西 荻窪 ゴードン。 潰れたパチンコ店・閉店したパチンコ店一覧 : 東京都

安斎 (あんざい)

西 荻窪 ゴードン

中央線沿線、23区内最西に位置する。 南口には「すずらん通り商店街」に「仲通り商店街」、北口には「教会通り」に街道を中心とした繁華街があります。 そして「元祖ラーメン激戦区」としても名高い。 たしかに美味しいラーメン屋さんもいっっっぱいあるのですが、のグルメはラーメンだけじゃない! 美味しいさんもたくさんあるんです。 今回は〜西エリアで見つけた選りすぐりのさん10店をご紹介します。 外には、わんちゃんと一緒にランチを楽しむことができるテラス席も。 ベビーカーをひいたママさんの姿もちらほら。 とても広い店内なので、そうした子ども連れの方や大人数での来店にもピッタリですね。 だけでなく、ケーキとドリンクセットを楽しむことができます。 こちらのおすすめは、「バジルチーズ」と「黒こしょうリュスティック」。 バジルチーズは、トマトピューレ入りの生地に生バジルとチーズがIN。 チーズの風味がとにかく食欲をかきたてます。 控えめだと思っていたトマトの酸味もあとから追いかけてきて、生バジルの香りが鼻を抜け、絶品としか言いようがないです。 黒こしょうリュスティックは、名前の通り、「」と「黒こしょう」がメインとなったシンプルな。 ちなみに、リュスティックって何かご存知ですか? フランスの一種で、フランス語で「田舎風」という意味なんだそうですよ。 柔らかいの生地の中で、の野菜本来の甘みが引き立ち、さらに黒こしょうのピリ辛さが全体を包みます。 こんな田舎なら毎日帰りたい。 私が行った時間帯は、イートインスペースでくつろぐ方がたくさんいらっしゃいました。 焼きたてのを買ってその場でランチするも良し、テイクアウトでお家で楽しむのもおすすめです。 常連化即決定。 「Zermatt」 店舗名からしておしゃれなこちらのお店はオープンからちょうど10年! 帯の閑静な住宅街の中にあります。 「Zermatt」と書いて「ツェルマット」と読むそうです。 天然酵母のは発酵に12時間以上時間をかけるというこだわりっぷり。 「お客様にふんわりとした食感を楽しんでほしい」……その一心で日々努力を重ねているストイックさ、まさに職人技。 外観だけでなく、店内もおしゃれ。 スタッフさんの一押しは「トレフル」。 ふわふわしていながらも、しっかりとした食感の生地に雑穀が練りこまれているのが特徴です。 こちらのトレフルは、レギュラーで売られているものと、日替わりで作られているものとがあります。 このときの日替わりトレフルには、クリームチーズとあんずジャムが乗っていました。 クリームチーズの甘さと雑穀のサクサクとした食感、そこに加わるあんずジャムの甘酸っぱさ。 これこそが「初恋の味」。 こちらが日替わりトレフル。 こちらが通常のトレフル。 店員さんもとても親切で、おすすめを聞くと楽しそうにお話してくれたのがとても印象的でした。 への愛が溢れているのが伝わってきて、なんだかほっこり。 ご家族、お子様連れでも安心な広いイートインペースとお子様用に絵本を置いている優しさも素敵ですね。 こんなお店が近所にあったら確実に常連になります。 是非ともチェーン展開をお願いしたい、筆者一押しのさんです。 こちらの商品は全て、産の小麦を使用したものです。 特製あんぱんの中の手作り粒あんももちろん、産。 こちらはおすすめの「手作りあんぱん」と「チョコチップミルクボール」と「世界一おいしい!? 野菜たっぷり」の3品。 ふわふわとしたロールの中にレタスやトマト、たまごなどぎっしりと詰められた手作り。 サンドされている具材のチョイスがまさに世界一ですね。 生地はもちろんのこと、中の粒あんも産のものを使用しているという徹底っぷり。 そして一口食べてみると、これでもかというくらいに粒あんがぎっしり! 小さいあんぱんだからってなめてました。 これを産の牛乳とかと合わせて飲んだら、美味しいんだろうな〜。 ハズレなしのベーグル屋さん「ポム・デ・トール」 こちらのお店のベークルは、まず種類が豊富で、およそ100種類以上にもなるそうです。 季節ごとに店頭に並ぶベーグルが違うのでどんな季節に行っても新商品が楽しめます。 野菜やナッツを使ったサンド向きベーグルの「ナチュラル・野菜系」、練りこんだり巻き込んだり、ナッツと組み合わせたフルーツたっぷりな「フルーツ系」、クリームチーズやゴーダなどを使ってそのままでもおいしい「チーズ系」、他にもスイーツ系や和系、デコレ系、リッチ系など、バリエーションの豊富さに見ているだけでテンションが上がります。 よりベーグルを楽しむための、こんな商品たちも取り揃えられています。 やラザニア、ジャム……。 お店を移動しなくてもここ「ポム・ド・テール」だけで全てが揃うのも、魅力の一つですよね。 前述の種類でいうと、スイーツ系に当たります。 割ってみると、もっちりが止まりません! ひとたび口に入れると、噛みごたえのある生地とちょっとほろ苦いの風味が広がります。 最っ高の組み合わせ。 こちらは季節商品の「よもぎあんバター」。 粒あんとバターの組み合わせなんて、合わないわけがない! 名前だけでもそそられます。 他のベーグルとは違ったふんわりとした生地を使用しているのも季節商品ならでは。 個人的にはよもぎが大好きで、つぶあんマーガリンのはよく見かけますが、よもぎあんバターはなかなかありませんよね。 季節限定と言わず定期的に食べたいです。 かわいらしい外観と、ふくろうの看板が目印です。 店舗前には「店内は狭くなっているので4名ずつの入店をお願いしています」との張り紙があります。 大人数では入れないのですが、逆に人混みが苦手な方や、一人で静かにお買い物をしたいという方には、ちょうどいいお店かもしれません。 食やバケットといった定番商品はもちろん、ここでしか買えない「サバカレー」と「西荻ハリーくん」も人気商品。 つぶらな瞳でかわいらしい見た目のハリーくん。 食べるのが勿体ないですね。 こんなにかわいい見た目ですが、中に入っているのはベルギー産のカカオたっぷりのちょっと大人な味の。 こちらは名前を聞いて誰もが驚いたと思いますが、「サバカレー」です。 金曜日・土曜日・日曜日の3日間の限定商品なので、ぜひ週末に訪れてみてください。 鯖缶とカレーなんて本当に合うのだろうか……。 