モスクワ オリンピック ボイコット 理由。 ソ連で開かれた最初で最後のオリンピックの10の事実(写真特集)

英仏も参加したモスクワ五輪 この事実がなぜあまり知られていない?(1/4)

モスクワ オリンピック ボイコット 理由

大会開催までの経緯 [ ] ソ連はでに初参加してから、常に国別の争いで上位に立ち、と呼ばれるトップ選手の獲得を国威発揚に活用していた。 その集大成として、自国の首都モスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。 一方、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、での()などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。 その中で、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は支持を集め、、ので開かれた第75回でモスクワでの1980年夏季五輪の開催が決定された。 1980年夏季オリンピック 開催地投票 都市 国 1回目 39 20 モスクワでの初の開催の決定を受けて、大会施設の建設が急ピッチで行われたほか旧態化していたモスクワの当時の空の玄関であるのが大幅改修されるなど行われた。 ボイコット問題 [ ] 開会式に入場する代表チームの旗手。 でソ連と対立するのが1980年1月にボイコットを主唱し、、のや、それに1979年10月の IOC 理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、以降ソ連と対立関係にあったや、、、などといったでを支援する諸国、および的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた。 一方で・の西側諸国の大半、すなわち、、、、、、、などは参加した。 イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。 またフランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの、開会式の入場行進には参加せずイギリス、ポルトガルなど3カ国は旗手1人だけの入場行進となった。 これらの参加した西側諸国は概ねを用いず、優勝時や開会式などのセレモニーではとが使用された。 ただし、は国旗を用いている。 アメリカは、、日本、西ドイツ、中華人民共和国といったボイコットした国々とモスクワ五輪に対抗した競技大会を準備し 、 ()として1980年7月にで開催された。 日本 [ ]• ボイコット決定前 - 日本では決定前からモスクワオリンピック参加確定をほぼ疑わない空気が醸成されており、オリンピック協賛企業のテレビCMでは「頑張れニッポン!は近い!」と煽るフレーズが盛り込まれていたほか、後述の『めざせモスクワ』リリースや製作の『』が放映されるなど、プレイベントが各媒体で大々的に行なわれていた。 1980年2月 - 前月のアメリカからの西側諸国への要請を受け、は大会ボイコットの方針を固めた。 一方、 JOC は大会参加への道を模索した。 1980年4月 - 日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。 多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた。 1980年 - JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定された(なお、この採決は挙手によるもので、(当時)も出席しており、各競技団体の代表者には、参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていた)。 1980年 - JOC常任委員会、(幻のメンバー)を承認し、同時に大会への不参加を確認する。 前後のボイコットとの関連 [ ] 上記3大会とも出場した国 モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけ、中心的存在であったアメリカが開催する予定になっていた、次()の夏季オリンピックであるには、のを理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットした。 中でもはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックを両方ともボイコットしている。 なお、前回のではの政策に絡み、諸国の多くがボイコットをしたが、今回の五輪では主にを除いたアフリカ諸国が復帰した。 一方で、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で次々回に開催されたには、中華人民共和国もほとんどのアフリカ諸国もソ連をはじめとする(とを除く)も参加し、大規模なボイコット合戦にようやく終止符が打たれた。 めざせモスクワ [ ] この大会に前後して、西ドイツのポップグループでもあるがモスクワをモデルにして作った曲『』が世界的にヒットした。 西ドイツはモスクワオリンピックをボイコットしたにもかかわらず、これが縁でジンギスカンはモスクワオリンピックに招待された。 日本でも(所属声優のユニット)やによってカヴァーされた。 前者はオリンピックを強く意識した歌詞、後者はオリンピックと全く関係ないモスクワ観光的な歌詞だった。 実施競技 [ ] モスクワオリンピックの。 西側諸国の多くがボイコットした事で、大会はのメダルラッシュとなった。 特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加えアメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。 