは、2人の誘拐の一報を聞いて直ちに行動にうつり、ビデラとマセラに2人の釈放を求めたと答えている。 ローマ教皇庁の広報局長は、ベルゴリオは「独裁政権下で人々を救うために尽力し」ており、先の告発は信頼できず、彼がアルゼンチンの司法当局から罪を問われたこともないとコメントしている。 またこのような批判は、カトリック教会の信用失墜を狙った中傷であると主張している。 には、ヤーリチ・フェレンツ自身が、「オルランド・ジョリオと私は、ベルゴリオ神父によって告発されたことはない」として、ベルゴリオの責任および関与を明確に否定した。 ベルゴリオに助けられた人々の証言記録集『ベルゴリオズ・リスト Bergoglio's List 』が出版されている。 人物・逸話 [ ] 庶民感覚 [ ] 質素な生活を好むベルゴリオは、普段の移動の際にもやといったを利用し、バチカンへ向かうもを利用していた。 ブエノスアイレスでいつも新聞を宅配してくれていた新聞販売店の店主のダニエル・デル・レグノに、「ダニエルさん、枢機卿のホルヘです。 ローマからかけています。 いつも新聞の宅配をありがとうございます」と直接電話し、「ローマに滞在することになった」から新聞の宅配を停止してくれるよう依頼した。 3月26日にAFPの取材に応じた同店主によると、ベルゴリオは「3週間ほどで帰ってくる」と言い残してローマに出発したが、大司教(枢機卿)が教皇に選出されたので、これまで枢機卿が購読していた『ラ・ナシオン』紙についてどうすべきか地元の教会関係者に照会しようとしていた矢先の電話だったという。 店主とベルゴリオの関係は、仕事上というより個人的なもので、息子の洗礼を授けてもらったという。 電話を受けた当初はイタズラ電話だと思ったが、本当にローマ教皇からの電話だとわかると、「感動のあまり涙があふれ言葉が出なかった」と店主は語っている。 フランシスコはローマのイエズス会本部にも、師へ「教皇選出祝いの返礼のため」に自ら電話をかけており、電話を受けたイエズス会の職員を驚かせた。 教皇就任後も秘書官を通じてではなく、一般信徒にも直接自ら電話を掛けるフランシスコに、電話に出た信徒らが感動のあまり言葉を失うために、イタリアの主要紙コリエーレ・デラ・セラが「教皇電話対策マニュアル」を掲載したほどである。 ブエノスアイレス大司教区で部下だったフェデリコ・ワルスは、「本当に質素な方。 自動車も携帯電話も持たず、新聞も靴下も自分で買う。 いただいた贈り物は全て貧しい人にあげる。 大好物のチョコレートぐらいは食べたかもしれませんが」と語る。 住居に隣接するビジャソルダティ地区のスラム街に「十数年間、電車と地下鉄を1時間乗り継ぎ、ふん尿の臭いが漂う道路を歩いて通い」、ホームレスや外国移民の生活向上に尽力した。 「必要なのは愛と平和だけ」というのが信条で、集会では「枢機卿(カルデナル)」と呼ばれるを嫌い、「神父(パドレ)」と呼んでくれと述べるという。 あまり派手な送迎は好まず、その地で一般販売されているファミリーカーなどに搭乗して移動を行い、近隣のハンバーガーショップを控室に充てるなど滞在先でも待遇に頓着しない人物である。 幼年の求婚と司祭への道 [ ] 2013年現在ブエノスアイレス在住のアマリア・ダモンテという女性は、子供の頃にホルヘ・ベルゴリオ少年と同じフローレス地区に住んでいた幼なじみである。 同女性によると、彼女とベルゴリオ少年が12歳の頃、彼女はベルゴリオ少年から「君と結婚したときに買う家」として赤い屋根と白い壁の絵を描いたラブレターをもらった。 ベルゴリオ少年は「結婚できなければ司祭になる」と言ってアマリアに求婚したが、ラブレターはアマリアの両親に破り捨てられ、返信しようとした彼女はその父親に殴打された。 その後は彼女と会うこともできないまま、ベルゴリオ少年は聖職者の道を歩むことになったという。 彼女自身はそれを「恋愛というには幼い頃の単なる経験」としている。 文学と芸術 [ ] 文学や哲学に関する読書は広範にわたるもので、ドイツ・ロマン派の詩人の詩を暗唱し、の作品を愛好していた。 の学生時代には、アルゼンチン現代文学を代表する作家の講義も聴講した経験もあり、作家と親交のあったベルゴリオは、インマクラーダ学院で文学を教えていた時代に、生徒たちに書かせた作品の序文を書いてもらった。 神学分野では、 ()や、かつて指導を受けた、などの著作に傾倒していた。 