と疑問でしたが、食べてみると一口目の衝撃がすごい! 「こんな組み合わせ、アリなんだ!」と感動してしまいます。 少し辛口のカレーと鯖缶が絶妙に絡んでいて癖になります。 シーフードカレーが好きな方には是非食べてたいです。 カラっとあげられた生地との相性もバツグンです。 店名 : えんツコ堂 製 住所 : 都杉並区西荻北4-3-4 TEL : 03-3397-9088 営業時間 : 9:00〜18:00 第1・3・5火曜定休 6. 小さいお子さんからも大人気!「焼き工房そーせーじ」 焼き時間を細かくお知らせしてくれているこちらのお店。 焼き上がりを狙って入店すると、お子様連れの方々でいっぱいでした。 こんな風に焼きあがり時間が明記されています。 やっぱり、は焼きたてが美味しいですからね! とっても嬉しい心遣いです。 ちょうど焼きたてだった「よもぎあんぱん」をゲットできました。 焼きたてのはアニメに出てきそうなほどふわふわで、トングで掴むだけで潰れてしまうのでは、と不安になるほど。 よもぎあんぱんに加え、「季節野菜のキッシュ」と「グリエールチーズ」もゲットできました。 中には、これでもかという量の季節の野菜と、クリームチーズ、がたっぷり。 たくさんの具材と卵とクリームチーズが濃厚に絡み合って、食べごたえ抜群。 もちろん冷めてもおいしいですが、温かいうちにいただくのがおすすめです。 こちらは日替わりで具材が違うようです。 グリエールチーズは、風味豊かなチーズと生地がどちらももちもちで統一されているのが特徴。 あたためて食べると、チーズがさらにもちもちになって美味しくいただけます。 ちなみに、お車での来店は厳禁だそうなので、ご注意を。 オープンして7年目になるそうです。 店内にはかわいらしいポップで彩られています。 種類も豊富なので、「どのを買おうかな~」と悩んでも、おすすめがわかりやすく、すぐにお気に入りのを見つけられるはずです。 親切な店員さんのアドバイスをもとに今回は「リュスティックチーズ」「ロール」、「コッペ」の3品をチョイス。 リュスティックチーズはもちもちとした生地の中に、あふれんばかりのチーズがイン。 小さいのであっという間になくなってしまって物足りないという方は、3個セットでも販売しているのでご安心を。 おやつ感覚でパクパクと食べているといつのまにか完食してしまっています。 私は「あ、これ一生食べれるやつだ!」と思ったほど。 そんな飽きない一品でした。 コッペは、野菜がたっぷりはいったがコッペの中にサンドされていてとてもボリューミー。 学生時代、通学路にあったら確実に通ってました。 おやつにも、ランチにもおすすめです。 イートインスペースでくつろぐお子様連れの方もたくさんいらっしゃいました。 まさに、家族で食べてほしいというお店の願いが叶っていますね。 多分、いや絶対! 調理をつくる天才がいるお店「藤の木」 西駅北口から徒歩3分。 藤の木は、商店街の中にあります。 私が入店して真っ先に目に入ったのが、この「チーズフォンデュ・デラックス」。 おすすめでなくても絶対に買って帰ろうと企んでいると、「調理人気No. 1」の文字。 チャバタの間にハム、ドライトマト、チーズを挟んでいます。 こっそりといるオイルも相性抜群。 これぞまさにチーズフォンデュ。 あたためて食べると、よりチーズがとろけて最高です。 こちらのお店の調理人気No. 2は、「カレー」。 野菜がごろごろと入っていて、口当たりのいいひき肉が絶品です。 外はサクサク、中はもちもちとした食感も理想的なカレーですね。 まん丸な見た目もキュートです。 菓子の人気No. 1は「西荻薄皮あんぱん」。 名前の通り、薄い皮ともちもちした生地の中に、たっぷりと粒あんが入っています。 薄皮のあんぱんって、なぜだか懐かしい気持ちにさせてくれますよね。 さすが人気No. 1だけあって、絶品です。 こちらの店舗のお向かいには系列店の「藤乃木」という文房具屋さんがあります。 間違えないように注意です。 にいたのに、一気にフランスへワープした気分になれる落ち着いた店内が魅力的で、常連さんも多くいるようです。 全て手作りで、保存料・イーストフード・マーガリン・着色料・乳化剤は一切使用していないので、安心して食べられるのもいいですね。 優しい雰囲気の店員さんのおすすめは、「メロン」「ビスキュイ」「・ア・ラ・クレーム」の3品。 難しい商品名が多いですが、ビスキュイは写真左上のUFOのような不思議な形をしたのこと。 牛乳をたっぷり使った・オレ生地にビスキュイ生地を絞って焼き上げた。 不思議な形でサクサクとした食感のこちらのは、初めて食べる種類のでした。 日本でこんな本格的なを味わえるなんて、すっかり気分はパリジェンヌ。 こちらのお店のメロンは、牛乳をたっぷり使った・オレ生地にサクサクとしたビスケット生地を被せて焼いています。 中はふんわり、外はビスケット状の生地の牛乳の甘さが引き立つ、ここでしか味わえないメロン。 「・ア・ラ・クレーム」というこちらもオシャレなネーミングですが、いわゆるクリームのこと。 マダガスカル産のバニラビーンズを使用した自家製カスタードクリームを、牛乳たっぷりの・オレ生地で包んでいます。 他のクリームとは全く違う、鼻から抜けるバニラの香りが絶品です。 バケットが並ぶ店内は、入った瞬間にその香りで幸せな気持ちになれます。 店員さんのおすすめはこちらの3品。 「チェダーチーズ」、「」、「トップドクリームチーズ」。 こちらは、「チェダーチーズ」。 フランス生地にたっぷりのチェダーチーズを包み焼き上げたです。 フランスの生地、と言いつつも柔らかい生地にびっくりしました。 チェダーチーズのおこげがたまりません。 こちらは「」。 名前はシンプルですが、フランス産のステッィクをフランス生地で包み焼き上げた至極の一品。 フランスのしっかりとした歯ごたえと、ステッィクのパリパリとした食感がマッチしています。 こちらは「トップドクリームチーズ」。 を練りこんだ生地にクリームチーズをトッピングしたものです。 店員さんとの対面販売方式で、清潔感はもちろんのこと、店員さんとお話ししやすいのもいいですね。 文字と写真だけでは伝えられない味や香り、お店の雰囲気を、ぜひ実際に行って食べて感じてください。 きっと、お気に入りのお店が見つかります。 (取材・編集:コンセント編集部).

