貴ノ浪 こと 音羽 山 親方。 【訃報】元大関・貴ノ浪、音羽山親方(43)死去

43歳の若さで…元大関貴ノ浪 音羽山親方が急死― スポニチ Sponichi Annex スポーツ

貴ノ浪 こと 音羽 山 親方

現役時代 [ ] 貴ノ花と浪岡で「貴ノ浪」 [ ] にで生まれる。 三沢第二中学校時代にから勧誘され、当初は高校進学を考えていたものの、両親が貴ノ花を贔屓にしていたこともあって入門を決意、(昭和62年)3月場所でを踏んだ。 は本名の「浪岡」のままだった。 (平成3年)3月場所に新十両昇進を果たす。 中学校を卒業して入門した力士において4年での十両昇進は早い出世ではあるが、大器を期待する藤島からは「遅い」と叱責されたという。 同時に四股名を付ける際に、藤島の現役名「貴ノ花」と本名を組み合わせた「貴ノ浪」と命名された。 藤島の命名とされていたが、藤島の夫人だったによれば貴ノ浪が急逝した際に「部屋の弟子の四股名は女将だった自分が命名していたが、貴ノ浪だけは師匠(藤島)が自ら命名した」と語っている。 また、四股名の下の読みは「さだひろ」だが、本名は「 ただひろ」と読む。 (平成3年)9月場所ではと12勝3敗同士で十両優勝を争い、敗れたものの、同年11月場所はその大善と「三人衆」の一人・、そして終生のライバルになると同期でを果たす。 この場所は初日から7連勝を記録し、中日で勝ち越す前から新入幕力士による幕内最高優勝を期待された。 しかしその中日にに敗れて連勝が止まり、9日目には優勝争いの筆頭だったを倒して勝ち越すものの、残り6日間は全て敗れて8勝7敗で終わった。 それでも新入幕力士が初日から7連勝を記録したことは周囲に強烈な印象を残し、「未完の大器」とされて注目を浴びる。 注目を浴びた貴ノ浪だったがその後は中位に留まって低迷したが、(平成5年)3月場所を前頭筆頭で迎えると9勝6敗と勝ち越し、同年5月場所でに昇進した。 この場所で10勝5敗の好成績を挙げて自身初の三賞・を受賞すると、同年7月場所では関脇に昇進して9勝6敗、9月場所も10勝5敗を挙げる活躍を見せ、将来的に大関昇進も見える成績を残す。 11月場所では12勝3敗の好成績を挙げて大関昇進にさらに近付いたが、「土俵際に下がりながら勝つ相撲(引いて叩き込む)が多すぎて内容が悪過ぎる」という理由で三賞獲得はならなかった。 大関昇進~同部屋同士の優勝決定戦 [ ] (平成6年)1月場所は、前年まで3場所連続で勝ち越して、前場所は12勝を挙げる活躍を見せたことから自身初の大関取りの場所となった。 しかしには・の2大関がいたため、貴ノ浪には同じく大関取りの場所としていたよりも好成績を残すことが求められた。 7日目に横綱・との対戦を迎えると、これまで対横綱戦未勝利だった貴ノ浪は、本人曰く「強烈なの威力を逸らすため」にあえて斜めに仕切る奇策に出る。 これが効いたのかでようやく対横綱戦初勝利を挙げ、勢いそのままにこの場所を13勝2敗で終えると二度目のを受賞すると共に、武蔵丸と同時に大関昇進を果たした。 大関の同時昇進は(昭和52年)1月場所後の(新大関)・(再昇進)以来17年ぶり、新大関2名の同時昇進は(昭和47年)9月場所後の・以来22年ぶりだった。 での口上は若貴兄弟と同様にの「勇往邁進」を用いていた。 新大関として迎えた3月場所は12勝3敗で、曙とが並んだことでに進出した。 貴闘力とは同部屋のために本割での対戦が無かったが、優勝決定巴戦では貴闘力に勝利したものの曙には敗れ、続けて貴闘力も曙に敗れたことで、幕内最高優勝は曙にさらわれてしまった。 大関・貴ノ浪はそれ以降も安定した成績を残す。 特に(平成8年)1月場所では14勝1敗の好成績を残し、横綱・との同部屋同士による優勝決定戦では曙戦で繰り出したで制して、悲願の幕内最高優勝を果たした。 (平成9年)11月場所でも14勝1敗でまたも貴乃花と同部屋同士による優勝決定戦をで下し、11場所ぶり二度目の幕内最高優勝を果たした。 続く場所が綱取りとなったが11勝、10勝に留まり、大関での2場所連続優勝を達成することが出来ず、惜しくも綱には届かなかった。 