寝室に向かう廊下の前にはの肖像画が掛かり、居室にはに捧げられた白い薔薇を生けた花瓶があって、悩みを抱えたときは聖女に執り成しを願うという。 美術ではを愛好し、最も好きな画は『白い磔刑』である。 サッカーと映画 [ ] フランシスコに贈呈された、ディエゴ・マラドーナのサインいりの「サッカーアルゼンチン代表フランシスコ」のジャージ。 週末にはブエノスアイレス近郊の小さなアパートで過ごし、その好きもよく知られている。 幼少期の頃から、地元のサッカークラブ、のに属している。 同クラブは胸に教皇のアイコン、背中のスポンサー表示欄に「FRANCISCO」と「天使の輪(同クラブの愛称は「聖人のクラブ)」の「教皇スポンサードのユニフォーム」を作った。 これはキルチネル大統領が会見の際に、ベルゴリオへの「お土産」として持参したものである。 で、賞を受賞した(所属)は、「法王がアルゼンチン出身ということが、国民にとって誇りです。 是非お会いしてみたい」とコメントし 、も「『神の手』がアルゼンチン人の法王を運んできた」として、教皇選出を歓迎した。 前のベネディクト16世ものサポーターであり、その前のヨハネ・パウロ2世はのサポーターであるなど歴代教皇がサッカーファンであることは珍しくないが、フランシスコがサッカー好きであることがセンセーショナルに報じられて以来、サン・ロレンソのほかスペインの首相がのサイン入りユニフォームを献上。 2013年8月15日にローマでとアルゼンチン代表の親善試合がローマで行われることに先立ち、両代表は8月13日、バチカンで教皇に謁見し、サイン入りユニフォームと銀の花束とオリーブの鉢植えを献上した。 フランシスコはイタリア代表、アルゼンチン代表の両選手団を前に「どちらを応援すればよいのか、難しいですね。 でも親善試合ですからね。 皆さんは良きにつけ悪しきにつけフィールドの内外でのことが真似されています。 あなた方には社会的責任があります。 言わせてくださいね。 試合にさいして、皆さんはフィールドでは美と寛大さと友情を見出すでしょう。 試合からそれらの一つでも失わったとしたら、その試合から強さは失われます」と、サッカー選手に、世間で注目されているゆえに、道徳的な模範の役割を果たように求めた。 またサッカーにまつわるカネと暴力の不祥事に言及し「それにはかかわらないように」と警告したほか、サッカーがビッグビジネスになったことやフーリガンのせいで家族連れがスタジアムから遠ざかっている現在の状況に憂慮の念を示し、両選手団にサッカー本来の素晴らしさを守るよう求めた。 そして「私のために祈ってください。 私も『神の定めたピッチ』で誠実にプレー出来る」と結んだ。 謁見後の会見でリオネル・メッシは「教皇にお会いできたことは、大変光栄なことです。 教皇がアルゼンチン人であるという事実は、ローマ教皇という存在に一層の偉大さや親しみを感じる」と発言した。 に先立ち、ブラジルのジウマ・ルセフ大統領がバチカンを訪問し、ペレのサイン入りユニフォームなどを贈呈すると「(アルゼンチン人の)私にブラジルの優勝を祈れということかな」と軽口をたたくとルセフ大統領は「いいえ、そうしていただければ大変うれしゅうございますが、すくなくとも教皇様には中立を維持してほしいと思います」と応じた。 フランシスコは、開幕にビデオレターを寄せて「ワールドカップが単にスポーツの祭典だけでなく団結の祭典になることが私の希望です。 スポーツは、自己の鍛錬、フェアプレーの精神、他者への尊敬の重要性という三つの教えを学ぶ場であり、より平和で調和ある世界を建設する術を示してくれます。 … 勝利の秘訣はチームメイトと対戦相手への敬意にあります。 自己とピッチにはありません。 … 勝利のために差別とエゴイズムと身勝手さを克服しなければなりません。 … 最後に勝利者としてトロフィーを高く掲げることができるのはひとつのチームですが、スポーツが私たちに教えてくれる効用を学んだ人々はみな勝利者です」と語った。 アルゼンチン出身の女優 ()のファンで、彼女が出演するの映画を好んで鑑賞する。 アルゼンチンと でと呼ばれている伝統音楽の伴奏でを踊ることも趣味の一つであるという。 