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西 荻窪 ゴードン

ガリア統治時代 [ ] を経てローマ領内に移動したは、5世紀初頭の指導者のもとに侵入した。 ローマ帝国の首都ローマを寇略しローマ人に衝撃を与えた。 しかし皇帝の在所であったには手が出せず、西ゴート族は食料を求めを経由して渡航を企図したが失敗に終わった。 イタリアでの将来の見通しが立たなくなると、アラリック1世の死後、後継者となった幕下で西ゴート族はへと移動した。 西ローマ帝国は海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族はヒスパニアへと追われた。 建国 [ ] には西ローマ帝国と手を結び、イベリア半島を征服していた、らを討ち、418年に帝から正式に()の一部(沿いの土地)を与えられた。 彼は南ガリアで勢力を拡張し、トロサ()を首都と定め西ゴート王国が建国された。 とは基本的に友好な姿勢を保っていたが、敵対した時期もある。 西ローマ帝国滅亡後にイタリア半島を占領しを建国するとは連絡を保っていたが共同して行動することはなかった。 451年にはパリ西方のカタラウヌムでを撃退した()。 には西ローマ帝国の実権を掌握し、西ローマ帝国の名ででの勢力を拡大した。 に西ローマ帝国で西方正帝が廃止されると、エウリック王は混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。 このころからヴァンダル族は西ゴート王国に朝貢し、アフリカに退去したためイベリア半島への入植が進んだ。 フランス北部では興ったばかりのと争った。 宮廷官職 [ ] 西ゴート族の間では、までは制度的な宮廷会議が開かれることはなく、事実上数人の重臣 princeps が王の決定に助言を与える会合に参加していた。 その後、国の統治に関する王の意志決定に参与する宮廷官職が形成され、有力貴族をもって充てられた。 代表的な官職としては、王室及び国の財政を担当する comes patrimoniiや王の警護を担当する comes spatariorum、王の書記職である comes notariorumなどがある。 このような官職に就く貴族は宮中伯 comes, conde という称号を帯びていた。 やがて王の側近だけでなくカトリック教会の司教や、宮廷会議参加資格を有さない貴族や地方官をも含めた大規模な合議体である王会 Aula regia が形成され、中心的な国王の顧問会議となった。 これはトレド教会会議が国政に関与するようになるまでは大きな影響力を持っていたが、会議の主導権はあくまで国王の側にあり、王が召集し、その議決は王を拘束するものではなかった。 イベリア半島時代 [ ] 700年頃の西ゴート王国の領域 に率いるに敗れ、西ゴート王国は宮廷を南フランスからに移した。 西ゴート王国は、531年にも再び敗れガリアの領地のほとんどを失った。 に首都をピレネー山脈の北のトロサからへと移した。 アリウス派からカトリックへの改宗 [ ] 西ゴート族はを信仰していた。 によれば、西ゴート族がローマ帝国内に侵入した際のローマ皇帝がアリウス派だったためである。 ウァレンス帝はを奉じるを弾圧し、アリウス派信仰を正統としていた。 西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止され、背景には信仰の相違があったと考えられている。 レオヴィギルド王の時代にゴート人とローマ人の通婚は許可された。 ローマ帝国領内侵入からイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、カトリック勢力との軋轢は目立たない。 イスパニア定住後に軋轢が増加するがその原因はカトリック聖職者の側にあったとされる。 イシドールス『ゴート人の歴史』には西ゴート王の異端の過去には配慮が見られ、彼らがカトリックに寛容であったことが強調されている。 そのためエウリック王のカトリック迫害にも沈黙している。 西ゴート中興の英主王はガリアを喪失して以降分裂傾向にあった国内を再統一した。 宗教政策上もカトリックには弾圧を加える一方、アリウス派の教義をカトリックが入信しやすいよう一部改変し、統一をはかった。 カトリックに改宗したがあったが 、反乱の翌に王はアリウス派の教会会議を開き、従来「父」より下位に置かれていた「子」を、「父」と同格とした。 これによりカトリック側からの改宗者が増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩しと捉え、反発した。 つづく王はに、と同じくカトリックに集団改宗した。 王の改宗は個人的なものとも集団的ともとれるが 、の第三回にて西ゴート王国は公式にからカトリックへ改宗した。 これによりアリウス派の反乱を鎮圧、王権と教会の提携を強め、西ゴート王国はカトリック国家となった。 会議では、教義だけでなく世俗的な問題も議題とされ、世俗の高官も臨席した。 首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。 レカレド王以降の王はからの約110年の間に18回の宗教会議を召集し、6世紀中頃からはの色彩を帯びるようになる。 イベリア半島制圧 〜再征服と統一〜 [ ] フランク王国、イベリア半島の先の征服王朝であるやの下で西方領土の回復を目指すとしばしば争った。 555年には東ローマ帝国が西ゴートの内乱に乗じて、、などを占領している。 これ以後、東ローマ帝国のヘルメネギルドの乱(から)への関与、とに起きた東ローマ皇帝との戦い(どちらの戦いも東ローマ帝国が領土を幾らか奪った)というようにカトリック改宗前後も戦乱が絶えることは無かった。 レカレド1世の次々代ウィテリック、ウィテリックの後継者グンデマルも東ローマ帝国と交戦、グンデマルの後を継いだシセブトの時代にようやく東ローマ帝国に対して優勢となり、にはスウィンティラ王の下、イベリア半島のほぼ全土を支配するに至った。 但し、まで地方(現在のの最南端部)に東ローマ帝国の拠点が維持されていたとする史料も残っている為、634年以降、つまりスウィンティラ王から王位を簒奪したシセナンド王の時代以降に統一が完了したと見ることもできる。 滅亡 [ ] にイスラーム勢力のがイベリア半島に上陸、最後の王であるがで戦死して滅亡した。 一部の残党はまで抵抗を続けたが、一般的にはこの年を滅亡年とする。 滅亡したあと、西ゴート王国の王族とキリスト教徒の一部はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込みを建国 、後の、のもととなった。 西ゴート王国時代の建造物などはほとんど残されていないが、多くの国民は宗教的に寛容なイスラム支配を受け入れ、後のスペイン文化の基礎を作っていった。 法制 [ ] 西ゴート族はローマとの交流を早くに持ったため、ローマ化するのも早かった。 イベリア半島に定住してからはゲルマン慣習法と(のちにはキリスト教の要素も加味された)に基づく法令がたびたび発され、征服地であるイベリア半島の住民とゴート族の融合がはかられた。 これはゴート族が学問を重んじ、ギリシャ・ローマ文化の維持に努めたためだと考えられる。 ないしのおよびのではの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した。 630年代におこなわれた3回の公会議は世俗の問題についての議決を多く含むが、『西ゴート統一法典』にはこの時期の王の名を冠する法は採録されていない。 公会議が王国会議と見なされ、議決が王国法として機能したためとされる。 玉置さよ子は、この時期の王、シセナンドとキンティラの名を冠した法が『西ゴート統一法典』に採録されていないのは王以降西ゴート王の王権強化の意図が見えるとする。 たとえば反ユダヤ人立法では、シセナンド・キンティラ両王の時代に王の名による世俗法の立法が見られず、カノンの決定に反ユダヤ規定があることに鑑みると、世俗的なシセナンド・キンティラ期のカノンは世俗法の代わりを果たしていたと思われる。 キンダスイント王以降、西ゴート王は世俗法制定を通じて王権強化を図ろうとしたが、シセナンド王とキンティラ王の時期に公会議によって世俗法が決定された前例はこれと対立する事実である。 したがって、キンダスイント王の子であるレケスイントは、『西ゴート統一法典』において意図的にこの2王の名を冠した章を設けなかった。 