金メダル80個はでのアメリカの83個に次いで、一つの大会での2番目の獲得記録となっている。 また、ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占めるもボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。 一方、東側諸国に押され気味の西側諸国の中ではイギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し、100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得している。 主な競技会場 [ ]• マイナー・アリーナ• オリニピック・プール• スポーツパレス• ドルジバ・マルチプロセス・アリーナ• (キエフ)• (サンクトペテルブルク)• ピリタ川(タリン) 各国・地域のメダル獲得数 [ ] 詳細は「」を参照 順 国・地域 金 銀 銅 計 1 (開催国) 80 69 46 195 2 47 37 42 126 3 8 16 17 41 4 8 7 5 20 5 8 3 4 15 6 7 10 15 32 7 6 6 13 25 8 6 5 3 14 9 5 7 9 21 10 3 14 15 32 主な金メダリスト [ ]• (、男子)• (、陸上競技男子)• (イギリス、陸上競技男子)• (イギリス、陸上競技男子)• (、陸上競技男子、)• (ソビエト連邦、陸上競技女子100m)• (、陸上競技女子)• (ソビエト連邦、陸上競技女子800m)• (ソビエト連邦、陸上競技男子)• (イギリス、陸上競技男子)• (東ドイツ、ボクシングフェザー級)• - 男子体操団体総合、個人総合他。 金3個、銀4個、銅1個を獲得し、のと並ぶ、個人の一大会最多獲得メダル記録を持つ。 ソビエト。 (、体操男子団体総合、種目別)• - 女子体操のと。 「白い妖精」。。 - 男子競泳自由形1500m。 人類史上初の「14分台スイマー」。 ソビエト。 - 女子。 この大会からまで金8個、合計12個のメダルを獲得。 東ドイツ。 - 男子マラソン。 に続く2連覇。 東ドイツ。 - 男子ボクシングヘビー級。 ミュンヘン以来の3連覇。 キューバ。 - 西側諸国のボイコットにより急遽繰り上げ出場となり、オリンピック初実施の同種目で同国初の金メダルを獲得。 大会マスコット [ ] 閉会式のマスゲームで涙を流すミーシャ ミーシャ をモチーフにした。 日本では系列(製作は)にて、開催の前年からこのマスコットを主人公とした『』というが放映されていた。 主題歌にはのも使われていた。 閉会式でやの影響でアメリカや日本、西ドイツや韓国といったがボイコットした事に対しての演出でミーシャが涙を流すというが行われた。 それから34年後のの閉会式にてミーシャの孫とされるホッキョクグマのマスコットが現れ、モスクワオリンピック閉会式の映像を流した後、スタジアムに設けられた小さな聖火台の聖火を吹き消すと共に一筋の涙をこぼすという場面が演出された。 テレビ放映 [ ] ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州では (31カ国)とインタービジョン (11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。 オーストラリアでは 、アメリカ国内では で放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。 また、カナダは当初で放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した。 日本ではに系列が独占放映権を獲得した。 しかし、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。 放映権料についてはを参照。 なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれたがソ連の高官と会っていたことから、に絡む黒い噂を含むが流れたことがある。 その後の影響 [ ] 国際的影響 [ ] 大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。 閉会式のミーシャの涙に象徴されるように、ソ連の失望と怒りは深く、次のでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。 それを暗示するように、閉会式でのでは「 ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。 大会後、がIOC会長を退任し、が新会長となった。 これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的にや大型スポンサー契約に依存するへの傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。 自国開催のソ連の選手には金メダル獲得が義務付けられ、他の東側諸国でも似たような状況となった。 その結果、組織的なが行われ、後に多くの選手が健康被害を受けることになったといわれている。 日本国内の影響 [ ] 種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。 団体競技の影響• 男子体操 - のから続けた5連覇が自動的に途絶えた金メダル奪回は、のにてようやく実現。 バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得に至っていない。 男子ハンドボール - の(以下、ロサンゼルス)、の(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、の(以下モントリオール)の9位には及ばず、の以降出場自体が途絶えた。 