著書 [ ] 単行本 [ ]• Bergoglio, Jorge 1982 スペイン語. Meditaciones para religiosos. Buenos Aires: Diego de Torres. Bergoglio, Jorge 1992 スペイン語. Reflexiones en esperanza. Buenos Aires: Ediciones Universidad del Salvador. Bergoglio, Jorge 2003 スペイン語. Buenos Aires: Editorial Claretiana. Bergoglio, Jorge 2003 スペイン語. Ponerse la patria al hombro: memoria y camino de esperanza. Buenos Aires: Editorial Claretiana. Bergoglio, Jorge 2005 スペイン語. Buenos Aires: Editorial Claretiana. Bergoglio, Jorge 2006 スペイン語. Buenos Aires: Editorial Claretiana. Bergoglio, Jorge 2007 スペイン語. El verdadero poder es el servicio. Buenos Aires: Editorial Claretiana. Bergoglio, Jorge 2009 スペイン語. Buenos Aires: EPOCA-USAL. Bergoglio, Jorge; Skorka, Abraham 2010 スペイン語. Seminario Internacional: consenso para el desarrollo: reflexiones sobre solidaridad y desarrollo. Buenos Aires: EPOCA. Bergoglio, Jorge; Skorka, Abraham 2013-04-14 英語. On Heaven and Earth: Pope Francis on Faith, Family, and the Church in the Twenty-First Century. Image. 教皇フランシスコ、ラビ・アブラハム・スコルカ『』八重樫 克彦、八重樫 由貴子訳、ミルトス、2014年7月(日本語)。 Bergoglio, Jorge; Skorka, Abraham 2010 スペイン語. Sobre el cielo y la tierra. Argentina: Sudamericana. Bergoglio, Jorge 2011 スペイン語. Nosotros como ciudadanos, nosotros como pueblo: hacia un bicentenario en justicia y solidaridad. Buenos Aires: Editorial Claretiana. 論文・記事 [ ]• Cardinal Jorge Mario Bergoglio 2008-06-18 英語. Cardinal Jorge Mario Bergoglio 2010-2011 スペイン語. 回勅 [ ]• 教皇フランシスコ『回勅 信仰の光 () 』カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画訳、カトリック中央協議会、2014年2月7日(日本語)。 発表年月日:2013年6月29日• 発表年月日:2015年5月24日 使徒的勧告 [ ]• 教皇フランシスコ『使徒的勧告 福音の喜び () 』日本カトリック新福音化委員会訳、、2014年6月20日(日本語)。 発表年月日:2013年11月24日• 教皇フランシスコ『使徒的勧告 愛のよろこび () 』吉池好高訳、カトリック中央協議会、2017年8月30日(日本語)。 発表年月日:2016年3月19日• 発表年月日:2018年3月19日• 教皇フランシスコ『使徒的勧告 キリストは生きている () 』カトリック中央協議会事務局訳、、2019年9月2日(日本語)。 発表年月日:2019年3月25日 使徒的書簡 [ ]• 教皇フランシスコ『使徒的書簡 あわれみあるかたと、あわれな女 () 』カトリック中央協議会、2017年2月3日(日本語)。 発表年月日:2016年11月20日• 発表年月日:2015年8月15日 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• カトリック教会では「就任」もしくは「着座」という用語が使われる。 