『西ゴート統一法典』により立法に対する西ゴート王の絶対的権限が確立された。 654年にリベル法典が発布され、同時に属人法の廃止、すなわち人種によって法令の使い分けがなされなくなった。 つまりこの時期の頃にはすでにゴート人と先住人の文化的な差異はなくなっていたと見られる。 このとき異人種間の結婚が公に認められ、人種的にも同化が進んでいったと考えられている。 政治・文化 [ ] 指導者は世襲と合議・選挙による選出という古ゲルマンの慣習に従ったもので有力者や合議・選挙に参加する貴族の利害が絡んだため、王の暗殺、廃位や内戦がたびたび起こった。 イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったことからも王権の弱さがわかる。 に対するの反乱も、「血筋」に「実力」を優先する伝統的概念によって正当化されるものであり、改宗後のウィテリックによるリウヴァ2世殺しもそれに含まれる。 更に、時の王が息子を共同王に指名したことによって次王即位の望みを失った有力者が、父王の生前に陰謀を企てる場合も考えられる。 シセブト王の治世の奇妙な終わり方 は著明な例と考えられる(『ゴート人の歴史』は、そのようにして即位したスウィンティラへの遠慮から表現を抑えたと思われる)。 王座にある者は常に息子に位を継がせようとしそれに反発した有力者が剣を取る。 クラウデが分析したこの力学によって、王権は王国滅亡の直前まで不安定な側面を持ち続けた。 レカレド王の改宗 [ ] 当時のゲルマン人の集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできない。 までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていたのに対し以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われた。 また西ゴート王国は改宗以前に、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はからカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった。 レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある。 宗教政策 [ ] 589年のによるカトリック改宗も先住ラテン人たちとの対立解消に役立ったが、同時にアリウス派を信じる人々との溝が深まり内戦の原因となった。 レカレド1世は同時にローマ貴族であるを名乗るが、これも民族融和策の一つと考えられている。 王国の初期にはユダヤ人に対しても寛容であったが、宗教の政治への介入が強まるにつれて非寛容へと転じていった。 第4回トレド公会議で定められた75のカノンの最後のカノンにおいて、イスパニアの君主と教会の関係に言及している。 このカノンはのちの公会議で繰り返し言及され、西ゴート王国における聖俗の権力関係を規定していくことになった。 カノンは西ゴート古来の選挙王制に言及し、ゴート人の代表と聖職者によって王が選ばれるべきと述べる。 さらに王に正義と敬虔を要求し、法による支配を求め、法に反した支配をおこなった王は破門されると記す。 このような規定により、イスパニアの教会はここにおいて西ゴート王国の現実政治に直接的な責任を負う存在と自らを位置づけたのである。 トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。 のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。 確実に知られるのはのワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。 西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。 王権と教会の関係 [ ] 西ゴート王国の王権と教会の関係については、特に王のカトリック改宗後の両者の関係を「神権政治」ないし「神政政治」と見る見方が以来支配的であったがに国王の側に主導権を認め、君主専制国家として教会を従属させていたと見る見方が提起された。 また改宗前の西ゴート王国については、フランク王国を除く他のゲルマン民族国家と同様、支配者と被支配民の間で信仰が異なる「二重国家」の典型として見られてきたが、そのことが過去の日本において、カトリック改宗後の西ゴート王国について研究を滞らせてきた。 年表 [ ]• 、内へ侵入• - がローマ包囲• - ローマ占領• - 都をに定め建国• - 即位• - と連合を組みと。 勝利を得るもテオドリック1世は戦死。 - 一時的にの実権を掌握。 - エウリック王法典編纂(対象は)• - 西ローマ帝国でが消滅• - アラリック抄典編纂(のテオドシウス法典の焼き直し。 対象は、ゴート人とイベロ=)• - と ()に敗北、が戦死。 のみの統治に• - に遷都• - の攻撃に遭いスペイン南部を喪失• - に遷都• - が父王レオヴィギルドに対して反乱を起こす(ヘルメネギルドの乱)。 - ヘルメネギルドの乱終結。 - を併合。 ヘルメネギルドが処刑される。 - を公認。 も改宗• - 統一• - 属人法を廃止• - を迫害• - の攻撃にあい滅亡()• - 完全に滅亡 歴代君主 [ ]• ( - )• (410年 - )• (415年)• (415年 - )• (418年 - )• (451年 - )• (453年 - )• (466年 - )• (484年 - )• (507年 - )• (511年 - )• (531年 - )• (548年 - )• (549年 - )• (551年 - )• ( - )• (568年 - )• (586年 - )• (601年 - )• (603年 - )• (610年 - )• (612年 - )• (621年)• (621年 - )• (631年 - )• (636年 - )• (640年 - )• (642年 - )• (649年 - )• (672年 - )• (680年 - )• (687年 - )• ( - )• (710年 - )• (711年 - )• (714年 - ) 系図 [ ] 文献• , pp. 245-247. 214. , p. 124. , p. , pp. 37-38. , pp. 34-35. , p. , p. , p. , pp. 56-57. , pp. 30-38. , pp. 48-49. , p. 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(1999年 )P190-191• 西川、p. 西川、p. , p. , pp. 90-98. の乱など。 『ゴート人の歴史』によればシセブト王は、「自然死とも、薬の飲み過ぎとも、ある人は毒殺ともいう」と記され、「父王(シセブト)の死後、息子レカレド(2世)が数日間統治して死んだ」と続いている。 実際、レカレド2世から王位を奪ったと考えられているスウィンティラもに有力者シセナンド(一説に息子)がフランク王ダゴベルト1世の支援を受けて蜂起し、王座を追われ、修道院で死去した。 第4回トレド宗教会議で「王は髪を長くすること及び僧職の衣服を纏ってはならない」と定められていた。 ワムバは一度は復位を要求したが却下されて、エルウィグが王位を簒奪した。 ワムバはの修道院で余生を送り、に没した。 両者の対立に乗じて勢力がに進出し、のロデリックの戦死で事実上、西ゴート王国は滅亡した(アギラ2世は頃まで王を名乗って抵抗を続け、アギラ2世の死後はアルドが王位を引き継いだとみられるが、頃にイスラムの侵略の最中に死去したと考えられる)• , pp. 339-340. , pp. 64-65. , pp. 70-77. , pp. 51-52. , pp. 8-9. , pp. 7-8. 領であるスパニア属州を征服し統一が完了。 統一年に関しては史料が少なく、研究者の間で、、、、など複数の説が唱えられており確定することができていない。 但し、シセブト王の時代( - )に完全に優勢となって、ほぼ征服事業が終わりに近づきその子レカレド2世()の短期間の統治の後、スウィンティラ王の時代( - )に統一が果たされたという見解が主流であるが、前述の通り、以降とする見解もある。 西ゴート族最初の王。 アラリック1世の義理の弟。 