綱取りが叶わなかった大関・貴ノ浪だったが、その一方で(平成7年)5月場所と1997年(平成9年)1月場所、1999年(平成11年)1月場所を全て6勝9敗と皆勤を記録したり、勝ち越しても8~9勝止まりと大関らしからぬ成績を残し、低迷した時期もあった。 特にを苦手(通算9勝9敗)としており、剣晃に敗れたことで優勝を逃す場面も見られた。 それでも角番を脱出した場所では大半が終盤戦まで優勝争いに加わる活躍を見せており、(平成11年)3月場所は角番で迎えたが12勝3敗の好成績を残して角番を脱出しただけでなく、11日目には通算5場所目というスピード出世でを果たしたに勝利して雅山の二桁勝利を阻む(本人曰く「の結えないヤツには負けられない(当時、雅山はスピード出世で髷が追い付かず、髷の無い姿で入幕していた )」など、大関としての貫録を示す場面も見られた。 現役晩年~現役引退 [ ] (平成11年)9月場所の途中に足を痛め、新入幕から引退までの期間で唯一の休場を経験する。 これによって同年11月場所が角番となり、この場所で優勝争いをしていた大関・出島を12日目に破るなど意地を見せたが、そこから3連敗で6勝9敗で終えた事でついに35場所務めていた大関から陥落することが決まった。 それでも(平成12年)1月場所では10勝挙げ、特例での大関復帰が認められた。 これは(昭和44年)7月場所以降に制定された「大関特例復帰制度」から、(昭和51年)7月場所の以来24年ぶり二度目の出来事だった。 しかし大関に復帰した同年3月場所は千秋楽で敗れたことで7勝8敗となり、角番で迎えた同年5月場所も6勝9敗と負け越したことで再び関脇に陥落となった。 7月場所も1横綱3大関に勝ったにも関わらず中盤5連敗が響き7勝8敗と負け越したことで二度目の大関特例復帰はならなかった。 大関在位37場所はを始め、・に続く歴代4位だった。 大関として挙げた通算353勝は、当時歴代3位 であるとともに、後に横綱へ昇進したの大関時代と奇しくも同数だった。 (平成12年)9月場所は7年ぶりので迎えて9勝を挙げ、翌場所で関脇に復帰するが、同年11月場所は初日からの8連敗で中日負越しが決まり、21世紀最初の場所となった(平成13年)1月場所は(平成5年)3月場所以来約8年ぶりとなる平幕に陥落となった。 しかし2001年7月場所は優勝した大関・魁皇に勝ったり、2001年11月場所は10日目まで9勝1敗と一時優勝争いに加わったり、2002年7月場所は初日から7連勝し大関取りで9連勝していた朝青龍に勝ったり、2002年9月場所と11月場所~2003年7月場所では横綱・武蔵丸に対戦機会3連勝するなど、21世紀に入ってからも前頭上位で好成績を残しては小結に復帰するが、三役で勝ち越せずに平幕へ陥落するなど、往年の大関時代の力強さは徐々に失われていった。 そして2002年11月場所では史上最スロー初金星を獲得し、元大関の25年ぶり史上4人目の三賞受賞を獲得した。 しかし、(平成15年)では年6場所で全て負け越しを喫してしまい、体力の衰えが顕著になり始める。 (平成16年)1月場所7日目、前場所で十両優勝を果たして勢いのある新鋭・と対戦すると肩越しの上手から豪快に振り回して投げ飛ばし、元大関の貫録を存分に示した。 この相撲で勢い付いた貴ノ浪は8勝7敗と一年ぶりに勝ち越したが、結果的にこれが現役最後の勝ち越しとなった。 同年3月場所は、好成績を残していない限り上位陣の対戦が基本的に組まれない前頭8枚目で初日から6連敗を喫したものの、5勝10敗で十両陥落を免れた。 しかし体力の限界に加えて大関時代から悪かったの不調で入院するや重篤となり、相撲そのものを続けることが出来なくなってしまう。 同年5月場所はついに前頭13枚目まで陥落すると初日から2連敗を喫したことで、3日目に不戦敗として現役引退を表明、年寄・音羽山を襲名した。 大関陥落後から合計25場所(直後に大関へ復帰した2000年1月場所の関脇1場所を含む)も相撲を取り続けたが、これは当時を越える最長記録だった。 現役最後となった2004年5月場所2日目では幕内通算出場回数が1118回となり、小錦八十吉を抜いて史上単独7位(当時)になったことについて、「ハッハハハ。 まぁ、長く取っているだけのことですから。 でも勝たなくては長く取れない。 