女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。 モントリオール以来の2度目の出場はのまで20年要した。 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催ののまで出場権獲得ならず。 特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。 個人競技の影響• - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。 その後大学生の身分のままプロ転向。 () - のを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。 のでは次女であるがオリンピック出場を果たした。 - 前年の71kg級で優勝。 代表が内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。 その後、の柔道師範としてを指導していたこともあった。 - 競輪に転向。 ロサンゼルスでは弟であるに託し銅メダルを獲得している。 - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまる。 - 現役引退。 後に復帰し、ロサンゼルスで銅メダルを獲得。 自転車競技 - 1977年にに合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場叶わず。 当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。 ボート、 - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった。 その後、国内各地のレガッタに出場した。 - 当時11歳。 夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった が幻に終わった。 その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したがいずれもメダル獲得は果たせなかった。 柔道 - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。 その後指導者となり、のでは審判員としてオリンピックの舞台に立った。 レスリング - 大学中退し、大相撲に転向。 レスリング - プロレスに転向。 1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。 柔道 - ボイコット決定の翌日に全日本体重別選手権で骨折を追う不運も重なるが、当時の東海大学総長の勧めで現地観戦。 それが功を奏しロサンゼルスにモスクワ組で唯一出場し金メダルを獲得。 テレビ朝日• 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った。 ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から、、、、、といった、のちに活躍することになる局アナを多く輩出した。 その後のJOCの対応• 不本意ながら政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは政府()から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、にから独立し、としての活動を行うこととなった。 再招致 [ ] モスクワは、したが最初の投票で落選した。 なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長がこの五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーであった。 脚注 [ ]• 日刊スポーツ 2014年2月24日閲覧• 2, p. 379• SANSPO. COM 2020年5月24日• - 毎日新聞 2015年03月26日 18時32分• 後にの短編集「」(「」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。 冬季は1936年の がいる。 参考文献 [ ]• 『オリンピックの政治学』(丸善ライブラリー、1992年)• 著「とオリンピック。 」 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 系で1979年8月 - 10月に月曜19:00 - 19:30 JST に放映された。 タイトルはモスクワオリンピックにちなんだもの。 司会は。 司会はと。 当初はモスクワオリンピックに向けて(同時にテレビ朝日の独占中継を)盛り上げる企画を予定していたが、日本政府の参加ボイコット方針により大幅に変更され、参加ボイコットの是非を問う企画がメインとなった(一部のバラエティ的な企画を除く)。 番組内では終始、参加の賛否についての視聴者アンケートも行われた。 なお、この番組のなかで「モスクワオリンピック応援歌」として初めて(生で)披露されたのが、「」(歌・)である。 外部リンク [ ]• (ロシア語)• 1896:• 1900:• 1904:• 1906: 注1• 1908:• 1912:• 1916: 注2• 1920:• 1924:• 1928:• 1932:• 1936:• 1944: 注2• 1948:• 1952:• 1956: 注5• 1960:• 1964:• 1968:• 1972:• 1976:• 1980:• 1984:• 1988:• 1992:• 1996:• 2000:• 2004:• 2008:• 2012:• 2016:• 2020: 注3, 注4• 2024: 注4• 2028: 注4• 2032: 注4.