アタウルフに殺されたサルスの兄弟。 在位7日でワリアの支持者たちに暗殺される。 一説にアラリック1世の義理の兄弟。 後の西ローマ帝国の独裁者は孫もしくは甥(リキメルの母がワリアの娘もしくは姉妹)。 アラリック1世の庶子もしくは娘婿(義理の息子)。 テオドリック1世の子。 テオドリック1世の子でトリスムンドの弟。 兄トリスムンド を殺害して王位を継承。 テオドリック1世の子でトリスムンド とテオドリック2世の弟。 兄テオドリック2世を殺害して王位を継承。 エウリックの子。 エウリックの庶子。 エウリックの嫡子。 庶兄の死後に王位を継承。 東ゴート王の外孫にあたる。 元々は東ゴート王テオドリック配下の将軍。 出自に関しては東ゴート王テオドリックの甥の子という仮説がある。 アラリック1世の血筋であるバルト家の出身とされるが、詳細な続柄や係累、家族構成は不明。 551年から555年まではアギラ1世の対立王。 それ以後は単独王。 王妃はゴイスウィンタで一説にはアマラリックの娘とされているのでバルト家の血筋となる。 夫妻はガルスウィンタとブルンヒルデの2女を儲ける。 アタナギルドの死後、ゴイスウィンタはレオヴィギルド王と再婚。 次女ブルンヒルデとその夫シギベルト1世(フランク王国分王国アウストラシア王)の長女イングンド(アタナギルド王の外孫の一人)とレオヴィギルド王の長男ヘルメネギルド(レオヴィギルドの先妻の子の一人)が結婚。 アタナギルド王とレオヴィギルド王の家系が合体。 ヘルメネギルド・イングンド夫妻の唯一の子女アタナギルドが生まれた。 よって二人のアタナギルドは曾祖父と曾孫の関係。 曾孫アタナギルドは東ローマ皇帝マウリキスの姪フラウィア・ユリアナと結婚。 間に生まれたのがアルデバルト アルダバスト)でアタナギルド王の玄孫。 アルデバルトはキンダスウィント王の姪ゴダを妻とし、後のエルウィグ王を儲けた。 故のエルウィグ王はアタナギルド王の来孫(曾孫の孫)にあたる。 523年から526年まで伯爵であったリウヴェリックの子。 死去する572年まで弟レオヴィギルドと共同統治。 なお、没年については、から572年、初めという異説もある。 リウヴァ1世の弟。 568年から572年までは共同王。 それ以後は単独王。 西ゴート王国の中興の英主とされる。 単独王になった時期については諸説ある。 レオヴィギルドの次男。 長兄が父との内戦の末に誅殺、甥アタナギルド(ヘルメネギルドの子)も東ローマ帝国へ拉致されて人質となった為、王位を継承。 国内外の政治情勢を鑑み、アリウス派からカトリックへの改宗に踏み切り、成功した。 レカレド1世の子。 ウィテリックにより追放、殺害される。 リウヴァ2世を追放、殺害して王位を継承するも自身も暗殺された。 ウィテリック暗殺を指揮。 2年の治世の後に病没。 レカレド1世の娘を後妻とする(レカレド1世の娘婿)。 不明瞭な死で治世を終えた。 シセブトの子。 母がレカレド1世の娘である為、レカレド1世の外孫、レオヴィギルドの外曾孫、リウヴェリックの外玄孫。 シセブトは生前、レカレド2世を共同王としていた。 僅か3ヶ月の治世(史料によっては「数日」)の後、父同様に不審な死が伝えられている。 レカレド1世の子で、リウヴァ2世とシセブト後妻の異母弟。 スウィンティラの治世中にイベリア半島統一が達成されたとの見解が主流。 シセナンドの反乱により退位に追い込まれる。 妃はシセブトとその前妻の間に生まれた娘テオドラ(レカレド2世の異母姉にあたる)でシセブトの娘婿。 ガリアの公爵。 フランク王の支援を受けて、スウィンティラを退位に追い込み王位を簒奪。 第5回、第6回トレド宗教会議を実施。 キンティラの子。 キンダスウィントの反乱により王位を追われ、僧籍に入った後に死去。 将軍時代の軍事的才能を評価されて貴族からの支持を得て王位につく。 史料の一つによれば、東ローマ帝国から亡命してきたアルデバルト(アルダバスト)を側近に迎えるなどの奇行癖や乱心、粛清はゴート人の怒りを買ったという。 649年から653年までは父キンダスウィントとの共同統治。 以後は単独統治。 直系の子はいないとされるが、一説に子にテオデフレード(定説では異母弟)、孫にロデリックとファビラ(定説では異母弟)、ファビラの子でを建国するは曾孫とされる。 貴族や僧侶に王位につくように嘆願されるも当初は拒否するが、刀で脅されて渋々、王位を継承。 エルウィグの陰謀により毒を飲まされて瀕死の状態に陥って王位を簒奪された。 一命は取り留め、修道院で死去。 「エウリック2世」とも。 父はからの亡命者(アルダバスト)、母はキンダスウィントの姪(レケスウィントの従姉妹)であるゴダ(ゴド)。 父方の祖父はレオヴィギルドの長男の一人息子アタナギルド。 父方の祖母でアタナギルドの妻は東ローマ皇帝の弟ペトルスの一人娘。 故にヘルメネギルドとその妻イングンドは曾祖父母で、エルウィグはレオヴィギルドの玄孫、リウヴェリックの来孫、レカレド1世の曽姪孫。 リウヴァ1世、リウヴァ2世、シセブト、シセブト後妻、レカレド2世、スウィンティラとも血縁・縁戚関係がある。 スウィンティラの娘リウヴィゴトを妻としていた為、スウィンティラの娘婿でもある。 更に父方の祖母の関係上、ユスティニアヌス1世が属するとも血縁・縁戚があり、その皇后テオドラの同名庶子テオドラの直系子孫でもある。 庶子テオドラの息子アナスタシウスは、、の血を引くユリアナという女性と結婚。 その間の息子アレオビンドゥスが父方の祖母フラウィア・ユリアナの母方の祖父(アレオビンドゥスの娘アナスタシア・アレオビンダがフラウィア・ユリアナの母)。 曾祖母の一人イングンドはフランク王国の分王国アウストラシアの王とその妃の長女なのでフランク族の血も引き、フランク王国の諸王とも血縁関係が生じる。 また、ブルンヒルデはアタナギルドとゴイスウィンタの次女である為、エルウィグはバルト家の血を引いている可能性がある。 曾祖父の一人ヘルメネギルドの母テオドシア(レオヴィギルドの前妻、エルウィグ の高祖母)は初代ローマ皇帝の末裔であり、エルウィグはの血筋でもある。 エルウィグとリウヴィゴトの娘キクシロの夫(エルウィグ の娘婿)であり、ワムバ の親類(甥か)とされる。 エギカとその妻キクシロの子。 エルウィグの外孫。 700年から702年までは父エギカとの共同統治。 キンダスウィントの孫(テオデフレードの子)とされる。 異説としてキンダスウィントの曾孫でレケスウィントの孫(父テオデフレードがレケスウィントの子という説)。 ウィティザの子。 ロデリックと争う。 ウィティザの子。 アギラ2世の弟。 下津、p. 209• ミュソ=グラール、p. 102• 関 他、p. 37-64• 鈴木、43-84 参考文献 [ ] 日本語文献 [ ]• 五十嵐ミドリ「西ゴート王国」『スペイン・ポルトガルを知る事典』他監修、、1992年5月、245-247頁。 『ビザンツ帝国史』、1999年2月。 鈴木康久『西ゴート王国の遺産 - 近代スペイン成立への歴史』〈 1283〉、1996年1月。 、立石博高、中塚次郎『スペイン史 1 古代-近世』〈世界歴史大系〉、2008年7月。 、、『フランス史』1、〈世界歴史大系〉、1995年9月。 『岩波講座世界歴史19 移動と移民』、1999年8月。 「古代末期地中海世界における人の移動と社会変容」『岩波講座世界歴史19 移動と移民』、1999年8月。 ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるという事』訳、、2014年6月。 玉置さよ子『西ゴート王国の君主と法』創研出版、1996年。 橋本龍幸「西ゴートの改宗とビザンツ」『人間文化 - 愛知学院大学人間文化研究所紀要』第3巻、愛知学院大学、1988年9月20日、 11-35頁、。 「」『一橋論叢』第131巻第4号、一橋大学、2004年4月1日、 304-315頁、。 保坂高殿『ローマ帝政中期の国家と教会』、2008年。 山田信彦『スペイン法の歴史』、1992年1月。 ルネ・ミュソ=グラール 『クローヴィス』 白水社、2000年• 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年• 西川和子 『スペイン レコンキスタ時代の王たち』 彩流社、2016年 非日本語文献 [ ]• 2004. Visigothic Spain 409-711. ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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ガリア統治時代 [ ] を経てローマ領内に移動したは、5世紀初頭の指導者のもとに侵入した。 ローマ帝国の首都ローマを寇略しローマ人に衝撃を与えた。 しかし皇帝の在所であったには手が出せず、西ゴート族は食料を求めを経由して渡航を企図したが失敗に終わった。 イタリアでの将来の見通しが立たなくなると、アラリック1世の死後、後継者となった幕下で西ゴート族はへと移動した。 西ローマ帝国は海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族はヒスパニアへと追われた。 建国 [ ] には西ローマ帝国と手を結び、イベリア半島を征服していた、らを討ち、418年に帝から正式に()の一部(沿いの土地)を与えられた。 彼は南ガリアで勢力を拡張し、トロサ()を首都と定め西ゴート王国が建国された。 とは基本的に友好な姿勢を保っていたが、敵対した時期もある。 西ローマ帝国滅亡後にイタリア半島を占領しを建国するとは連絡を保っていたが共同して行動することはなかった。 451年にはパリ西方のカタラウヌムでを撃退した()。 には西ローマ帝国の実権を掌握し、西ローマ帝国の名ででの勢力を拡大した。 に西ローマ帝国で西方正帝が廃止されると、エウリック王は混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。 このころからヴァンダル族は西ゴート王国に朝貢し、アフリカに退去したためイベリア半島への入植が進んだ。 フランス北部では興ったばかりのと争った。 宮廷官職 [ ] 西ゴート族の間では、までは制度的な宮廷会議が開かれることはなく、事実上数人の重臣 princeps が王の決定に助言を与える会合に参加していた。 その後、国の統治に関する王の意志決定に参与する宮廷官職が形成され、有力貴族をもって充てられた。 代表的な官職としては、王室及び国の財政を担当する comes patrimoniiや王の警護を担当する comes spatariorum、王の書記職である comes notariorumなどがある。 このような官職に就く貴族は宮中伯 comes, conde という称号を帯びていた。 やがて王の側近だけでなくカトリック教会の司教や、宮廷会議参加資格を有さない貴族や地方官をも含めた大規模な合議体である王会 Aula regia が形成され、中心的な国王の顧問会議となった。 これはトレド教会会議が国政に関与するようになるまでは大きな影響力を持っていたが、会議の主導権はあくまで国王の側にあり、王が召集し、その議決は王を拘束するものではなかった。 イベリア半島時代 [ ] 700年頃の西ゴート王国の領域 に率いるに敗れ、西ゴート王国は宮廷を南フランスからに移した。 西ゴート王国は、531年にも再び敗れガリアの領地のほとんどを失った。 に首都をピレネー山脈の北のトロサからへと移した。 アリウス派からカトリックへの改宗 [ ] 西ゴート族はを信仰していた。 によれば、西ゴート族がローマ帝国内に侵入した際のローマ皇帝がアリウス派だったためである。 ウァレンス帝はを奉じるを弾圧し、アリウス派信仰を正統としていた。 西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止され、背景には信仰の相違があったと考えられている。 レオヴィギルド王の時代にゴート人とローマ人の通婚は許可された。 ローマ帝国領内侵入からイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、カトリック勢力との軋轢は目立たない。 イスパニア定住後に軋轢が増加するがその原因はカトリック聖職者の側にあったとされる。 イシドールス『ゴート人の歴史』には西ゴート王の異端の過去には配慮が見られ、彼らがカトリックに寛容であったことが強調されている。 そのためエウリック王のカトリック迫害にも沈黙している。 西ゴート中興の英主王はガリアを喪失して以降分裂傾向にあった国内を再統一した。 宗教政策上もカトリックには弾圧を加える一方、アリウス派の教義をカトリックが入信しやすいよう一部改変し、統一をはかった。 カトリックに改宗したがあったが 、反乱の翌に王はアリウス派の教会会議を開き、従来「父」より下位に置かれていた「子」を、「父」と同格とした。 これによりカトリック側からの改宗者が増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩しと捉え、反発した。 つづく王はに、と同じくカトリックに集団改宗した。 王の改宗は個人的なものとも集団的ともとれるが 、の第三回にて西ゴート王国は公式にからカトリックへ改宗した。 これによりアリウス派の反乱を鎮圧、王権と教会の提携を強め、西ゴート王国はカトリック国家となった。 会議では、教義だけでなく世俗的な問題も議題とされ、世俗の高官も臨席した。 首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。 レカレド王以降の王はからの約110年の間に18回の宗教会議を召集し、6世紀中頃からはの色彩を帯びるようになる。 イベリア半島制圧 〜再征服と統一〜 [ ] フランク王国、イベリア半島の先の征服王朝であるやの下で西方領土の回復を目指すとしばしば争った。 555年には東ローマ帝国が西ゴートの内乱に乗じて、、などを占領している。 これ以後、東ローマ帝国のヘルメネギルドの乱(から)への関与、とに起きた東ローマ皇帝との戦い(どちらの戦いも東ローマ帝国が領土を幾らか奪った)というようにカトリック改宗前後も戦乱が絶えることは無かった。 レカレド1世の次々代ウィテリック、ウィテリックの後継者グンデマルも東ローマ帝国と交戦、グンデマルの後を継いだシセブトの時代にようやく東ローマ帝国に対して優勢となり、にはスウィンティラ王の下、イベリア半島のほぼ全土を支配するに至った。 但し、まで地方(現在のの最南端部)に東ローマ帝国の拠点が維持されていたとする史料も残っている為、634年以降、つまりスウィンティラ王から王位を簒奪したシセナンド王の時代以降に統一が完了したと見ることもできる。 滅亡 [ ] にイスラーム勢力のがイベリア半島に上陸、最後の王であるがで戦死して滅亡した。 一部の残党はまで抵抗を続けたが、一般的にはこの年を滅亡年とする。 滅亡したあと、西ゴート王国の王族とキリスト教徒の一部はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込みを建国 、後の、のもととなった。 西ゴート王国時代の建造物などはほとんど残されていないが、多くの国民は宗教的に寛容なイスラム支配を受け入れ、後のスペイン文化の基礎を作っていった。 法制 [ ] 西ゴート族はローマとの交流を早くに持ったため、ローマ化するのも早かった。 イベリア半島に定住してからはゲルマン慣習法と(のちにはキリスト教の要素も加味された)に基づく法令がたびたび発され、征服地であるイベリア半島の住民とゴート族の融合がはかられた。 これはゴート族が学問を重んじ、ギリシャ・ローマ文化の維持に努めたためだと考えられる。 ないしのおよびのではの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した。 630年代におこなわれた3回の公会議は世俗の問題についての議決を多く含むが、『西ゴート統一法典』にはこの時期の王の名を冠する法は採録されていない。 公会議が王国会議と見なされ、議決が王国法として機能したためとされる。 玉置さよ子は、この時期の王、シセナンドとキンティラの名を冠した法が『西ゴート統一法典』に採録されていないのは王以降西ゴート王の王権強化の意図が見えるとする。 たとえば反ユダヤ人立法では、シセナンド・キンティラ両王の時代に王の名による世俗法の立法が見られず、カノンの決定に反ユダヤ規定があることに鑑みると、世俗的なシセナンド・キンティラ期のカノンは世俗法の代わりを果たしていたと思われる。 キンダスイント王以降、西ゴート王は世俗法制定を通じて王権強化を図ろうとしたが、シセナンド王とキンティラ王の時期に公会議によって世俗法が決定された前例はこれと対立する事実である。 したがって、キンダスイント王の子であるレケスイントは、『西ゴート統一法典』において意図的にこの2王の名を冠した章を設けなかった。 『西ゴート統一法典』により立法に対する西ゴート王の絶対的権限が確立された。 