良いことじゃないですか」と笑い飛ばして引き返したが、翌日の引退会見では場所前から引退を決意しており、どこまで相撲が取れるか確かめるために出場したことを涙ながらに明かした。 そして、前日までの表情の違いに驚く報道陣に対して「全然悲しくない。 やれるだけのことはやりましたから。 悲しくは無いんだけど、なぜか、涙が出るんです」と素直な気持ちを表した。 貴ノ浪の断髪式は(平成17年)にで行われ、引退相撲の歴史を見ても屈指の数と言える400人以上もの来訪者が鋏を入れた。 会場には当時入退院を繰り返していたも病院から駆けつけて髷に鋏を入れると、貴ノ浪は堪え切れずに涙を流し、来場者の感動を呼んだ。 なお、二子山はその4ヶ月後の同年にで死去、この姿が公での最後の姿となった。 最後の留め鋏を入れたのはの貴乃花親方だった(貴ノ浪の引退直前に貴乃花が二子山部屋を継承、貴乃花部屋となっていたため)。 晩年 死去 [ ] 貴ノ浪は引退と同時に年寄・音羽山を襲名し、付きの親方として後進の指導に当たった。 また、協会の業務などで多忙な貴乃花に代わって部屋の稽古指導に当たることも多かった。 1月場所終了後に体調を崩し、・・を併発して緊急入院する。 一時はに陥るなど生命の危機を彷徨ったが、その後無事に回復してに退院、5月場所で復帰した。 同年9月場所からはの解説者も務め、人気を博した。 その姿は「影の広報部長」と呼ばれることが多かったが、2月に広報部記者クラブ担当へ異動となり、本物の広報部員となった。 しかし、5月場所を体調不良で初日から全休すると、当初はと公表されていたが 、実際はと診断されて手術を受けての休養であったことが後に判明している。 の理事会にて審判部へ異動となった が、それから僅か5ヶ月後の同年午前、滞在先の大阪府豊中市走井のラブホテルで倒れている所を発見され、救命処置を受けたがのため急逝。 43歳没。 人物 [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2016年10月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2016年10月) 貴ノ浪の取り口 [ ] 長身で長い手足からなる深い懐と強い足腰を活かして相手を引っ張り込むもので、他には真似出来ない取り口である。 簡単に相手の二本差しを許し、自ら棒立ちの不利な姿勢を取るために悪癖と見られたが、実際はその形こそが貴ノ浪にとって十分の型だった。 そのまま肘を張って両方の差し手を抱え込むと、貴ノ浪の長身に引っ張り上げられた相手は上体が伸び切り、寄りも投げも力が十分でなくなる。 その姿から左右に振られて決め出されてはなす術が無く、そのまま土俵を割るほかない。 その豪快な取り口は「UFOキャッチャー」と呼ばれた。 しかし、基本を外れた極めて特異な取り口だったために、上位の番付を狙える相撲では無いとから苦言を呈された。 二子山は貴ノ浪の取り口を改善指導したことがあったが、かえって黒星が増えてさらに負傷までしたため、強引に改善させることを止めたほどである。 貴ノ浪曰く、この取り口は小学生時代から変わらないという。 しかしその性質上、・といった突き押しを得意とする長身の力士が苦手だった。 取り口の特性上、足腰の怪我を誘発しやすいという欠点があり、そのために晩年は足首の負傷にも悩まされた。 自身の取り口は足腰が弱いと成り立たないため、大関時代には相手を引っ張り込んだり投げ飛ばしたような場面でも足腰の衰えが目に見えるようになった現役末期の頃は、あっけなく後退して土俵を割る場面も見られた。 相手に十分攻めさせておいて手玉に取るという意味では真の横綱相撲が取れる唯一の力士と言っても良かったが、には既に・が横綱だった事情もあってか、「横綱・貴ノ浪」は幻に終わった。 自身の死去に際してあるベテラン記者は「(貴ノ浪の取り口は)力自慢の典型。 一気に横綱にまで登り詰めてしまえば良かったが、上位の相撲はパワーだけでは勝ち続けることは出来ない」と振り返っており、本人も生前「(自分の相撲は)良い子がマネをしてはいけない相撲だよ」と話していた。 特徴的な決まり手 [ ] 貴ノ浪の決まり手にはいくつか特徴的な決まり手が含まれており、とくには貴ノ浪の十八番とも言われた。 