最上 も が うつ。 最上 (重巡洋艦)

精神科医 最上 悠のブログ

最上 も が うつ

僕は、あまり詳しくはないのですが、元のさんが、14日自身のチャンネルの生配信でこれまで明かしていなかったでんぱ組の脱退理由について、 であったことを涙ながらに告白したそうです。 イメージがついてまわる芸能人の方が社会に打ち明けることはとても勇気がいる事だったと思います。 なにより、これまでの数年間、告白できずに抱えていた葛藤に思いを馳せると、同じを患う人間として、胸が締め付けられる思いでした。 というものは世間に急激に認知され出しては来ていますが、まだまだ理解することがとても難しい病気です。 患者は、などの気分の落ち込みだけでなく、頭痛や腹痛などの身体的な痛みなどの病気自体がもたらす病状に苦しめられるのは当然の事ですが、これに加えて 日々の生活の中で、実に様々な苦しみや葛藤と闘うことになります。 もちろん、抱える状況や病状などによって実に様々ではありますが、僕がになって特に悩み、苦しんだこと(今も苦しんでいること)を書き綴りたいと思います。 最上さんは、同じような悩みを抱える人に少しでも寄り添そえればという思いがあるとおっしゃっていますが、僕も同じ気持ちでこの記事を書きたいと思います。 それでは、よろしくお願いします。 スポンサーリンク• 自分の価値を見失う まず、僕が日々苦しめられているのは、病気になったのが他の誰でもなく、なんで自分だったのだろうか?という思いです。 僕は、病気になった人は全員が、まさか自分がという思いに苦しむものだと思います。 人間誰しもが、 自分に絶対的な価値があると 信じる心があると思います。 それは悪いことではありません。 むしろ、僕はこの自分を信じる心があるから人は生きられるのだと思います。 自分は弱い人間で価値がない人間なのかもしれない。 僕は、この思いと日々闘うことになりました。 人は自分が大好き 学生時代に集合写真を貰った時に、はじめに誰をみましたか? 好きなヒトを探しましたか? 違いますよね。 恐らくですが、全ての人がまず自分を探したと思います。 とっても当たり前で忘れがちですが、人はみんな自分に一番関心があり、特別な存在として大切にしているんです。 AさんはAさんをはじめに探しますが、それはみなに当てはまるものでも真理でもないんですね。 BさんはAさんではなく、Bさんをみているんです。 人は自分が凄いと思っている たとえ、自分なんてダメ人間だと思っている人も、人から否定をされたり非難をされて苦しむのは、少なくとも心の底では自分自身では自分が良い人間・優れた特別な人間だと思っているからだと思います。 例えば、上司に怒られて落ち込んだり、苦しむことは、自分はなんてダメなんだろうなどと自分自身では思っていない証拠です。 仮に自分自身が心底ダメ人間だと思っているのであれば、上司に怒られてもむしろそれは当然。 だって、ダメ人間なのですから。 それどころか、上司はまだまだ自分のダメなところを正確に把握できていないと感じるかもしれません。 にせよ、こう思っていたのならば、苦しむことはないと思います。 僕はとなり、この苦しみとは比較にならない程の苦しみ。 つまり、自分自身を徹底的に信じる力が失われてしまい、自分の存在価値そのものを疑うことになってしまったのです。 スポンサーリンク 障害受容との闘い 僕は、自分は病気になって当然だと心から思える人なんていないと思います。 自分以外のにかかってしまった人をみた時には、とても気の毒だと感じると思います。 でも、とっても悲しいけど恐らくそうなってしまう原因がその方々にはあったのだろう。 特に、健常者の方は患者の方をこのように捉えるしかありません。 でも、その考えは になった当の本人(僕)も同じなんです。 僕は病気になったと言われても、どこかで自分だけは違う。 自分だけはそんな病気にならなければいけない悲しい原因なんてないんだ。 他のの方たちと、自分は違うんだ。 僕はこんな風に思っていました。 (まだ、具合が悪くなるとそんな考えがよぎってしまいます。 ) になった方は自分だけは他の患者の方とは違うんだとどこかで思いたいのだと思います。 そうしなければ、苦しくてやってられない程に、受け入れるのが苦しいものだと僕は自分がその身になって実感しました。 一体、何故こんな酷く苦しい目に遭わなければいけないのだろう。 障害受容という、感情の欠けらもない言葉で片付けるにはあまりに苦しい葛藤が経験者には襲いかかります。 最後に 自分自身の存在価値に疑いをもってしまうということは、他者から自分を否定されるという苦しみよりも遥かに苦しいものです。 病気にならなかったら、絶対にこんな事は考えもしなかったと思います。 健康的に生きていたら、全く知らなくても良いこと、というか知らない方が良いとすら思います。 僕は、にならなかったのならば、こんなことは知りたくなかったと思います。 僕は、当たり前だと思っていた自分自身や世界が揺らいでしまう恐ろしさや不安と日々闘っているかたが多くいらっしゃることを知り、自分だけではないのだと大変力になりました。 僕は、自分自身に価値があると自分自身で信じられるような日がいつの日かやってくることを信じて、焦らずゆっくりと、なんとか毎日を生きています。 生き方に正解がないのと同じで、との向き合い方にも正解はないのだと思います。 この記事を読んで、ほんの少しでも気持ちが軽くなる方がいればとても嬉しいです。 最後まで、ご覧いただきありがとうございました。 👇応援のクリックを1個ずつポチっとおねがいします 1日1回まで有効 👇 P. S 僕が、苦しみの中で習得した気持ちを楽にする方法()について記事を書きました。 少しでも、苦しみを抱えるかたの気持ちが軽くなることを願っています。 興味がございましたら、ご覧ください。 また、コチラの書籍もおすすめです。

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マンション最上階の住み心地はどう?メリットとデメリットで徹底解説!