654年にリベル法典が発布され、同時に属人法の廃止、すなわち人種によって法令の使い分けがなされなくなった。 つまりこの時期の頃にはすでにゴート人と先住人の文化的な差異はなくなっていたと見られる。 このとき異人種間の結婚が公に認められ、人種的にも同化が進んでいったと考えられている。 政治・文化 [ ] 指導者は世襲と合議・選挙による選出という古ゲルマンの慣習に従ったもので有力者や合議・選挙に参加する貴族の利害が絡んだため、王の暗殺、廃位や内戦がたびたび起こった。 イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったことからも王権の弱さがわかる。 に対するの反乱も、「血筋」に「実力」を優先する伝統的概念によって正当化されるものであり、改宗後のウィテリックによるリウヴァ2世殺しもそれに含まれる。 更に、時の王が息子を共同王に指名したことによって次王即位の望みを失った有力者が、父王の生前に陰謀を企てる場合も考えられる。 シセブト王の治世の奇妙な終わり方 は著明な例と考えられる(『ゴート人の歴史』は、そのようにして即位したスウィンティラへの遠慮から表現を抑えたと思われる)。 王座にある者は常に息子に位を継がせようとしそれに反発した有力者が剣を取る。 クラウデが分析したこの力学によって、王権は王国滅亡の直前まで不安定な側面を持ち続けた。 レカレド王の改宗 [ ] 当時のゲルマン人の集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできない。 までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていたのに対し以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われた。 また西ゴート王国は改宗以前に、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はからカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった。 レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある。 宗教政策 [ ] 589年のによるカトリック改宗も先住ラテン人たちとの対立解消に役立ったが、同時にアリウス派を信じる人々との溝が深まり内戦の原因となった。 レカレド1世は同時にローマ貴族であるを名乗るが、これも民族融和策の一つと考えられている。 王国の初期にはユダヤ人に対しても寛容であったが、宗教の政治への介入が強まるにつれて非寛容へと転じていった。 第4回トレド公会議で定められた75のカノンの最後のカノンにおいて、イスパニアの君主と教会の関係に言及している。 このカノンはのちの公会議で繰り返し言及され、西ゴート王国における聖俗の権力関係を規定していくことになった。 カノンは西ゴート古来の選挙王制に言及し、ゴート人の代表と聖職者によって王が選ばれるべきと述べる。 さらに王に正義と敬虔を要求し、法による支配を求め、法に反した支配をおこなった王は破門されると記す。 このような規定により、イスパニアの教会はここにおいて西ゴート王国の現実政治に直接的な責任を負う存在と自らを位置づけたのである。 トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。 のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。 確実に知られるのはのワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。 西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。 王権と教会の関係 [ ] 西ゴート王国の王権と教会の関係については、特に王のカトリック改宗後の両者の関係を「神権政治」ないし「神政政治」と見る見方が以来支配的であったがに国王の側に主導権を認め、君主専制国家として教会を従属させていたと見る見方が提起された。 また改宗前の西ゴート王国については、フランク王国を除く他のゲルマン民族国家と同様、支配者と被支配民の間で信仰が異なる「二重国家」の典型として見られてきたが、そのことが過去の日本において、カトリック改宗後の西ゴート王国について研究を滞らせてきた。 年表 [ ]• 、内へ侵入• - がローマ包囲• - ローマ占領• - 都をに定め建国• - 即位• - と連合を組みと。 勝利を得るもテオドリック1世は戦死。 - 一時的にの実権を掌握。 - エウリック王法典編纂(対象は)• - 西ローマ帝国でが消滅• - アラリック抄典編纂(のテオドシウス法典の焼き直し。 対象は、ゴート人とイベロ=)• - と ()に敗北、が戦死。 のみの統治に• - に遷都• - の攻撃に遭いスペイン南部を喪失• - に遷都• - が父王レオヴィギルドに対して反乱を起こす(ヘルメネギルドの乱)。 - ヘルメネギルドの乱終結。 - を併合。 ヘルメネギルドが処刑される。 - を公認。 も改宗• - 統一• - 属人法を廃止• - を迫害• - の攻撃にあい滅亡()• - 完全に滅亡 歴代君主 [ ]• ( - )• (410年 - )• (415年)• (415年 - )• (418年 - )• (451年 - )• (453年 - )• (466年 - )• (484年 - )• (507年 - )• (511年 - )• (531年 - )• (548年 - )• (549年 - )• (551年 - )• ( - )• (568年 - )• (586年 - )• (601年 - )• (603年 - )• (610年 - )• (612年 - )• (621年)• (621年 - )• (631年 - )• (636年 - )• (640年 - )• (642年 - )• (649年 - )• (672年 - )• (680年 - )• (687年 - )• ( - )• (710年 - )• (711年 - )• (714年 - ) 系図 [ ] 文献• , pp. 245-247. 214. , p. 124. , p. , pp. 37-38. , pp. 34-35. , p. , p. , p. , pp. 56-57. , pp. 30-38. , pp. 48-49. , p. 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(1999年 )P190-191• 西川、p. 西川、p. , p. , pp. 90-98. の乱など。 『ゴート人の歴史』によればシセブト王は、「自然死とも、薬の飲み過ぎとも、ある人は毒殺ともいう」と記され、「父王(シセブト)の死後、息子レカレド(2世)が数日間統治して死んだ」と続いている。 実際、レカレド2世から王位を奪ったと考えられているスウィンティラもに有力者シセナンド(一説に息子)がフランク王ダゴベルト1世の支援を受けて蜂起し、王座を追われ、修道院で死去した。 第4回トレド宗教会議で「王は髪を長くすること及び僧職の衣服を纏ってはならない」と定められていた。 ワムバは一度は復位を要求したが却下されて、エルウィグが王位を簒奪した。 ワムバはの修道院で余生を送り、に没した。 両者の対立に乗じて勢力がに進出し、のロデリックの戦死で事実上、西ゴート王国は滅亡した(アギラ2世は頃まで王を名乗って抵抗を続け、アギラ2世の死後はアルドが王位を引き継いだとみられるが、頃にイスラムの侵略の最中に死去したと考えられる)• , pp. 339-340. , pp. 64-65. , pp. 70-77. , pp. 51-52. , pp. 8-9. , pp. 7-8. 領であるスパニア属州を征服し統一が完了。 統一年に関しては史料が少なく、研究者の間で、、、、など複数の説が唱えられており確定することができていない。 但し、シセブト王の時代( - )に完全に優勢となって、ほぼ征服事業が終わりに近づきその子レカレド2世()の短期間の統治の後、スウィンティラ王の時代( - )に統一が果たされたという見解が主流であるが、前述の通り、以降とする見解もある。 西ゴート族最初の王。 アラリック1世の義理の弟。 アタウルフに殺されたサルスの兄弟。 在位7日でワリアの支持者たちに暗殺される。 