大関昇進がかかっており対横綱戦未勝利の中でに対して繰り出した一番、初の幕内最高優勝がかかった同部屋・戦などの大一番でも決まった。 また、横綱戦以外にも取組の中で自らが不利な状況に陥った際にも繰り出す大技で 、河津掛けが決まった際の場内は割れんばかりの大歓声だった。 他に極め出し、、、などが見られ、このほかに「『仏壇返し』を決めてみたい」と自らコメントしたこともあった。 完璧な形ではなかったものの、1993年9月場所での戦では「」を決めている。 影の広報部長 [ ] マスコミの前では寡黙な力士が多かったの中でも明るく、物怖じしない性格だった。 そのためにが「オレとお前は友達じゃないんだぞ」と呆れ、を女将の面前で購入しようとして叱られるなどのエピソードが伝わる。 現役時代もバラエティ番組に出演し、「自分がの頃、関が幕下で一番上だったんですけど、自分が何でもこなす『スーパー付け人』だったので…」などと面白おかしく語り、当の貴闘力本人を含む出演者の笑いを誘っていた。 「のスポークスマン・影の広報部長」と自称し、自身の取組について勝っても負けてもユーモアたっぷりに回答したり、力士の裏話を公表したりと、からの人気が高かった。 ライバル・武蔵丸との関係 [ ] とは幕内で通算58度対戦し、貴ノ浪の21勝37敗(他に十両と1996年11月場所のでも戦い、共に貴ノ浪が敗れている)と負け越しているものの、互いに良きライバルと認めていた。 この両者の対戦回数58回は、(平成28年)3月場所に - (59回目・対戦合計66回)に塗り替えられるまで、当時の大相撲史上1位の記録だった。 その取り口とライバル関係が似ていたことから、かつての名力士だったとにもなぞらえられていた。 また、武蔵丸とは生年が同じ1971年(昭和46年)で、新入幕・新大関と二人は全く同時に昇進を果たしていた。 対照的に、とは非常に分が悪く、大関取りの場所で初勝利したもののそれ以降はほとんど歯が立たず、通算5勝34敗とかなり一方的なものとなった。 (平成11年)3月場所は、場所終盤の11日目から3横綱(貴乃花、若乃花、曙)と大関・が休場する異常事態(3横綱全員が休場するのは1月場所以来49年ぶり)により、上位陣は貴ノ浪と武蔵丸の2大関だけとなった。 しかし、両者はその後連勝を続け、14日目終了時点で12勝2敗の成績を挙げ、千秋楽結びの一番で大関同士の決戦となった。 結果、貴ノ浪は武蔵丸に寄り切りで敗れ、惜しくも12勝3敗の優勝次点だった。 貴ノ浪が筆頭まで番付を落とした(平成14年)11月場所で、横綱へ昇進していた武蔵丸に平幕力士として勝利、大関昇進以前にも取っていなかった初のを獲得した(その翌日から武蔵丸は左手首の怪我が悪化したため休場となる)。 また同場所で貴ノ浪は10勝5敗の好成績をおさめ、大関昇進直前の1994年1月場所以来、8年10ヶ月ぶり3回目のも受賞した。 2003年7月場所では、前頭3枚目で再び武蔵丸に勝利して2つ目の金星を獲得したが、この場所が武蔵丸との現役最後の対戦となった。 貴ノ浪が急死した翌日の2015年6月21日、都内で取材に応じた武蔵川親方(武蔵丸)は「気持ちの整理がつかない」と驚きを隠せなかった。 2003年11月場所で引退した際、貴ノ浪が当時さほど自身と親しくないのにも関わらず、支度部屋で貴ノ浪が「寂しい…」と人目憚らずに泣いたと聞いた時、武蔵丸は「なんて心の広い人なんだと思った」と懐かしんでいる。 それから3場所後の2004年5月場所まで現役を続けた貴ノ浪に対して「怪我しないように思いながら見ていた」という。 貴ノ浪も引退後は戦友仲間として打ち解け合い、武蔵丸は「相撲の話はしないが、酒や食べ物の話で冗談ばかり言っていた。 友達が一人、居なくなってしまった」と、早過ぎる別れを惜しんでいた。 エピソード [ ] 相撲関連 [ ]• 尊敬する力士はだったが、その理由は「とのレパートリーが多いから」とのこと。 琴富士を「師匠」とまで呼んでいた。 貴ノ浪の強心臓ぶりは有名で、貴ノ浪が自身初の幕内最高優勝を果たした1996年1月場所9日目に行われた同じ二子山部屋の兄弟子・ - 戦にて、通常は審判委員がつけるを貴ノ浪自らが審判委員より素早く手を挙げ、控え力士の立場から物言いを付けたことがある。 