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説あり) 兄弟 義光、? 、、、 妻 : 釈妙英(の娘) : の娘 :天童御前(の娘)、他 子 、 、、、、、竹姫(室)、松尾姫(室)、(側室)、禧久姫(室) 最上 義光(もがみ よしあき)は、から前期にかけてのの。 第11代当主。 出羽の初代。 の伯父にあたる。 において東軍につき、と戦い、最上家を57万石 の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。 生涯 [ ] 家督相続まで [ ] 15年()1月1日、第10代当主・と母・の娘との間に長男として生まれる。 幼名は 白寿丸。 永禄元年()または3年()に、将軍・よりを賜り、源五郎 義光と名乗った。 3年()3月には、攻めにて初陣を飾っている。 しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、においてからの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。 永禄6年()、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁し 、この時に義守・義光父子は幕府よりで遇されている(『言継卿記』)。 永禄7年()には義光の妹・(のちの保春院)がに嫁ぎ、永禄10年()には長男・梵天丸(後の)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。 元年()頃。 、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。 5月に重臣・の仲裁で父子が和解することになる。 そして、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年()に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。 しかし2年()1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。 ・・・らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。 9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。 以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。 従来、義守が義光を廃嫡して次男のに後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている(詳細はを参照)。 出羽統一戦 [ ] 家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏庶流の天童頼貞・・などは依然として義光に従わず、主・白鳥長久は、中央の実力者・に出羽守への推任を願い出るなど 、この時点ではまだ一郡 の支配すらもおぼつかない状態であった。 そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。 なお、このころまでに正室をより得て盟約を結び、天正3年()に嫡男が誕生している。 天正5年()、天童頼貞を盟主とすると戦うも決着せず、和睦して頼貞の娘(天童御前)を義光の側室に迎えた。 天正6年()、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。 義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込み、連合軍に手痛い打撃を与えた。 浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。 天正8年()、義光は満兼の重臣・に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、を手中に収めた。 天正9年()からにも兵を進め、まずはの姻戚である主・をで破り小国城を攻略。 夏には重臣の主・を調略する。 天正10年()、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。 天正11年()、庄内のが最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣のらを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。 不意を突かれた義氏は自刃した。 天正12年()、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。 続いて主・を攻めて自害させ、を滅した。 また、父・頼貞の跡を継いだを攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。 そこで義光は、満延の嫡男・に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・を内応させてを攻略する。 追い詰められた頼澄はを頼って落ち延びた。 こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。 天正14年()、と有屋峠で戦う。 緒戦は敗北するも、嫡男・義康とらが反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。 天正15年()、大宝寺義氏の弟・がに接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・(上杉家臣・の子)は越後に逃れた。 天正16年()2月、が1万の軍勢で義兄・を攻撃すると()、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。 閏5月、により羽州探題に任命される。 8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が家臣の、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じ、で最上軍は大敗し、庄内地方は上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還された。 その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・が経由で秀吉に接近、義光は以前から懇意であったを通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。 天正17年()5月、徳川家康は片倉景綱に書状を送り、伊達政宗が最上義光と友誼を篤くするよう要請している。 義光はに援軍を送ったという 豊臣政権下 [ ] 天正18年()、豊臣秀吉のに参陣し、にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石 の安堵を受けた。 この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・伊達政宗よりさらに遅参しているが、事前に家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった。 またの際に発生したに乗じて小野寺領に出兵し、(の一部)を削り取った。 なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺を目論んでいたとされることがあるが、この説が正しいかは諸説ある(参照)。 天正19年()正月、京都に上洛し 、従四位下侍従に補任された。 同年、家康がの征伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。 この討伐に同行していたが山形城に立ち寄った際、三女・の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。 義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。 駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。 また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。 