あんたはエライ 小松。 高田文夫のラジオビバリー昼ズ AMラジオ 1242 ニッポン放送

高田文夫のラジオビバリー昼ズ AMラジオ 1242 ニッポン放送

あんたはエライ 小松

小松政夫(75)が師匠植木等さんとの43年におよぶ師弟関係をつづった著書「昭和と師弟愛」(KADOKAWA刊)が、今日28日に発売される。 小松は車の敏腕セールスマンだった22歳の時、「クレージー・キャッツ」の人気者だった植木さんの運転手兼付き人となった。 3年10カ月の付き人生活を経て、07年に80歳で亡くなるまで濃密な師弟関係を送った。 今回の執筆も「生きざまを見られて人生の糧になった。 素晴らしい人間性の真の姿を知ってほしかった」と話す。 ゴルフ場の帰りに、そば店に立ち寄ったという。 小松はかけそば、植木さんはかつ丼と天丼を頼んだ。 料理がくると、植木さんは「胃が重くて食えねえ。 お前が食ってくれ」。 それは、思いやりだった。 小松が映画評論家淀川長治さんの物まねを始めると、植木さんに「お前の物まねは本物だ。 観察力が優れている」と励まされたという。 その後の「知らない、知らない、知らない」「ねえ、おせ~て」「あんたはエライ」のギャグも実在のモデルがいて、人間観察から生まれた。 事務所を独立する時には、関係者に「干すとか、意地悪するとか、そういうことがあれば、おれが承知しないからな」とくぎを刺し、「何かあったら、おれのところに来い」と送り出した。 小松の仲人は植木さんだった。 「人生で1回しかしていない仲人をしてくれた。 13歳で父親を亡くしているので、『おやじさん』と言えば、植木さんが浮かびます」。 尽きない師匠への思いが詰まっている。

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小松政夫

あんたはエライ 小松

1964年に植木等の付き人兼運転手として採用され、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系)でデビュー。 芸能生活は55年を超えた。 「1月に喜寿を迎え、生前葬をやるような年齢になったんだな」と感慨深い。 「生前葬といえば、石原裕次郎さんを発掘したことで有名な水の江滝子さんが開いたのを覚えています。 葬儀でお仲間が次々と弔辞を読み上げて楽しそうでしたが、当時は斬新すぎましたね~」 今回は、ロビーに白黒の鯨幕を引き、小松の写真展、著書やCD、DVDの販売など小松政夫一色に染めて、しのぶ。 100近いはやり言葉とギャグで人気を博し、70年代後半はテレビにひっぱりだこだった。 「真面目に演技した合間にブッ飛ぶバカバカしい笑いを演じる。 それが1週間休みなく続くんですからね」 そんな中、切り替えに苦労して生まれたのが『しらけ鳥音頭』と『電線音頭』。 「40年以上前ですが、今でも拍手がきます」。 今春、西日本各地で1カ月半の長期公演に参加。 1回の公演が約4時間とあって、疲れ果てて若いマッサージ師さんを呼ぶと「ワタシの仕事を知らない人で『右足が異常にこっているんですけれど、いつもケンケン(片足跳び)していませんか』って言われましてね。 『電線音頭』でオットットット~ってやるでしょ。 長く続けると筋肉の形も変わってしまうんでしょうか。 年寄りになったなぁと、ちょっとがっかりでしたが」.

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小松政夫さんがエッセー本 ギャグ誕生秘話…博多弁でつづる|【西日本新聞ニュース】