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1980年モスクワオリンピックの日本選手団

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青天の霹靂 「それはまさに青天の霹靂だった。 暗雲は立ち込めていたが、とにかくそれは、あまりにも急で突然のことだった。 最初の感じは、あたかも地面にぽっかり穴が開き、そこにすべてが吸い込まれていくようだった。 まるで周りが真空状態になったみたいに。 長年取り組んできた目標が消えてしまった... 次に何が起こるのかもはっきりしなかった」 こう語ったのは、ウラジーミル・サルニコフ(1960~)。 「泳ぐ精密機械」、「波の怪物」などと呼ばれた競泳の名選手で、五輪で計4個の金メダルを獲得している。 ソ連のロス五輪ボイコットの報に接したときの気持ちを語ったものだ。 「カーター大統領のレベルまで自分を貶めることはしない」 ソ連当局は、アメリカが1980年のモスクワ五輪をボイコットしたことへの抵抗措置として、米国開催の五輪をボイコットする計画が前からあった、という意見があるが、サルニコフの証言は、それと明らかに矛盾する。 モスクワ五輪の前、ジミー・カーター米大統領は、 1カ月以内にアフガニスタンから軍隊を撤退させるよう、ソ連に最後通牒を突きつけていた。 米国とそれに同調した60カ国以上のチームは、1980年の夏、自国にとどまった。 1982年12月、ソ連政府(閣僚会議)第一副首相、ヘイダル・アリエフ(連邦崩壊後は、アゼルバイジャン共和国大統領)は、フアン・アントニオ・サマランチIOC会長にこう語った。 「我々はロス五輪に備えている。 ソ連がボイコットする可能性が取りざたされているのは、耳にしているが、我々は、カーター大統領のレベルまで自分たちを貶めることはしない」 だから当初、ソ連は五輪に前向きだった。 現在のロシア指導部もまた、疑いなく、五輪にノーマルな形で参加すべく努力したが、ドーピング・スキャンダルがその計画を妨げた。 ヒステリーと非難の応酬 再び、ロス五輪の前に話を戻す。 なぜ、ソ連政府は、五輪への態度を変えたのだろうか?おそらく、1983年後半から、政治的緊張が著しく高まったせいだろう。 9月1日、ソ連空軍機による大韓航空機撃墜事件が起き、西側諸国でごうごうたる非難が湧き起こった。 それに続いて、ソ連寄りのグレナダ(カリブ海の島国)への米国の介入、米国の中距離ミサイルのヨーロッパへの配備が続いた。 2つの超大国の関係は、こうしてどん底に落ち込んだ。 ついに1984年5月、ソ連指導者、コンスタンティン・チェルネンコ書記長と政治局は、ロス五輪ボイコットを決定。 これに14の社会主義国が続いた。 「ありがとう、同志チェルネンコ」 ソ連選手不在で最大の恩恵を受けた国は、もちろん米国だった。 同国は、金83、銀61、銅30のメダルを獲得。 221のメダルのうち、実に174を得た。 この金メダル獲得数は、依然破られておらず、五輪史上最多である。 閉会式で、米国の解説者は、ソ連の指導者が「五輪史上最多の金メダルを米国に与えてくれた」として、「同志チェルネンコ」に感謝したが、確かにその通りだったろう。 これに対し、1980年モスクワ五輪でのソ連の金メダル獲得数は、これよりわずか3個少ないだけで、しかも銀と銅はもっと多く、計195個のメダルを得ていた。 その余勢をかって、1984年五輪の展望も明るかった。 1983年のスポーツシーズンの結果から、ロス五輪では、金62(東ドイルが40、米国が36~38)を獲得できると予想された。... ソ連はロス五輪で勝てると確信していた。 1988年のソウル五輪は、その予想の正しさを裏付けた。 我々の勢いは止まらず、他の国を粉砕することになった(ソ連の金は55、米国は35にとどまった)」。 後に、ソ連国家スポーツ委員会のアナトリー・コレソフ副委員長はこう語った。 当時のIOCも、ボイコットという事態を防ぐために尽力し、サマランチ会長が仲介者として、超大国間の交渉を試みた。 しかし、いずれの側も妥協の用意はなかった。