天正20年()、に備えて肥前に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。 名護屋在陣中、国許の家臣・に対して「いのちのうちニ、いま一ともかみのつちをふみ申たく候、みつを一はいのみたく候」という主旨の書状を送って本音を吐露しており 、戦況が厳しくなるなかで、望郷心が強くなっていることを示す記述がなされている。 同年より山形城の改築に取り組み始めた。 このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられる。 3年()、小野寺義道の忠臣・に偽の書状を送る。 この計略にはまった義道は道為を成敗した。 その後、義道は義光相手に連敗し()では西軍に味方し、戦後改易された。 文禄4年()、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際()、娘の駒姫も連座して京三条河原で処刑された。 15歳だった。 一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったという。 義光は家康の取り成しもあって必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。 義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。 前田利家・上杉景勝ら28名とともに連名で起請文を出すが 疑いは晴れず、政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。 この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。 この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。 これ以降、の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、義光にとって恩義のある徳川方への傾斜をますます強めていく。 3年()、会津主・が家臣団の争いを押さえられずに転封されると()、会津には上杉景勝が奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために送り込まれた。 景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。 同年8月秀吉が死去すると、豊臣政権は五大老・五奉行による集団体制で政務を行うが、翌年には五大老筆頭・前田利家が死去する。 五奉行の石田三成も蟄居し、徳川家康が大阪城西の丸で政務を行う。 慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い) [ ] 詳細は「」を参照 慶長5年()、家康は会津の景勝が軍備を増強していることを詰問する。 上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる『』で返答した。 これを受けた家康は6月、を開始した。 義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。 しかし、家康が会津征伐に赴く最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵した。 家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、政宗、らに景勝の牽制を命じ上方に引き返した。 これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生したは、急ぎ引き返した。 一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。 義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。 しかし、義光が東軍方のと結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。 こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。 景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。 これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。 わずか350名の最上兵が駐屯するの守将・は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。 光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。 光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。 続いて上杉軍は山形城の要であるを攻撃するが、守将・率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。 他にも上山城の里見民部、の楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた。 義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗に援軍を要請した。 この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた()。 政宗は率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。 一説によれば、政宗は重臣・から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。 9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、に退却した。 西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか! 」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。 しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。 結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。 兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。 上杉軍が退却すると最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、谷地城()に籠る主を下した。 上杉氏が和平交渉へ向けて動いている間に、下秀久を先手として庄内地方に進攻し短期間のうちに十五里ヶ原の戦いで失った旧領の奪還に成功した。 義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められ、上杉領であるを除く現在の山形県全土と(との領土交換により、当初所有していた・と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。 また、戦前交渉の失敗や秋田氏の勢力が増大することを恐れたの厭戦的態度から、戦後に義光は秋田実季が東軍を裏切ったとする讒訴を家康側に述べ、これが実季をに移封させる要因の一つともなった。 江戸時代 [ ] 江戸幕府成立以降、義光は領内の復興に尽力した。 自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。 彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役 年貢以外の税金 をばかけぬ」と謳われた。 居城であるを改築し、国内有数の広さのに拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。 まず、商人町を整備するため、山形城下においては・を免除し、間口4間半から5間、奥行30間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。 