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概要 [ ] が司会を務めていた日曜午後の番組で、ゲスト歌手による歌のコーナー以外にもさまざまな企画コーナーを設けていた。 番組序盤は50人の子供たちがゲストに質問をするコーナー、中盤は選ばれたゲスト1組がゲームに挑戦するコーナー、終盤はが進行役を務めるトークコーナーという構成。 特に終盤のトークコーナーにはゲストもダンスに参加するサブコーナーを設けるなど、タイトル通りにゲストや視聴者をドッキリさせる要素を取り入れていた。 番組収録は毎週木曜日に行われていた。 この番組はにより、日本各地の放送局で放送されていた。 近畿地方においてはテレビ朝日系列局であるでは放送されず、代わりに・・の3局で放送されていた。 出演者 [ ] 司会 [ ]• (1980年4月 - 1982年3月)• (1982年4月 - 1983年3月)• (1983年4月 - 1984年3月)• (当時テレビ朝日アナウンサー、1984年4月 - 1985年3月)• (1985年4月 - 1986年3月)• (1986年4月 - 終了まで)• (当時テレビ朝日アナウンサー) レギュラー [ ]• ほか スタッフ [ ]• 構成:、かとうまなぶ、日高はじめ、、飯田誠一、伊藤義信、内堀尚• 演奏(一週でも担当したことのあるバンド):とスイングフェイス、とゲイスターズ、とシャープスアンドフラッツ、森寿男とブルーコーツ• コーラス:ミンクス• 編集:• ディレクター:成田信夫、湧口義輝、大村正二、鍵谷伸宏、• 演出:山口是利、成田信夫• プロデューサー:竹田賢一、、塚本康二、• 制作著作:テレビ朝日 主なコーナー [ ] ちびっ子ドッキリインタビュー [ ] 番組序盤のコーナーで、毎回50人の子供たちがゲストにさまざまな質問をぶつけた。 コーナー開始時にはシャッターが開き、コーナー終了時にはブザーが鳴ってシャッターが下りるという演出があった。 当初はゲストの回答に対して子供たちがどう思うかのアンケートを取っていたが、これはやがて廃止された。 このコーナーは、1989年9月に『』で放送された『』で1度だけ復活したことがある。 スタードッキリルーレット [ ] ゲストがさまざまなゲームに挑戦していたコーナー。 「ゲームルーレット」と呼ばれるルーレットでゲームの種類を決めた後、「ゲストルーレット」でそのゲームに参加するゲストを決めた。 ゲスト全員が参加する際には、ゲストルーレットを省略することもあった。 ゲームは、ダンサーの衣装に付いている言葉を探して当てる「ぴったしカンカン踊り」(『』のパロディ)や、画鋲の付いた羽子板で風船をするゲームなどがあった。 当初は小松政夫が進行役を務めていたが、担当がせんだみつおに変わってからは「 せんみつのダブルルーレット」と題して行われるようになった。 スタードッキリ日記 [ ] ゲストの1人がマイクの前に立ち、スタッフが作成した奇妙な日記を読むコーナー。 その日記のワンフレーズは、ヒット曲の歌詞の部分を使用していた。 そして最後は、の「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」のワンフレーズ「ほんとにほんとにほんとにほんとに、ごくろうさん」で締めるというものだった。 に関するフレーズではの鳴き声「ガオー!」になるのが定番であり、和田本人の前でも使われたことがある。 コマっちゃんのごきげんよう [ ] 小松政夫が風キャラクター(淀川モノマネ用の眼鏡を掛け、着物姿)に扮し、ゲストの1人を招いてトークをするコーナーで、コーナー後半はそのゲストも参加する踊りのコーナーとなっていた。 前期 突然チリ紙交換車風のアナウンス「毎度、お騒がせいたしております。 こちらはタコフン音頭でございます」が入って暗転、入れ替わりで祭礼の衣装を着たチアリーダーと男児たちがとともに現れた(男児たちは赤いを締めていた。 後に、褌を締めたタコの着ぐるみが参加するようになった)。 そしてチアリーダーと男児たちが「の小松さーん!」と叫ぶと、淀川眼鏡の代わりに鉢巻を締めて額に扇子をかざした小松が、着物を脱いで赤い法被と赤い褌姿となり「今日も元気だ、お尻が綺麗!タコフン音頭で日本全国花盛り!」と口上を述べた後、ゲストとともに「タコフン音頭」を歌いながら踊っていた。 テレビ朝日の期首特番『』でも、番組内の応援としてこれを行ったことがある。 後期 突然保坂正紀が現れ、彼がアナウンスを始めると小松は姿を消すが、その後しばらくして小松がロックンローラーに扮して再登場し、「エライあんたのロックンロール」をゲストとともに踊りながら歌っていた。 スタードッキリ本人クイズ [ ] 1981年11月18日放送分より開始。 司会は保坂正紀。 毎回1人のゲストが『』形式のクイズに挑戦していた。 問題は、前期では12問、後期では10問あった。 好成績を収めると、天井から大量の紙吹雪が降り、海外旅行が贈られた。 正解数が少ないと、ナレーターが「きつ〜い一発」と称して行う強烈な質問に答えなければならない罰ゲームを課せられた(この時には落雷の演出が入った)。 」の2部構成になっていた。 スタジオセットの構成は、前期では解答席が画面左から右へ移動するパターン。 後ろの電飾は正解なら赤、不正解なら青が灯るというもので、不正解だとセット後ろにある巨大なハンマーを模したものが動き、それが解答者席にいるゲストの頭に直撃した。 もちろんハンマーは柔らかい材質でできている上に、頭に当たった時に入る衝撃音も単なる効果音だった。 後期では解答席は固定され、正解するたびに花びら状にランプが付く構成だった。 備考 [ ]• 放送第1回では、前番組『』の司会者・が大写しされた紙をぶち破って関口宏が登場し、「山城さんは火曜日に移りました」と前番組の放送曜日変更の旨を伝える演出があった。 1986年4月8日に18歳の若さで自らの命を断ったが最後にテレビ出演したのが、同年4月20日にオンエアされたこの番組だった。 当該回の収録は岡田の死の4日前にあたる4月4日に行われ、20日当日には一旦お断りの(収録日)を入れた上でそのまま放送。 岡田が「」を歌い終えた直後のシーンでは、「つつしんで岡田有希子さんのご冥福をお祈りします。 」というテロップが表示された。 2009年2月8日放送の特別番組『・あのシーンをもう一度! 伝説の高視聴率』で、本番組紹介時に「ちびっ子ドッキリインタビュー! 」でゲストに質問をぶつける子供50人がいる座席部分の映像が出されたが、への配慮から処理が施されていた。 その10年後の2019年2月1日に放送の『3時間スペシャル』の企画「2度と見られない! テレ朝60年奇跡の発掘映像ランキング」では、子供に対するぼかし処理はなかった。 2010年1月1日放送の『』、『』内の「ストライク・ミュージック」、『』といったテレビ朝日の懐メロ番組において流される1980年代の歌謡曲の映像は、多くがこの番組の映像である。 放送局 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年11月) 放送対象地域 放送局 系列 備考 製作局 1981年9月20日のサービス放送から 日本テレビ系列 1981年3月まで 新潟総合テレビ 現: 1981年4月から1983年9月まで テレビ朝日系列 1983年10月の開局時から TBS系列 1980年9月まで 日本テレビ系列 1980年10月の開局時から 静岡けんみんテレビ テレビ朝日系列 現: 日本テレビ系列 TBS系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 テレビ朝日系列 ・ 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 戦中継を優先して放送休止になる場合あり 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 TBS系列 フジテレビ系列 日本テレビ系列 TBS系列 フジテレビ系列 1982年9月まで テレビ朝日系列 1982年10月の開局時から TBS系列 関連項目 [ ]• - 初期の司会者が同じく関口宏だった。 脚注 [ ].

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