一説にアラリック1世の義理の兄弟。 後の西ローマ帝国の独裁者は孫もしくは甥(リキメルの母がワリアの娘もしくは姉妹)。 アラリック1世の庶子もしくは娘婿(義理の息子)。 テオドリック1世の子。 テオドリック1世の子でトリスムンドの弟。 兄トリスムンド を殺害して王位を継承。 テオドリック1世の子でトリスムンド とテオドリック2世の弟。 兄テオドリック2世を殺害して王位を継承。 エウリックの子。 エウリックの庶子。 エウリックの嫡子。 庶兄の死後に王位を継承。 東ゴート王の外孫にあたる。 元々は東ゴート王テオドリック配下の将軍。 出自に関しては東ゴート王テオドリックの甥の子という仮説がある。 アラリック1世の血筋であるバルト家の出身とされるが、詳細な続柄や係累、家族構成は不明。 551年から555年まではアギラ1世の対立王。 それ以後は単独王。 王妃はゴイスウィンタで一説にはアマラリックの娘とされているのでバルト家の血筋となる。 夫妻はガルスウィンタとブルンヒルデの2女を儲ける。 アタナギルドの死後、ゴイスウィンタはレオヴィギルド王と再婚。 次女ブルンヒルデとその夫シギベルト1世(フランク王国分王国アウストラシア王)の長女イングンド(アタナギルド王の外孫の一人)とレオヴィギルド王の長男ヘルメネギルド(レオヴィギルドの先妻の子の一人)が結婚。 アタナギルド王とレオヴィギルド王の家系が合体。 ヘルメネギルド・イングンド夫妻の唯一の子女アタナギルドが生まれた。 よって二人のアタナギルドは曾祖父と曾孫の関係。 曾孫アタナギルドは東ローマ皇帝マウリキスの姪フラウィア・ユリアナと結婚。 間に生まれたのがアルデバルト アルダバスト)でアタナギルド王の玄孫。 アルデバルトはキンダスウィント王の姪ゴダを妻とし、後のエルウィグ王を儲けた。 故のエルウィグ王はアタナギルド王の来孫(曾孫の孫)にあたる。 523年から526年まで伯爵であったリウヴェリックの子。 死去する572年まで弟レオヴィギルドと共同統治。 なお、没年については、から572年、初めという異説もある。 リウヴァ1世の弟。 568年から572年までは共同王。 それ以後は単独王。 西ゴート王国の中興の英主とされる。 単独王になった時期については諸説ある。 レオヴィギルドの次男。 長兄が父との内戦の末に誅殺、甥アタナギルド(ヘルメネギルドの子)も東ローマ帝国へ拉致されて人質となった為、王位を継承。 国内外の政治情勢を鑑み、アリウス派からカトリックへの改宗に踏み切り、成功した。 レカレド1世の子。 ウィテリックにより追放、殺害される。 リウヴァ2世を追放、殺害して王位を継承するも自身も暗殺された。 ウィテリック暗殺を指揮。 2年の治世の後に病没。 レカレド1世の娘を後妻とする(レカレド1世の娘婿)。 不明瞭な死で治世を終えた。 シセブトの子。 母がレカレド1世の娘である為、レカレド1世の外孫、レオヴィギルドの外曾孫、リウヴェリックの外玄孫。 シセブトは生前、レカレド2世を共同王としていた。 僅か3ヶ月の治世(史料によっては「数日」)の後、父同様に不審な死が伝えられている。 レカレド1世の子で、リウヴァ2世とシセブト後妻の異母弟。 スウィンティラの治世中にイベリア半島統一が達成されたとの見解が主流。 シセナンドの反乱により退位に追い込まれる。 妃はシセブトとその前妻の間に生まれた娘テオドラ(レカレド2世の異母姉にあたる)でシセブトの娘婿。 ガリアの公爵。 フランク王の支援を受けて、スウィンティラを退位に追い込み王位を簒奪。 第5回、第6回トレド宗教会議を実施。 キンティラの子。 キンダスウィントの反乱により王位を追われ、僧籍に入った後に死去。 将軍時代の軍事的才能を評価されて貴族からの支持を得て王位につく。 史料の一つによれば、東ローマ帝国から亡命してきたアルデバルト(アルダバスト)を側近に迎えるなどの奇行癖や乱心、粛清はゴート人の怒りを買ったという。 649年から653年までは父キンダスウィントとの共同統治。 以後は単独統治。 直系の子はいないとされるが、一説に子にテオデフレード(定説では異母弟)、孫にロデリックとファビラ(定説では異母弟)、ファビラの子でを建国するは曾孫とされる。 貴族や僧侶に王位につくように嘆願されるも当初は拒否するが、刀で脅されて渋々、王位を継承。 エルウィグの陰謀により毒を飲まされて瀕死の状態に陥って王位を簒奪された。 一命は取り留め、修道院で死去。 「エウリック2世」とも。 父はからの亡命者(アルダバスト)、母はキンダスウィントの姪(レケスウィントの従姉妹)であるゴダ(ゴド)。 父方の祖父はレオヴィギルドの長男の一人息子アタナギルド。 父方の祖母でアタナギルドの妻は東ローマ皇帝の弟ペトルスの一人娘。 故にヘルメネギルドとその妻イングンドは曾祖父母で、エルウィグはレオヴィギルドの玄孫、リウヴェリックの来孫、レカレド1世の曽姪孫。 リウヴァ1世、リウヴァ2世、シセブト、シセブト後妻、レカレド2世、スウィンティラとも血縁・縁戚関係がある。 スウィンティラの娘リウヴィゴトを妻としていた為、スウィンティラの娘婿でもある。 更に父方の祖母の関係上、ユスティニアヌス1世が属するとも血縁・縁戚があり、その皇后テオドラの同名庶子テオドラの直系子孫でもある。 庶子テオドラの息子アナスタシウスは、、の血を引くユリアナという女性と結婚。 その間の息子アレオビンドゥスが父方の祖母フラウィア・ユリアナの母方の祖父(アレオビンドゥスの娘アナスタシア・アレオビンダがフラウィア・ユリアナの母)。 曾祖母の一人イングンドはフランク王国の分王国アウストラシアの王とその妃の長女なのでフランク族の血も引き、フランク王国の諸王とも血縁関係が生じる。 また、ブルンヒルデはアタナギルドとゴイスウィンタの次女である為、エルウィグはバルト家の血を引いている可能性がある。 曾祖父の一人ヘルメネギルドの母テオドシア(レオヴィギルドの前妻、エルウィグ の高祖母)は初代ローマ皇帝の末裔であり、エルウィグはの血筋でもある。 エルウィグとリウヴィゴトの娘キクシロの夫(エルウィグ の娘婿)であり、ワムバ の親類(甥か)とされる。 エギカとその妻キクシロの子。 エルウィグの外孫。 700年から702年までは父エギカとの共同統治。 キンダスウィントの孫(テオデフレードの子)とされる。 異説としてキンダスウィントの曾孫でレケスウィントの孫(父テオデフレードがレケスウィントの子という説)。 ウィティザの子。 ロデリックと争う。 ウィティザの子。 アギラ2世の弟。 下津、p. 209• ミュソ=グラール、p. 102• 関 他、p. 37-64• 鈴木、43-84 参考文献 [ ] 日本語文献 [ ]• 五十嵐ミドリ「西ゴート王国」『スペイン・ポルトガルを知る事典』他監修、、1992年5月、245-247頁。 『ビザンツ帝国史』、1999年2月。 鈴木康久『西ゴート王国の遺産 - 近代スペイン成立への歴史』〈 1283〉、1996年1月。 、立石博高、中塚次郎『スペイン史 1 古代-近世』〈世界歴史大系〉、2008年7月。 、、『フランス史』1、〈世界歴史大系〉、1995年9月。 『岩波講座世界歴史19 移動と移民』、1999年8月。 「古代末期地中海世界における人の移動と社会変容」『岩波講座世界歴史19 移動と移民』、1999年8月。 ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるという事』訳、、2014年6月。 玉置さよ子『西ゴート王国の君主と法』創研出版、1996年。 橋本龍幸「西ゴートの改宗とビザンツ」『人間文化 - 愛知学院大学人間文化研究所紀要』第3巻、愛知学院大学、1988年9月20日、 11-35頁、。 「」『一橋論叢』第131巻第4号、一橋大学、2004年4月1日、 304-315頁、。 保坂高殿『ローマ帝政中期の国家と教会』、2008年。 山田信彦『スペイン法の歴史』、1992年1月。 ルネ・ミュソ=グラール 『クローヴィス』 白水社、2000年• 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年• 西川和子 『スペイン レコンキスタ時代の王たち』 彩流社、2016年 非日本語文献 [ ]• 2004. Visigothic Spain 409-711. ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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