さらに上杉から奪い返した日本海の要津・を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる2本の街道を改修・拡幅するとともに、の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。 また職人町は「御免町」として諸役が免除され、職人の中には家臣並の待遇を受けた者も居た。 当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒で人口19,796人。 これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。 農政面では、治水工事を積極的に推進し、・らに命じ・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、の開発を進め、農業生産力を向上させた。 大宝寺城を改築してと改称し、自らの隠居所とした。 義光と嫡男・義康の関係は当初良好であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。 このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。 そんな中、8年(、・説もあり)、義康が何者か によって暗殺された。 この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない(参照)。 家康は、義光が近侍させていた次男・家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。 この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。 既に義康は最上氏の次期当主として家臣に偏諱を与える程の権限を有しており、家中を動揺させた。 義康の死が最上家改易の遠因になったことは指摘されることではあるが、改易には家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。 城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。 義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく手厚いものであった。 慶長10年()、次男・家親が侍従に補任される。 晩年 [ ] 慶長16年()3月、上、 とに叙位・任官する。 その後、新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。 翌年堀普請を激励する文には、体調が良ければ現場に行きたいという趣旨を書き悔しがっている 慶長18年()、体調は一層悪化したと思われ、正月の拝賀は使者が赴いている。 同年4月、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・に謁見、さらにその後駿府に向かうが神奈川から使者を出したようである。 9月、再び駿府の家康に謁して最上家の今後を託し、家康から薬などを下賜された。 また、「天下呑分の杯」を拝領した。 その後江戸城で秀忠に拝謁し、家親が江戸に在勤している間の国役三分の一を免除された(『徳川実紀』)。 明けて慶長19年()1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。 葬儀当日、寒河江肥前守、寒河江十兵衛、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。 義光の墓所は山形市鉄砲町のにある。 光禅寺は創建当初現在の七日町に在ったが、鳥居氏転封の際鳥居氏の菩提所長源寺と改められ、光禅寺は旧臣らの手によって現在地に移転された。 義光死後の最上家 [ ] 義光の死後、後を継いだ家親は3年()に急死した。 家親の子・が後を継いだが、後継者をめぐって内紛が発生し幕府の仲介でも解決しなかったため、家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年()に改易された()。 義俊は1万石を与えられたが早世し、後を継いだは幼少のため更に5,000石に減らされ、以後の最上家はとして明治維新を迎えた。 最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。 また、義光の四男・山野辺義忠の家系は家老として明治維新を迎えている。 テレビ時代劇『』に登場する国家老・ 山野辺兵庫は、義忠の子・であり、義光の孫にあたる。 13年()2月11日、よりを追贈された。 52年()、霞城公園内に「最上義光公勇戦の像」が作られ、元年()12月1日、最上家史料を展示し義光を顕彰する施設として、山形市によってが建設された。 人物・逸話 [ ] 戦略・計略 [ ]• 義光は調略による敵陣営の切り崩しを得意とした。 内応工作に応じる者が多かったのは、その度量の広さが知れ渡っていたことが大きい。 例えばは義光に降った旧臣らの嘆願を受け、逐電した直系子孫を呼び戻し大江氏歴代の菩提を弔うことを許されている。 義光は常々「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。 どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。 義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺からを招聘していた。 天正2年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。 長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。 白鳥長久の娘(日吉姫)を嫡男義康の妻に迎える為として、蔵増()から谷地()へ至る「向去り()道」を(大膳亮)に命じて造らせる一方、その縁談が破談となり白鳥長久をへ誘い出し暗殺すると、向去り道を一気に攻め上りを落城させた。 身体的特徴・武略 [ ]• 義光は幼少の頃から背が高く、5,6歳の時には既に12,3歳程度の背丈に見えたと伝わる。 また、力が強く武勇にも優れていた。 永禄4年(1561年・16歳 頃には7、8人がかりで動かした大石を一人で易々と転がしたという。 同年、父の供をして高湯温泉(現:)へ湯治に行った際、鹿狩りのあと眠りについていたところ、盗賊数十人に襲われた。 義光は先頭に立って防戦、2人に重傷を負わせ1人と組み合って刺殺、その際に顔に複数の傷を受けたという。 我が子の武勇を賞して父は名刀・笹切(伝? )を授け、義光はこれを受け取ると感動して言葉もなく涙していたという(『』『』に記述あり)。 蔵王温泉には、家臣と力比べをしてただ一人で持ち上げたという「義光公の力石」が残されている。 また、最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒は、重量およそ1. 8kg(刀の約二倍)であり、義光が実戦で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったと想像できる。 家臣の制止を振り切った義光が単騎突撃を行い、敵の首を取って自陣に引き返してきたのを見たが涙ながらに「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか、御大将ならば軽々しい振る舞いは控えられよ」と諫めたため、義光は面目なさげに首を投げ捨てたという話が伝わっている。 人情家 [ ]• 最上伊達両家の抗争を止めようと駕籠で乗り付けた義姫に、幼い我が子が慕い戯れたのを見て号泣したという。 義光は豪傑肌の人物を好むところがあった。 義光は、由利一族の大井五郎という剛力のものが横暴だとして、土地の者から討ち果たすよう頼まれた。 義光は五郎を山形城に招いたが、5、6人前の食事を平らげる五郎の男ぶりにすっかり感心し、暗殺計画をすべて打ち明け褒美をとらせて帰らせたという。 鮭延秀綱の家臣・鳥海勘兵衛が、義光の正室付きの侍女・花輪に惚れ、隠れて文のやりとりを重ねるようになった。 ある日落とした恋文よりこのことが発覚し、義光はこの二人に死罪を命じた。 しかし義光は鮭延秀綱の諫言により罰することをとりやめ、花輪を勘兵衛の妻として賜った。 勘兵衛はこれに感激し、慶長出羽合戦では鮭延秀綱をかばい討ち死にを遂げ、花輪も夫のあとを追い自害した。 勘兵衛の遺書を目にした義光は、二人を罰しようとしたことを大いに恥じ涙を流し、丁重に夫妻を弔った。 伊達家に嫁いだ妹・義姫を溺愛していたと言われ、彼女とやりとりした手紙が現在も多数残されている。 