教皇の公式名は名で「フランキスクス」ないし「フランチスクス」、名で「フランチェスコ」であり「フランキ(チ)スクス1世」「フランチェスコ1世」ではない。 この点については、終了の日に発表された、による公文書に以下のように記されている。 新教皇が「フランシスコ1世(Primum)」と呼ばれるようになるのは、後代の教皇に「フランシスコ2世」が出現した時である。 日本のカトリック教会では、聖人名をラテン語の奪格で表す慣習があり、新教皇名は、主格では Franciscus で、 Francisco がその奪格である。 Francisco の読みは、本来の教会ラテン語発音では「フランチスコ」となるが、日本に最初にキリスト教を持ち込んだスペイン出身のなどの影響で、スペイン語に由来する「フランシスコ」読みが広く定着している。 したがって、新教皇の母語であるスペイン語の読みと一致したのは単なる偶然であるといえる。 この絵は、のドイツの画家 ()が1687年に描いたものであり、の ()に所蔵されている。 古代教父のによる『反異端論』第3巻22章の記述に画想を得たもので、「結び目」はにおけるの神への背きを象徴し、「結び目を解くマリア」は、その罪の償いを寓意しているという。 イヴの背きとその贖罪をするマリアの従順との対比から生まれたマリアの称号の一つ、「新しいイヴ」という発想から生まれた絵画の一つである。 なお、この絵画が描かれた直接の由来は、以下のようなものである。 ドイツの貴族ヴォルフガング・ランゲルマンデル(1568~1637)は、妻が彼との離婚を望んでいたことに悩み、英知と経験さで尊敬されていたイエズス会のレム神父のもとに相談に行った。 当時のドイツでは、結婚式のときに生涯添い遂げることを象徴的に示すため、ウェディング・リボンで新郎・新婦のそれぞれ片方の腕をひとつに結ぶ習慣があった。 ヴォルフガングは、今はからみあってしまっていた自分たちの結婚式のリボンをレム神父のところに持って行き、レム神父はその結び目をときながら聖母マリアに熱心に祈った。 すると、その願いが聞き入れられ、ヴォルフガングは離婚を避けることができ、生涯幸福な結婚生活を送ることができた。 1700年、新世紀を祝福されるために、ヴォルフガングの孫のヒエロニムス・ランゲルマンテル神父が画家のヨハン・シュミットナーに依頼して書かれた絵がこの「結び目を解くマリア」の絵である。 2014年4月27日に、フランシスコ教皇によりヨハネ23世とともに列聖され、聖人である。 、、、、、、、、。 なお、教皇として初めてTwitterを利用したのは、先代のである。 この「足を洗う」という行為は、ヨハネによる福音書()におけるイエスに倣う所作である。 「古代ユダヤ社会では、主人の足を洗うのは奴隷の仕事」であり、「イエスは奴隷の仕事を引き受け、弟子たちの足を洗う。 足を洗うことは、この世の罪のために十字架で死ぬという、これから行う偉大な犠牲的行為の象徴」 と考えられている。 指名された8名の枢機卿および1名の事務局長は以下のとおり。 枢機卿: ()市国行政庁長官、 ()名誉大司教()、 ()()、 ()および大司教()、 ()大司教()、 ()大司教()、大司教()、 ()大司教()。 事務局長: ()()。 聖書的伝統において、悪魔は「世俗性」、すなわち現世的な関心と緊密に結びついており、、などとともに、、「この世の君」( 、, , 、, など)も悪魔の異称と考えられてきたと、は指摘している。 から日本布教を依頼されたの神父は、、において、日本の潜伏キリシタンを発見した。 最初に神父に話しかけたのはイザベリナ杉本ゆりであり、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と、その信仰を告白した。 その後、浦上の信徒たちは、日本人修道士バスチャンが殉教前に遺言した、カトリック司祭を識別する三項目(マリア崇敬、終生独身制、ローマ教皇への服従)を確認した上で、復活祭の前の「四旬節」について質問した。 人間に対する神の愛の先行性に関しては、やを参照。 「種を蒔く人」のたとえ(、、)参照。 女性とキリスト教の伝統に関しては、神学大学院のテレサ・バーガー教授(典礼学)による『女性たちが創ったキリスト教の伝統』(明石書房、2011年)などを参照。 2012年9月時点での枢機卿の表現は少しこれ(週刊誌 La Vie 2013年3月14-20日号)とは異なり、同じ La Vie によれば、枢機卿は洗礼拒否に見られるような「態度」を「律法主義で偽善たる新教権主義」と「形容」した、となっている。 