控え力士には出番を待つだけでなく土俵上の相撲を監察する義務もあり、物言いをつける権利もあるが、土俵上での判定協議には参加出来ない。 この際の軍配は土佐ノ海に上がったが、行司差し違いで貴闘力が勝利した。 貴ノ浪の優勝パレードの旗手は、その物言いで勝利した貴闘力が務めていた。 身長は公称196cmだが、本人曰く実際は2mあったという。 しかし「2mなんて怪物みたいで嫌だから」という理由で、身長測定の際に姿勢で誤魔化して196cmとしていた。 取組中、土俵上に落ちたさがりを足で蹴飛ばしたことがある。 ただし2回の所属部屋変更はいずれも「看板替え」で、藤島部屋から二子山部屋への所属変更もの形をとった看板替えであった。 そのため、部屋(施設)の移転は経験していない。 相撲以外 [ ]• 相撲以外でもに関する知識が深く、スポーツ番組のNFLコーナーにも出演したことがある。 他に(も同様)、のファンを公言していた。 の腕前はかなりのもので、現役時代は場所中であってもダーツの練習を欠かすことはほとんど無かった。 を始めとするにも造詣が深い。 の開会式では入場行進の際に先頭となるの先導役を務め、プラカード係の雪ん子を肩車して手を振りながら笑顔で登場、開会式の場を一気に和ませた。 好物は。 ただし、心臓や胃などに持病があったことから、服用する薬の関係で食べられなかった時期もある。 葬儀の際には棺に愛用していた眼鏡と共に納豆も入れられた。 2002年2月に結婚式を挙げた。 主な成績 [ ]• 通算成績:777勝559敗13休 勝率. 582• 現役在位:104場所• 幕内成績:647勝473敗8休 勝率. 578• 幕内在位:76場所• 大関成績:353勝194敗8休 勝率. 645• 大関在位:37場所(当時歴代4位・現在歴代7位)• 通算(幕内)連続勝ち越し記録:15場所(1992年11月場所〜1995年3月場所)• 幕内連続2桁勝利記録:4場所(1993年9月場所〜1994年3月場所・1994年7月場所〜1995年1月場所・1996年1月場所〜1996年7月場所)• 幕内連続12勝以上勝利記録:3場所(1993年11月場所〜1994年3月場所・1994年7月場所〜1994年11月場所)• 連勝記録:17(1997年9月場所7日目〜1997年11月場所7日目)• 各段優勝• 幕内最高優勝:2回 1996年1月場所、1997年11月場所• :3回• 敢闘賞:3回 1993年5月場所、1994年1月場所、2002年11月場所• 他に(も含む)で、(同部屋対決)に2勝。 魁皇・(同部屋)に各1勝、曙・武蔵丸に各1敗がある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 関係者のほとんどが「さだひろ」と間違えて呼ぶため、仕方なく現役時代はなども「さだひろ」に変えてしまったというエピソードがある。 日本のでは名前の読みは登録しないため、改名など特別な手続きは必要ない。 後に歴代1位タイの・に抜かれ、にも抜かれたために2020年3月現在は歴代7位。 後に千代大海龍二・魁皇博之・琴欧洲勝紀に抜かれ、2020年3月現在では歴代6位。 現在の最長記録は、(平成25年)3月場所に十両で引退したの68場所。 、と優勝決定戦• 曙、、、と優勝決定戦• 途中休場• 関脇陥落• 大関特例復帰• 関脇再陥落 出典 [ ]• 2015年6月22日閲覧• 朝日新聞デジタル. 2015年6月20日. 2020年2月15日閲覧。 スポーツニッポン 2015年6月22日閲覧• Sponichi Annex 2014年1月25日 05:30• 『相撲』2013年12月96頁• 日刊スポーツ 2014年5月11日閲覧• 2015年1月29日17時8分 スポーツ報知• 日刊スポーツ 2015年6月20日閲覧• 毎日新聞 東京朝刊 2015年06月22日記事• 『どすこいFM』2012年9月場所9日目の中継における本人の発言。 SANSPO. COM 2015. 22 05:03• sumodb. 2008年11月27日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 日本相撲協会•