「さてもさても御ねんころに候て、一度御めにかかり、そら(虚)もまこと(実)もかたり申度候」といった文面からは、兄妹の仲の良さがよくわかる。 長らく、義光はその名前から「よしみつ」、「よしてる」等と呼ばれていたが、彼が義姫に宛てた手紙に自らの名を平仮名で「よしあき」と書いていたことから、「よしあき」が正しい呼び名であることが明らかになった。 義光が亡くなってしまった後、義姫は「兄上が亡くなってしまってからは、最上家はすっかり変わってしまった」と、伊達政宗に嘆いたとされている。 晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず、自筆で書状を記していた。 文化人として [ ]• 義光は『』等の古典文学に親しみ、家臣にも文学を熱心に奨励した。 特に『』に関しては、上洛中にの講義を受けて切紙(免状)を授与された。 また、・・等の美術品を蒐集し(家臣の武久昌勝が若狭・酒井氏に仕官するまで所有していたもと伝わる『』も生前蒐集していた可能性がある)、乗阿・らを領内に招聘して 山形城下にを移入した。 この光明寺には、文禄3年(1594年)7月7日に義光がの絵師・(の弟)に描かせてにした、「遊行上人絵巻」(全10巻、)が残っている。 義光が残したの数は現存33巻・248句にのぼり、これは同時代諸侯の中ではに次ぐ多さである。 同席者もをはじめとする錚々たる顔ぶれであり、から発句を賜ったこともあった。 天正20年(1592年)2月には、の連歌師たちの求めに応じて江口光清に発句を届けさせている。 また、連歌の研究書『連歌新式注』一巻も執筆しており、同時代の連歌の主要作家とされる。 代表作に「梅咲きて 匂い外なる 四方もなし」などがある。 和歌や手紙の文体・書体も秀でている。 最上家は代々宗教の保護に取り組んでおり、義光もまた信仰心があつかった。 愛用の指揮棒に「 清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻していたことからもそのことがよくわかる。 天正7年()8月、義光は重病に罹っていたらしく湯殿山で祈願を行っている。 義光は領土拡大と藩政確立に伴い、寺社の建立と保護を行った。 最上山、、、、義光山常念寺(嫡子義康の菩提寺)などは義光時代に創建または再建された寺である。 山形一の伽藍を持つは、非業の死を遂げた愛娘・駒姫と妻を供養するためのものだといわれ、山形城内から駒姫の居室が移築された。 境内には義光が参拝するときに馬を繋いだという伝説のある「駒つなぎの桜」が残されている。 その他 [ ]• が大好物だったと言われる。 義光には当時描かれた肖像画は伝わっていない。 広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。 現代 [ ]• 日本三大植木市の一つとされる山形市の「」は、義光が大火で失われた緑を取り戻そうと住民に呼びかけたのがはじまりとされている。 にある義光像は馬が二本脚で立つ大変珍しい形をしている。 この造型は寄贈者である(創業者)たっての意向であり、大変難度の高い技術を用いているとのことである。 同時代及び後世の評価 [ ] 義光について、軍記物においてであるが、以下のような評価が存在し、英雄視されていたことが分かる。 「義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。 近隣従ひつかずといふことなし」(『』)• 「およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり。 」(『』)• 「武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ。 」(『』)• 「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。 誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ。 」(『』) また、「羽州の狐」、「奥羽の驍将」、「虎将」(官位・近衛少将の漢名である「虎賁郎将」からとった)と称されることがある。 系譜 [ ] 兄弟姉妹• (1550? - 1574? )実在したか疑わしい• (生没年不詳、九戸政実の乱で戦死説も)松根光広の父• - 1622年以後)楯岡城主、最上家改易後は細川家に預けられる• (1548 - 1623)正室、の母。 正室・ (? - 1595)としよ姫、の妹。 秀次事件後、義光とともに聚楽第に監禁され1595年8月16日急死。 肖像画が専称寺に残されている。 墓所は寒河江市不動山正覚寺。 側室・(? - 1582)の娘。 天童氏との和睦条件として嫁ぐ。 三男・義親出産直後の1582年10月12日に死去• 継室・(1577 - 1638)清水城主・の娘。 大崎夫人の死後、20歳で義光に嫁ぐ。 文才に秀でていたという。 義光死後は落飾し浄土真宗光明寺を開基、寺領54石の御朱印を賜った 子• (母:大崎氏、1575 - 1603)廃嫡後何者かによって暗殺される• (母:大崎氏?、1582 - 1617)山形藩二代藩主、三男説あり• (母:天童氏、1582 - 1614)清水城主、豊臣方へ通じた疑いをかけられ兄・家親に攻められ自刃、二男説あり• (母:深堀郷士の娘という伝承あり 、1588 - 1664)山野辺城主、最上家改易後は水戸藩家老となる。 義光の男子で唯一天寿を全うした• (母:不詳、1594 - 1622)上山城主、最上家改易後、預け先で切腹• (母:不詳、1602 - 1625)最上家改易後、預け先で切腹• 松尾姫(母:大崎氏、1578 - 1606頃)室• (母:大崎氏、1581 - 1595)別名お伊万の方。 側室、秀次に連座し処刑される• 竹姫(母:大崎氏、生没年不詳)室、長女説あり• 禧久姫(母:不詳、?- 1664)室 家臣 [ ]• 江戸初期の主な城将配置 [ ] 義光は領内各地に大身の城主を多数配置した。 「」によれば、万石以上の家臣が16人、千石以上が63人、百石以上が850人いたという。 家臣の知行を合計すると66万石余にもなる。 最上氏は急速に勢力を拡大したため集権化が追いついておらず、結果的には最上氏改易の一因となった。 最上一門• 主 27,000石• 主 27,000石• 主 21,000石• 主 19,300石• 主 16,000石• 主 12,000石 家臣団• 主 45,000石• 主 30,000石• 主 27,000石• 主 20,000石• 主 17,000石• 主 17,000石• 主 13,000石• 主 12,000石• 主 11,500石• 主 10,000石• 主 8,000石• 主 7,000石• 代 6,500石• 主 5,500石• 主 5,000石• 主 4,000石• 主 4,000石• 番 3,000石 偏諱を与えた人物 [ ] (*「光」の字は義光の読みに合わせて「あき」と読むのが正確だが、一部の人物では「みつ」と読ませることもある。 (長男)• (次男はのち、三男はのちに改名)• (四男、山野辺城主)• (五男、上山城主)• (六男、大山城主)• (実弟、楯岡城主)• (甥(実弟・長瀞義保の子)、白岩城主)• (娘婿説もあり。 氏家守棟の嫡男。 十五里ヶ原の戦いで戦死)• (娘婿、天童城主、初名は成沢 光氏、守棟の従兄弟・成沢道忠の子)• (娘婿、野辺沢城主、満延の子)• (光安の父)• (亀ヶ崎城主)• (光清とも、光安の子)• (長谷堂城主)• (蔵増安房守、を滅ぼした戦功により小国郷を与えられる)• (蔵増安房守光忠の子、新領地に因んで小国に改姓、のち小国城主となる)• (高櫤城主)• (安中坊壽斎)• (外記、寒河江広俊と同一人物ともされる ) 関連作品 [ ] 小説• 『最上義光』• 『武将不信』• 「最上源五郎義俊」『大名廃絶録』• 『最上義光』• 『北天に楽土あり』• 『さむらい道 上・下』 漫画• 『最上家秘聞 遠つ迷い路』 テレビドラマ• (1987年NHK大河ドラマ、演:) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が現存する。 母・小野少将(永浦尼)は早くとも慶長8年()晩春頃まで生存していたことが、地元、最上の千手堂観音に奉納された詠歌の額の存在から推測できる。 詠歌「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」。 