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オリンピックの歴史10

モスクワ オリンピック ボイコット 理由

だから!アナタ、だれ!? ボイコットとは? ボイコット フランス語:boycott 1 組織的、集団的にある商品を買わずに、取引を拒絶すること。 不買同盟。 2 団結して特定の人を排斥したり、会合や運動などに参加しないこと。 「投票をボイコットする」 [補説]1880年ごろのアイルランドで、小作人から排斥された土地差配人ボイコット大尉の名に由来。 英語会話の中でも次のように使われます。 the boycott of Japanese goods 日貨排斥運動(日本の製品の不買運動のこと)• boycott a meeting 会議をボイコットする。 会議への参加を拒否する 一方、現代日本社会で主に使われている 「ボイコット」は、• 「組織的、集団的にある商品を買わずに、取引を拒絶すること。 不買同盟」• 「団結して特定の人を排斥したり、会合や運動などに参加しないこと」 などの意味になります。 ボイコットの語源は? この「ボイコット」の語源になってしまったのは、一人のアイルランド人でした。 【 チャールズ・カニンガム・ボイコット Charles Cunningham Boycott 】 元英国陸軍大尉で、退役後アイルランドの土地管理人となるが、1880年夏に地代を値上げした際、小作人たちの反感を買い、彼らの組織的な排斥 はいせき 運動の標的となった。 小作人達はボイコット一家への食糧補給や通信の断絶など、「非暴力による抵抗」の戦術を取り、孤立したボイコット一家は、命からがらイングランドへ逃げ帰ったという。 この事件は当時の新聞の第一面で報道され、「boycott」という名前は、たちまち英語の動詞および名詞として使われるようになった。 退 しりぞ けるには 「職や地位を辞めさせる」「追い返す」「追放する」などの意味があります。 つまり、ボイコットは小作人たちの「非暴力による抵抗」により、土地管理人という職を追放された、というわけですね。 なるほどね。 「祖先のボイコットがさぁ~」と、ネタにするのもアリだね! ボイコットの使い方や使用例 例 黒人たちのバス乗車拒否のボイコットにより、市の財政は窮地に立たされた。 このボイコットは 「消費者が同盟して商品の購入を行わない(不買運動)、又はサービス、納税、料金の支払等を拒否する」の意味です。 例文にあげたのは、1955年にアメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリーで始まった人種差別への抗議運動のことです。 翌年、アメリカ連邦最高裁判所は、地方裁判所の判決を支持する形で、モンゴメリーの 人種隔離政策に対して違憲判決を下し、運動は1956年12月20日に公式に終了しました。 それがいわゆる 「人種隔離政策」のひとつの事例だった、ということだな。 遠い昔の話ではない。 つい、70年位前のことだ。 例 与党の強行採決に対し、野党が反発して投票をボイコットした。 このボイコットは 「投票の参加を拒否する」という意味です。 政治の分野におけるボイコットは「多数党の強引な審議」など 「強力な権力を盾にした強引な行為」に対して、 自分達の「要求」を訴え「改善」を求めるために行われます。 例 1980年のモスクワオリンピックは日本を含む西側諸国の集団ボイコットが行われた。 このボイコットは 「ある集団で同盟して参加を拒否する」の意味です。 国際政治においてのボイコットは、各国の政治的立ち位置や利害関係が原因となり、オリンピックなどの大きな世界的イベントに対して行われました。 【オリンピックにおけるボイコット】• 表向きは前年のアメリカのグレナダ侵攻を理由としましたが、実際は前回モスクワオリンピック不参加への報復と言われています。 例 社会的不祥事を起こした企業製品に対してのボイコットが呼びかけられている。 このボイコットは 「不買運動。 不買同盟」の意味です。 企業に対する 労働争議戦術である「ボイコット」には主に3つのタイプがあります。 3、の事例としては、1970年代の森永ヒ素ミルク中毒事件における 「森永製品不買運動」が広く知られています。 これは公害事件を起こした森永乳業が、ヒ素被害者の救済を長年月に亘って拒否し続けることに抗議して、全国民的に取り組まれたもので、第二次世界大戦後史上最大規模とも言われる、 大規模な日本のボイコット運動例です。 >参考引用: ボイコットの類語 ボイコットの「労働争議戦術」の類語・関連用語として 「ストライキ」、 「サボタージュ」、また「不参加」の意味の類語として 「デフォルト」などがあります。 ストライキ strike:英語 「労働者が労働条件改善などを要求し、団結して業務を停止する行為」 「ストライキ」も労働争議戦術のひとつですが、「ボイコット」は「不買運動。 不買同盟」という、主に 「製品の不買を通して雇用側に訴える」ものであるのに対し、「ストライキ」は 「業務を停止することにより、雇用側に損害を与え、紛争の解決を迫る」という戦術であるのが、大きな違いです。 サボタージュ sabotage:フランス語 「仕事には従事しているが、意図的に仕事の能率を低下させること」 「サボタージュ」も労働争議戦術のひとつですが、 「労働者が団結して仕事の能率を落とし、雇用側に損害を与えて紛争の解決を迫ること」という形態をとります。 不買同盟。 2 団結して特定の人を排斥したり、会合や運動などに参加しないこと。 [補説]1880年ごろのアイルランドで、小作人から排斥された土地差配人ボイコット大尉の名に由来。

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