次の

【相撲コラム】音羽山親方[元大関・貴ノ浪]急逝

貴ノ浪 こと 音羽 山 親方

死去した元大関貴ノ浪の音羽山親方 大相撲の元大関貴ノ浪の音羽山親方(本名・浪岡貞博)が20日、急性心不全のため、大阪市内のホテルで死去した。 43歳だった。 藤島部屋に入門し、1987年3月場所、本名の浪岡で初土俵。 91年3月場所で十両に昇進したのを機に、四股名を貴ノ浪とした。 同年11月場所で新入幕。 94年1月場所後に大関に昇進した。 96年1月場所、97年11月場所で幕内優勝を果たした。 99年9月場所中に足を痛めて休場すると、角番で迎えた同年11月場所で6勝9敗と負け越して、35場所連続で保持していた大関から関脇に陥落。 2004年5月場所前には大関時代から悪かった心臓の不調で入院し、5月場所には出場したものの、場所中に現役引退を表明した。 引退後は年寄音羽山を名乗り、貴乃花部屋付きの親方として後進の指導にあたっていた。

次の

元大関貴ノ浪、音羽山親方急性心不全で死去 43歳

貴ノ浪 こと 音羽 山 親方

大相撲好き好角系女子 イガです。 どーもー。 例の問題作出版で物議を醸すからさらなる衝撃作が。 「ボーズラブ」が社会を動かすらしいです。 *記事はこちら。 新ジャンル誕生か。 これ、誤植っていうか、のカモフラージュなんじゃないですかね。 若すぎる、早すぎるよ・・・悔しすぎます。 【復刻】貴ノ浪が同部屋の横綱貴乃花との決定戦制す - 大相撲 : 日刊スポーツ 親方といえば、でも審判部を勤められたり、ゲスト解説で登場したり、また後進の育成に助力されていたり。 まだまだこれからって時に。 それに、平成8年のとの優勝決定戦含め、の名勝負の数々、やくさんナビゲーターの「大相撲いぶし銀列伝」で観たかったな。 親方のインタビューとともに… こういう若すぎる元力士の死去に出くわすたびに、なんとも複雑な気持ちになります。 近年の、力士の「重量化」傾向。 体を大きくするための過剰な食事量。 急激に体重を増やした代償に、力士生命はもとより、人生そのものをも損ないかねない重篤な怪我や病気。 これってなんとかならないものだろうか、って度々思う。 過剰に急激に巨大化しなくても、また熾烈な取組みにも耐えうる体づくりや稽古の仕方ってあるんじゃないのか、と。 私たちとしては、ただただ長く彼らの活躍を見たいのです。 ケガや病気でボロボロの姿で土俵に上がる姿ではなくて、ね。 いずれにせよ、親方、お疲れ様でした。 ご冥福をお祈りします。 *補足* そして、発見。 それでいて感情に流されないクレバーさが光る。 平成8年。 との優勝決定戦の動画。 iga-blog.

次の