「グノーシス主義の偽善的ファリサイ派」「律法主義で偽善たる新教権主義」双方とも、福音書の逸話( 、など)を踏まえた言い回しである。 婚姻をとし、神が結び合わせるもの()とするカトリックでは、シングルマザーは教義に沿わない部分もあるが、その子供の洗礼を拒否することは、救済に例外を認めなかったイエスの教え(、、)とは本質的に異なるものであり、この発言は、祝福されない者の子という律法主義的解釈によって他者を裁く偽善的態度への批判となっている。 前任のが在位していたには、教理省が「」()を公布しており、フランシスコの同性愛者の聖職者を容認する発言は前教皇の立場とは異なる。 ただし「同性愛行為や同性結婚は罪だが同性愛の欲求を持っているだけでは罪とはならず、同性愛者も異性愛者と同じく受容されなければならない」という教理は発行の「」2357-2359節()にもある。 項目「」も参照。 出典 [ ]• カトリック中央協議会. 2016年5月5日時点のよりアーカイブ。 2019年3月27日閲覧。 「」『』、2013年3月14日。 2017年7月21日閲覧。 の2013年3月20日時点におけるアーカイブ。 「」『』、2013年3月19日。 2017年7月21日閲覧。 の2013年7月21日時点におけるアーカイブ。 吉村英輝「」『』、2013年3月15日。 の2013-03-15時点におけるアーカイブ。 朝刊9面。 Libreria Editrice Vaticana. 2014年3月30日時点のよりアーカイブ。 2019年3月27日閲覧。 YOMIURI ONLINE(読売新聞). 2013年3月19日. の2014年2月19日時点におけるアーカイブ。 2019年3月27日閲覧。 カトリック中央協議会. 2019年3月27日閲覧。 Latino. の2014年10月27日時点におけるアーカイブ。 2017年7月21日閲覧。 examiner. 2013年3月16日. の2013年12月16日時点におけるアーカイブ。 2017年7月21日閲覧。 2013-03-13. 2013年3月16日閲覧。 2013年3月18日. の2016年4月7日時点におけるアーカイブ。 2017年7月21日閲覧。 6-8頁。 Baltimore News Journal. 2013年3月13日. の2013年3月16日時点におけるアーカイブ。 2013年3月13日閲覧。 Facultades-smiguel. org. 2013年3月16日時点のよりアーカイブ。 2017年7月21日閲覧。 Catholic Online. 2013年3月14日. の2013年3月17日時点におけるアーカイブ。 2017年7月21日閲覧。 Catholic Online. 2013年3月14日. 2013年3月19日閲覧。 El Litoral. 2013-03-14. 2013年3月14日閲覧。 2015年3月15日. 2019年3月27日閲覧。 2019年3月27日閲覧。 ジョセフ・マカダム「結び目を解くマリア」 [ ]• 「教皇フランシスコと「結び目を解く聖母マリア」」『カトリック生活』ドン・ボスコ社、2013年8月号。 11-13頁。 2013年3月14日閲覧。 [ ]• Bellos, Alex 2001年12月23日. 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パウロ

ヨハネ パウロ 1 世

ダンスパーティの中でヨハネパウロ2世が宝塚のトップスターのように咲いていますよ。 おはようございます。 今日のアリスの森の目覚めです。 No,1387 今朝は、雨の朝を迎えています。 白水山はすっぽり雲の中です。 アリスの滝は、増水して 激しく水音を立てて流れています。 今日のアリスは 火曜日で定休日です。 🥀今日のガーデン 雨でアジサイが首を垂れています。 その中で、 茎がしっかりしている ガクアジサイ まだしっかり立っています。 ダンスパーティの中で ヨハネパウロ2世が 顔を出しています。 宝塚のトップスターみたい😊 🗓今日は火曜日 素敵な一日をお過ごしくださいね。 🙏 今日もありがとう。

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