粟野敏之は伊達晴宗・輝宗の対立に関して某年5月の日付で同家の重臣・牧野久仲に充てた栄林(最上義守)の書状の内容から伊達父子の内紛は最上父子の内紛より後の出来事であるとし、また牧野は元亀元年3月に失脚して伊達家を追放されていることから、義光の家督継承は元亀元年よりも前であるとしている。 伊達晴宗の隠居は永禄7年(1564年)暮から翌年春とされているため、粟野は義光が元服してから間もない永禄4年(1561年)から翌5年(1562年)に義守と義光の対立および氏家の諫言による当主交代が行われたと推定する。 『』平成6年3月4日朝刊の記事によれば、天正5年(1577年)に義光もまた信長に謁見し「最上出羽守」に任じられたという文書が発見されたという。 太閤検地以前は、最上郡と村山郡は 現在と名称が逆であった(詳細は・の項を参照)。 この戦いは後世の創作ともされる。 義光は義姫に対する書状で「諸大名の手前、和睦は屈辱であることこの上ない」(天正16年7月8日付)と述べながら、別の書状には「義姫の活躍が豊臣秀吉や徳川家康に伝わっている(惣無事違反になるのでこれ以上は戦えない)」(天正17年2月12日付)とも述べ、政宗との和議は望ましいところであった。 『山形市史』は13万石の知行宛行状を与えられたと記している。 小田原参陣前に義光がに宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある。 最上家改易後、主として入部したは、道でこの歌に続き「~。 今の殿様は雑魚、かじかにも役かける」と謳っていたを城に呼び寄せ、「お前は正直な奴だ。 だが源五郎 最上義光 は100万石 実際は57万石 で予の知行は10万石に過ぎない。 だから役が必要なのだ」と諭し、褒美を与えて家に帰したと言われる。 乗阿は慶長8年(1603年)、光明寺の住職として招かれた。 彼が領内に至ると義光自ら迎え、さらには置き場所に困るほど扶持米を届け乗阿を感激させた。 出典 [ ]• 『徳川実紀』、伊豆田忠悦「山形藩」『藩史大事典』第1巻(雄山閣出版、1988年)による。 , p. 伊藤清郎・山口博之『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』(高志書院、2002年)p. 97-98• 遠藤ゆり子「戦国期奥羽における保春院のはたらき-戦国時代の平和維持と女性-」 『日本史研究』486号、2003年)(のちに改題所収:「奥羽の戦争と伊達政宗の母」 遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会』吉川弘文館、2016年) ))• 閏5月11日付中山光直書状、『横手市史 史料編 古代・中世』p. 434。 『史料総覧』11編912冊234頁「片倉代々記」「譜牒余録」「伊達貞山治家記録」• 「奥羽永慶軍記」巻之15・16 佐竹伊達合戦附岩城石川扱• 昭和『山形県史』近世編上による。 , p. 113。 「伊達家文書」天正十八年十二月二十六日。 『史料総覧』11編912冊321頁。 「寛永諸家系図伝」• 116• 村川浩平『日本近世武家政権論』• , p. 117. 「上杉景勝等二十八名連署起請文」羽柴出羽侍従• 重臣・里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門とする説がある一方、最上家家臣の藤田丹波が覚書の中で主命を受けて義康を討ったとする記録を残している。 『大日本史料』12編3冊76頁• , pp. 231-232. , p. 233、「北館文書」• 「てんどうのむかしばなし第二集」• 後藤嘉一『やまのべ風土記 私設』(やまのべ文学会、1988年)• 寒河江市教育委員会『ふるさと寒河江の歴史』(2009年) 参考文献 [ ] 書籍• 『山形市史』• 上巻(原始・古代・中世編)1973年• 中巻(近世編)1971年• 史料編1(最上氏関係史料)1973年• 昭和『山形県史』• 第二巻(近世編上)1985年• ・山口博之『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』(高志書院、2002年)• 伊藤清郎『最上義光』吉川弘文館〈人物叢書〉、2016年。 誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』(人物往来社、1967年)• 佐藤清志『最上義光 戦国の驍将』(庄内農村工業農業協同組合連合会、1996年)• 高橋富雄『評伝最上義光』(山形新聞社、1989年)• 鈴木和吉『山形合戦』(1990年)• 木村重道『最上義光の面影を追う』(みちのく書房、1997年)• 片桐繁雄ほか『最上義光合戦記』(ヨークベニマル、1998年)• 片桐繁雄『北天の巨星・最上義光』(最上義光歴史館、2002年)• 『 陸奥・出羽 斯波・最上一族』(新人物往来社、2005年)• 横山昭男『山形藩』(現代書館、2007年)• 『川崎浩良全集』全4巻(川崎浩良全集刊行会、1963年-1964年)• 山本大・小和田哲男編『戦国大名家臣団事典 東国編』(新人物往来社、1981年)• 片桐繁雄「最上義光の合戦 研究最前線」(『歴史読本』2007年8月号)• 片桐繁雄『最上義光の風景』• 『最上義光歴史館だより』• 寒河江市教育委員会 『ふるさと寒河江の歴史』(2009年)• 竹井英文 編『シリーズ・織豊大名の研究 第六巻 最上義光』(戎光祥出版、2017年) ) 史料• 『大日本史料』『史料総覧』 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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最上 も が うつ

「最上義光」(もがみ 16 ~ 14)は、の。 概要 羽州探題の名門ながらも衰退していたを、乱世の中で万石まで押し上げた名将。 一も起きない善政を敷きの繁栄の基礎を築いた仁君。 ではの2倍の重さのを振るう勇将であり、同時に謀略・調略・説得と言った戦わずして勝つ知略を駆使した。 「羽州の」「虎将」の異名を取る。 また下に山文化のを咲かせ、に次ぐ第二位の句のを残した文化人でもあった。 「」での敵役として描かれた為に、一般的にはな謀略というあまり良くないが強い。 実際には、臣やを思う心と敵にも寛大さを示す器量を併せ持つ情に篤い人物であり、内でもの強い描写などはちゃんとあったが、やはり役の政宗を苦しめる役回りだったのでへの悪印は避けられなかった。 での称は「様」「」「」「」「」等。 生涯 斜陽の最上家を継ぐ はもともと州探題・斯波氏の一族で、羽州探題を務めて「御所」のを使われる名門だった。 しかし9代当・がに大敗を喫して、氏に臣従する事となった。 そして義定は後継者きまま没し、後を2~3歳だった最上義光の・が継ぎ、氏の督争い「」に乗じて氏からするまでに回復した。 しのときはまだ、勢を拡大する為の侵攻が行える自がい状況だった。 義はそういったの10代当・の嫡男に生まれた。 5~6の頃にすでに12~13歳に見られるた体と、で200キロ近いを持ち上げたと言われるの持ちだったと言われ、で元した際には、から「義」の字を拝領して最上義光を名のった。 しかしそのぶりを「こんなでなんだろうか」と心配してしまった・と督を継ぐ際に一着があったらしい。 ここでは重臣・により、事督を継承した。 四面楚歌からの脱却 最上義光が督を相続した直後のは、同じ一族である童氏ら多くの支族が従わず、支族がを支える的で周辺に配置されて事もあって、周辺を敵に囲まれたな状況だった。 特に童頼貞は、 今更義に従う謂われはない と言って従わず、に敗れて落ちた威信を取り戻す必要があった。 しかし遠征する兵を集めるった為、まず最上義光は出羽統一の第一歩として内政を重視してを蓄える事にした。 具体的には• 北楯堰等の治工事を推進してを増産• 修による運向上で商業充実&• 田港の交易を奨励し、同地を整備しての特産物が全流通• 領内を検地するついでに野辺沢山や永山発見• 下の整備と山文化の移入• 大規模な免税• 穀管理の為の「券法」の制定 といった、その後も含めて活発に行われた最上義光の内政事業により、はを蓄えた。 「東の田、西の」とまで言われた交易港・田の基礎は最上義光によってつたものである。 特にに対する寛容な善政を敷いた為、最上義光がを治めていた間には一が発生した記録がいと言われている。 同時に、中央で絶大な権を有していたに謁見して「出羽守」に任命されるように働きかける等、名上の威信を取り戻す事にも尽した。 論、相手も内政事業による結果が出るまでまってくれるわけもなく、的な対応も迫られた。 これに対し最上義光は、• 「従う謂われはない」としていた童頼貞のを側室に貰い受けて和した。 の満兼の臣を調略して、領地と引き換えに満兼を暗殺させた。 大々的なえを開催する広報宣伝により、人衆を大挙して集めて、を誇示し味方となる人を増やす。 氏の重臣・秀綱を、本領安堵をに調略をかけて降伏させ、以後は重臣として用いた。 の有大名・が、領に侵攻しようとするのを察知して大宝寺臣を裏切らせて内乱を起こさせ、逆にを自に追い込んだ。 に手を回して勝手に羽州探題を名のった長久を、を嫡男・義康のに貰い受けて懐柔しよとしたが上手くいかず、重病を発したとして誘き出し、最上義光自らが長久をった。 と、謀略・調略・説得・降伏勧告・敵営分裂といった戦わずして勝つを選んだ。 直接的な兵の衝突を防ぐことにより• 戦にかりだされたが戦死する事を防ぐ• 戦により領地が荒らされることを防ぐ といった内政の充実を促進する効果があると考えたと思われる。 戦わずして勝つを選べたということは、逆に言えば義がそれを可にするほどの人物だったということでもある。 つまり調略に応じて内通したり、逆襲され滅ぼされるを承知で反乱を起こし旧を倒そうとしてまで義につこうと思わせたということだ。 他にも敗走させた敵は追わず、 と士卒は扇のようなものであり、要は、は物頭、総勢はだ。 どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とはが子のようなものだ と言う程の寛大な性格もその一因だった。 謀略ではどうにもならない相手に対しては、• に注し、整備した田の港を使って大量購入してを用いた集団戦術を採用した。 長久の旧臣と合流して対抗する・高基の・羽勘十郎をで射殺して優勢に持ち込み、高基を自させた。 に近づいたの・大宝寺義を速攻発動で攻撃して自させ、大宝寺義勝を追放した。 といった実行使に出ることもあった。 側室に娶ったが死んで同盟関係が解消され、童頼貞の後を継いだ童頼久を攻めた際は、の剛王・によって敗れた。 しかし大好きっ子だった最上義光が、の嫡男にをがせる事と、童頼久を殺さない事を条件に味方に引き入れる事に成功し、を引き抜かれて「童八楯」が崩壊した童頼久は、氏の元へと頼って落ち。 論この際も追手を差し向けたりはしていない(とのもあったが普段からそうしている)。 引き抜かれたは、最上義光が剛ぶりを試そうとしたらつかまっていた木ごと引きを発生させる等しながら重用された。 独眼竜との戦い が、最上義光ののである氏のを攻撃した際は、氏の援軍としてはせ参じてを破った。 逆にがに攻め込んでくると、と甥のに心を痛めたでの・が、輿にのって両軍の間に割って入り、両軍の進撃を止め、再三の立ち退き要にも動じず、和議を結ばさせて両軍を撤退させた。 対峙中で最上義光が動けなかった際に、背後から配下で追放した大宝寺義勝の・の攻撃をうけて、せっかく手に入れたを奪われた。 がを通じてと交渉し、最上義光もを通じて領地返還の交渉をになったが、結局、は取り戻せなかった。 を手に入れただったが、最上義光が統治していた時代よりも重税をかけた為、最上義光時代にはかった一が頻発した。 秀吉政権下でのサバイバル 時の権者となったが征伐の為にに進軍した際に、・を亡くした最上義光は、らを通じて交渉し、 遅参を状で認められている とを得たうえで、の葬儀を盛大になった後、よりも後にに参した。 交渉はだったようで、の遅参は易されかねないに直面したが、最上義光にはそういった話は出ず、逆に名門意識から参せずに易されたの・氏の旧臣達の多くを自らの配下に加えた。 州仕置においてはの軍として参加した。 一軍を倒した他、討伐に赴いたに、次男の親を小姓に差し出したり、に立ち寄った際にのを見染めたに対して、顔も合わせていない間柄のを渋々差し出したり、三男の義親をの臣にしてもらう等して、24万石とも言われた領地を安堵され、州仕置の後に発生した易のの中を生き残った。 しかし、次男をの小姓にした事と、をにがせた事は、最上義光のに大きな暗い影を落とす事件に発展する。 出兵時には名護屋に待機する等、に従っていた。 しかしのをに差し出していた事から、秀次事件の際にと共に疑われて謹慎させられる等、に対してしはじめ、旧知の仲であったに近づき、慶長大の際には、より先にの元へと行き、が開いた会では個人的にを警護する等した。 山形藩初代藩主となる が没すると、義はによる討伐に参加した。 そしてがに対抗する為に関ヶ原をす中、の相手を失ってが失せながらも猛攻をしかけててきたにより、窮地に追い込まれる。 しかし堂の戦いで、や秀綱や楯満茂らが奮戦して上泰綱を討ち取る等活躍し、慶長出羽合戦と呼ばれた戦いで軍の侵攻からを守り抜いた。 このとき義康を使者にに援軍を要請した。 しかしは最上義光の援軍に出したようとしていた利直に対して、を使って一を扇動するといった妨をしていたりする。 で西軍が敗れた知受け、は撤兵しようとする。 いつもなら追わないはずの最上義光が、まるでこれまでの恨みはらさんとばかりに が退却してどうやって敵を防ぐのか として撤退する軍に背後から攻撃を仕掛け、軍を務めたを後一歩まで追い込んだ。 大ふへん者らの活躍によって敗れ、を取り逃がしたものの、に奪われたままだったは事取り返し、最上義光は、の全土を含む万石の初代となった。 11年には、より従四位下・左と、念願の出羽守に叙位・任官された。 北天の巨星、堕つ しの後もは安泰ではいられなかった。 が小姓にしていた次男・親をお気に入りにしていた事や、幕府との今後も考慮して嫡男の義康を嫡した。 その後、義康は山に入る何者かに暗殺される悲劇に見舞われた(資料によっては、最上義光の手によるものであるとの説と、次男の親を担ぐ臣によるものとの説があるが詳細は不明)。 府を居とすることにしたへの築祝いに府を訪れた最上義光は、すでに病を抱えた身で、に昇ってに謁見し、再度府のの元へと訪れて、の今後を頼み、にて69歳で没した。 残念ながらは、最上義光の後を継いだ次男・親が世し、孫の義俊が後を継ぐと、臣の統制がうまくいかなくなり、最上義光の四男・を担ぎ出そうとする臣が幕府に対して讒訴する等した為、中不届きを理由に易され、同時に最上義光の五男・山義直と六男・も、預け先でした。 しかし、斯波の流れを持つ最後のであったことで断絶は免れ、(現:東)に1万石を与えられるが、のちに5千石に減封され、の格を持つ旗本として残されることとなった。 を担いだ代表格である秀綱は、を滅ぼしてしまった事を後悔した為か、に召抱えられた際のはすべて旧臣に渡し、さらには意図的にを断絶させた。 最上義光ので一生き残ったは、易後にのとなった。 「」の登場人物・辺の辺義堅は、の子で、最上義光からすれば孫になる。 13年。 正四位を追贈された。 逸話 鮭大好き「鮭様」 最上義光が、を臣を裏切らせて自させ、後を継いだ・大宝寺義を攻撃して自させ、養子の大宝寺義勝を追放。 につながるを手に入れ 念願のを手に入れたぞ!大好物のがに食べられる! ! と喜んだ。 臣へのにもそこの事を喜んだ記録が残っているらしい。 後に大宝寺義勝の実・にを奪われた際は、と交渉してまで取り替えそうとしたほどである。 の時代には、がのお気に入りだった為に取り返す事が出来なかったが、が没すると、で旧知のについて戦った功績により取り戻せたのだった。 べ、別に、が食べたかったからじゃないからね! そこから、最上義光は「様」の称で親しまれている。 氏の臣・秀綱を引き抜いて、重臣として重用したのは姓に「」が入っていたからというわけではない。 決してない。 なお最上義光は、以外にもやも好物だったらしい。 軍記物での評価• 「義は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。 近隣従ひつかずといふことなし」• 「およそ出羽十二の内、介の所領よりほかは、みなの人の進退に任せけるは、且つ義智勇の祖より越したる故なり。 「武勇は人にすぐれ、なかんづく慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をむ様にこそなし給へ。 」 現代では、「」等のでのいとして描かれる影や、初期にが易されて記録があまり残っていない事もあって、敵または的な扱いを受けている。 一方で易以降のは、大名の流刑地の様な状況で大きく発展することがなく、今でも最上義光が行った工事の影が残る状況であり、では「仁君」として評価されている。 「よしあき」の理由 の人物の多くは、のに記録されている人物以外は、基本的に名前の正確なが不明な場合がほとんどである。 そういった中でも「最上義光」と書いて「もがみつ」と読まない理由は、・宛のに、で「」と書いてあったからである。 このが発見されるまでは「よしてる」や「よしみつ」と呼ばれていた。 義光公の力石 最上義光は、当時ではとてもた体格で膂に優れる猛将の体だった。 そんな最上義光がの時、・と共に蔵王に湯治に行き、狩をした後に数十人のによる襲撃をうけた。 最上義光は、二人に重傷を負わせて一人を刺殺し、その武勇を賞した・より名・切を授けられた。 しの時に見せ付けたを恐れた・が、最上義光を疎んじるようになったとする話もある。 また蔵王には、湯治の際に臣とべをして持ち上げたといわれる200kg程の重さのが「義の」として残っている。 ちなみにこのにはがあり、「より強いやつに会いに行く」と称して武者のために出してそのまま単身上したなどという逸話もあったりする。 (ただしすぐ隣の越後には軍とよばれるあの人が・・・・) まあ、上記のや武者はの域を出ないが、義が武芸に長けていたのはであり、同じく武芸であったとのも、そうした辺りがあってこそと言えなくもないのかもしれない。 文化人 最上義光は、でも有数の文化人の一人であったがある。 元々の出自が、州探題・斯波につながる羽州探題で「御所」のを使われる柄だったこともあり、文化人としての面が多く見られる。 ・と共に、に上し、その際に学んだ「」や「」といったにを読し、「」については、一堂乗の導を受け、果てにはに呼び寄せて、臣にも導してもらった上に、自身は切(状)を授けられる等した事から、授業料代わりに、食べきれない程の食料を渡していったといわれている。 また、美術品の集もとしており、多くの絵巻物や陶器を収集していたと言われ、下を整備した際は、の地に山文化のを咲かせた。 そして最上義光は、の才に優れ、 咲きて 匂い外なる 四方もなし 等の名句を残し、• では教養のに次ぐ、33巻。 句を残した。 の研究書「新式注」を執筆した。 里村紹ら高名な文化人が会に同席した。 から発句を賜った。 和歌やを書き記した書面の文体・書体も評価が高い。 といった功績を残している。 文書面に秀でていた事から、大名の多くが抱えていた代筆業「右筆」を、晩年に体調を崩して筆をとれなくなるまで用いなかった。 ちなみにも負けず劣らずの優れた文化人だった。 の大名は中央ではどうしても者扱いされてしまうため、められないようにという側面もあったようだ。 シスコン 最上義光は、でとも呼ばれた女・を大変かわいがったと言われている。 にいだからは、戦の為のやりとりをしていたとされ多くの書状を送っている。 その中にはっとを長々と書いていたりするほか、 さてもさても御ねんころにて、一度御めにかかり、そらももかたり申度 といったやさしい文面で始まる等が残っている。 当時すでに二人とも四十代であることにつっこんではいけない。 がとの合戦に敗れたのを好機とばかりに、を形成して突した際には、が両軍の間に輿を割り込ませて、・最上義光と・に和するように説得し、自身は輿にてにとどまり続けた。 の身を案じた最上義光が、達をつれて輿に近づくと、に懐く達の姿に号泣した最上義光は、と和して引き上げた。 後にに送ったには、「あの時はを思う気持ちから和したのではない」と書かれている。 べ、別にのためなんかじゃないんだからね! 食いっぷりに感動 の州仕置の後に、仁賀保挙や満安ら十二党が最上義光の配下に加えられた。 最上義光が、とりまとめに苦慮していたところに、十二党より「と言う剛の者が横暴で困っているから討ち果たしてほしい」と頼まれた。 これを受けて義はをに招いて暗殺しようとした。 しかしの5~6人前の食事や1匹をまるごとらげるっぷりに感動してしまい、暗殺計画を打ち明けた上に、困った時はいつでも頼れば良いとして、褒美を持たせて事に帰したといわれている。 鮭延に諌められた鮭様 最上義光の重臣・秀綱の臣・勘が、最上義光の正室の女・に一惚れし、密かにのやりとりを重ねていたことが発覚した。 最上義光は、勘とに死罪を命じるが、秀綱の諫言により、逆にを勘の妻として正式に娶らせた。 その後に発生したに関連する、軍との堂の戦いの際に、秀綱は同僚のと共に奮戦していた。 ここで窮地の秀綱を勘が助け、勘自身は討ち死にした。 後に、勘の遺書に、妻・との喜びの日々がれ、 この御礼には命をもって報いるしかない と記されていた。 妻のも、勘の葬儀が終わるとして果て、その話を聞いた最上義光は号泣し、一度は処罰しようとした自分を恥じて夫妻を手厚く弔った。 最上家の掟 最上義光は、が定めた分法「集」を参考にしたとされる掟を定めた。 一つ、女、、をみだりに殺さない事。 一つ、敵の領地でも刈田藉は働かぬ事。 一つ、武具は身分以上のものをえ、は質素を旨とする事。 一つ、の飲み過ぎないようにする事。 一つ、高綱みたいにを騙したり、人を騙し討ちして手柄をたてようとしない事。 特に騙まし討ち等の卑劣な行為を行うと死罪にするとある。 「騙まし討ち」ってところが「」的印を持つ人がいるかもしれない。 しかしその内容はを思い、質素を奨励し、不必要に殺戮しないことを旨とする、至極まっとうなものとなっている。 最上義康の死 義の後継者は次男での小姓として気に入れられていた親と決まった。 この事から、嫡男義康は山にはいるにようから示されを離れた。 しかしそのと途中、義康は何者かに暗殺されてしまう。 「親子の仲があまりよくないので和解したい」と記された遺品のをにした最上義光は、号泣しての死を嘆いた。 一説によればこの暗殺は、最上義光が義康を嫡した上で暗殺したとされているが、確実な史料がないため否定されている。 また、親を後継者にしようとする里見民部による諫言が過ぎて、に最上義光がそのことをったことが遠因で、暗殺も里見民部が計画したとする説もある。 この説では、里見民部は最上義光の怒りをかって出奔したものの、した最上義光の横で他への仕官がわななかった。 最上義光が死して親が後を継いだ際にに戻ったところで、最上義光の遺命として一族尽く成敗されたと言う。 最上義光の達は、• 駒姫無惨 最上義光と正室の間には、と言う「東一の」と言われたがいた。 をたいへんにかわいがっていた最上義光だったが、州仕置の際にやってきたがを見初めてしまい、側室として差し出すようにと言ってきた。 義はがまだする年齢でい事などを理由に出し渋っていた。 しかし相手は時の権者・よりの職をりうけたであり、結局の為にとを差し出すことになった。 しかし、がについた頃、所謂「秀次事件」が発生してがさせられた。 正式なも行っていないと言うのには、側室とみなされて他の側室同様にされることとなった。 がについた途端に権争いに巻き込まれて首をられるという事態に、最上義光はに忠を誓う血判状を差し出してまで救おうした。 この時、他の大名からもの助命嘆願があり、はの処刑を取りやめるようにを出したが、結局間に合わず、はの命を六条に散らした上に、他の側室同様残にもをまとめて埋め立てられた。 最上義光はを引き取ることもできず、 「私の前世が罪深いばかりに・・・」と言っても飲めない程に衰弱して寝込んだ上に、に連座してと共に謹慎を命じられた。 果てには、の残な死から14日後にも亡くなる(の死を悲嘆してのとも言われる)。 最上義光は、童にあった専称寺をに移築して、妻との菩提寺として弔った。 その後の会では、 憂きもただ報ひとぞ身や省みん と、この悲劇が前世の報いとして甘んじてうけ反省するしかないとする歌を詠んだ。 戦国大戦 「戦わずしてを得るが、の策よ」 Ve. 0で登場。 5で武8統率9の。 伏兵・魅持ち。 さりげなく伏兵解除時のでシャレを言っている 上記の。 計略の「羽州の知謀」はVe. 0で追加された「逆計 相手が計略を発動した時に発動できる計略 」で、彼は発動者の武と統率と移動を下げた上で徐々に兵を減らすにするとかなりエグい性。 更にこの効果は敵が使用した士気が多い程強くなる。 士気6が多い強化に至っては食らった低下とで死ぬ危険性すらある。 00Aではを差し置いての妨逆計と言われる。 ちなみに彼のはに居るがやっぱり計略。 編ではで、全編では全29位で登場。 小十郎く・・・「けちでいんけんでどうしようもないやつ」 補足 「」()における最上義光の覧。 内政 群雄伝 S1 - - 魅 - 野望 - 武将録 S1 78 74 魅 野望 教養 69 伝 采配 智謀 野望 戦才 B 智才 A 政才 B 魅 野望 録 智謀 81 伝 采配 69 智謀 世紀 采配 智謀 野望 録 統率 知略 下創世 統率 知略 教養 統率 武勇 知略 関連商品 なお、最上義光館では『記』や、に没後0年記念事業でが発行した『その生涯と事績』、集などの関連書籍を発売している。 関連コミュニティ 関連項目• 北の巨• 出羽の()• 親子 臣 関連人物• 長義保• (義)• 義治 - 画• 楯満茂• 成沢忠• 新関久正• 童頼貞• 童頼久• 関連リンク•

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